*...*...* Future 2 *...*...*
「あ、今日はわりと暖かいかな?」昼休み、私は森の広場で大きく息を吸う。
2月だというのに、今日は春の陽気だって、とお母さんも言ってたっけ。
立春を過ぎたら春、っていうけれど、実際はそんな日ばかりじゃない。
西の空は早くも黒い雲が太陽を待ち構えている。
高3の冬休みが明けて、周囲はいっそう受験勉強に熱が入っている気がする。
私自身、学校推薦をもらって星奏の附属大学の合格通知をもらったのは嬉しいけれど。
やっぱり心から喜ぶのは、クラスのみんなの進路が決まってからかな、って思う。
「天羽ちゃんたち、もうそろそろかな?」
自分が無事合格できたことをみんなにひけらかすつもりはないけれど、
仲良しのみんなには話しておきたい。
そう思った私は、今日は3人分のお弁当を作って、こうして森の広場で天羽ちゃんと冬海ちゃんを待っていた。
ひょうたん池の周囲は柔らかな陽に満ちている。
風がないこの時間は、とっておきのランチ日和かも。
「ごめんね。香穂、お待たせ!」
名前を呼ばれて振り返るとそこには天羽ちゃん、少し離れたところに冬海ちゃんもいる。
「いいよー。のんびり待ってたから」
天羽ちゃんは首にかかっているケータイを手で振った。
「ちょっと遅れそうだったから、何度かあんたのケータイにメールしたんだよ。届いてる?」
「ごめんね。そうだったの?」
私は慌てて携帯を覗き込む。そこには真っ黒な画面が私の顔を映していた。
「っと、香穂、これって、充電切れ?」
「うーん……。最近バッテリーの調子がよくないみたいで。ごめんね。今週末、バッテリー、買い換えようって思ってるの」
「そうなんだ。ま、寿命かもね。いっそのこと機種変もいいかも。なにはともあれ、香穂、合格おめでとうだよ」
「はい……。あ、あの、香穂先輩、本当におめでとうございます」
「ありがとう。天羽ちゃんと冬海ちゃんには話しておきたかったんだ。だけど、その……」
「なんでしょう?」
冬海ちゃんは私に素直な目を向けてくれる。
目の中に、私のことを好きでいてくれる気持ちが籠もっているような気がして、心がじわっと温かくなる。
「うん……。あのね。まだね、クラスの中では、その、進路先が決まっていない子も多くて……。
まだ、クラスではね、須弥ちゃんと乃亜ちゃんにしか言ってないの。
だから少しの間だけ、内緒にしておいてくれると嬉しいなあ、って」
「そっかそっか。あんたと話してるといつもヴァイオリンの話が出てくるから、勘違いしたくなるけど、
あんた、普通科だもんねえ」
天羽ちゃんはうんうんと首を振ると、真っ先につくねに手を伸ばしている。
隠し味にゴマ油を入れてみたけれど、どうやら彼女の口に合ったらしい。
私もようやくほっと息をつくと、端っこにあるプチトマトを口に入れた。
*...*...*
「うーん、やっぱりどこも空いてないよね……」この日の放課後。
私は練習室の予約表を見て、肩を落とす。
30分でもいい。どこか空いてるかな。もしかしたらキャンセルがあるかも。
そう思って何度も予約表を覗き込んでみても、結果は変わらない。
もっと早く。せめて昨日のウチから予約を入れておけばよかったのは分かってる。
だけど……。
大学入試を控えたこの時期、みんなが実技に集中したいっていう気持ちはイタイほどよく分かるし、
だったらなおさら、推薦合格をもらった私は、そんなみんなのジャマをしたら悪い、って思う。
「そうだ。外で練習しようかな。屋上とか!」
「……ははっ。その心意気は買うけどね」
「は、はい? あ、内田くん!」
独り言を聞かれていた恥ずかしさに慌てて振り返ると、そこには穏やかな微笑を浮かべた内田くんが立っていた。
珍しくヴァイオリンを手にしていない。
その代わり、年代物のような古い楽譜を何冊か手にしている。
「今日は雪になるって上条さんが言ってたけど、そのとおりみたいだよ?」
「本当だ……」
内田くんが指さす窓に目をやると、そこは中庭の緑も見えないくらいの粉雪が舞っている。
私が少しくらい風邪を引くのはどうってことないけど、ヴァイオリンの調子が悪くなるのは絶対避けたい。
この天気は、『練習決行!』って言い切れる天気じゃない、よね。
内田くんは、周囲に人がいないことを確認すると小さな声でささやいた。
「おめでとう。推薦入学が決まったって上条さんから聞いたよ」
「わ、ありがとう……。あの、なんだかごめんね」
「え?」
「うん……。その、みんながまだ頑張ってるときに、私」
内田くんは驚いたように目を見開いた。
「別に。君は君のベストを尽くしたまでだし。僕は僕の最善を尽くす。
結果が出るのに、早い遅いの違いはあるかもしれないけれど。
……ただ、それだけの話なんじゃないかな?」
「そ、そう、だね」
理路整然とした話し方に、私は須弥ちゃんが言ってたことを思い出す。
『アタシと谷くんって、ケンカが絶えないの。どうしたらケンカしないでいられるの?』
と聞く乃亜ちゃんに、須弥ちゃんは困り切ってたっけ。
『内田くんとケンカなんて、想像できないよ、私』
『は? どうして? この時期の男子ってすっごく子どもっぽいって思うこと、ないの?』
『うーん。ない、かも。内田くんってすごく大人って感じで。
私、思うんだ。音楽とか、なんでもいいんだけど、これだけは譲れないってモノがある人って、
その部分に引っ張られるようにして、どんどん大人になっちゃうのかな?
ほら、月森くんだって、妙に大人っぽいところ、あったでしょう?』
私は窓の外を見つめる。
ウィーンは冬が深い、って月森くん言ってたっけ。
『長い』でもなく『厳しい』でもない、独特な表現に、私はウィーンの冬を思って、言葉に詰まった。
月森くんも、ウィーンで頑張ってるのかな。
私も大学生になったら……。月森くんの目指している音楽の世界に、近づくことできるかな。
そうだ。また金澤先生にウィーンの話も聞いてみよう。
先生の話は、いつも映像を見ているように正確で丁寧で、聞いてて楽しい。
『香穂。俺って何度も同じ話、してないか?』
って聞いてくる先生に、私はいつもかぶりを振る。
真剣に尋ねてくる先生は、小さな男の子みたいで可愛い、なんてとても言えない。
「そうだ。近く月森が出演しているオケのDVDが送られてくる予定なんだ。良かったら君も欲しい?」
「え? 月森くんの? うん、欲しい!」
「了解。じゃあ君の分も準備しておくよ」
「ありがとう。……あ、あの、内田くんも、受験、頑張ってね。須弥ちゃんと一緒に、私、応援してる」
内田くんの目指している大学は都内でも有名な芸術大学。
毎年星奏からも何人か合格者は出るけれど、ピアノ科とヴァイオリン科は特に人気が高い。
毎年10倍を超える倍率だって聞いたことがある。
内田くんなら大丈夫。そう思いたいけれど。
自分の受験のこと以上に、内田くんの受験を心配している須弥ちゃんが目に浮かぶ。
私、内田くんの喜ぶ顔と一緒に、須弥ちゃんの笑う顔も見たいよ。両方、見たい。
「……日野さん、ありがとう」
私のエールに内田くんはふわりと笑ってくれた。
*...*...*
「練習、練習……。どこか、いい場所、ないかな……。そうだ。あそこにしよう!」私は学院中のあちこちを歩きながら、ある場所を思いついた。
今の私に練習のノルマはない。
だけど、どんなに金澤先生が褒めてくれても、コンクールで入賞しても。
私は、どこかその事実を自分のこととして受け止められないでいた。
たまたま、調子が良かっただけ。
偶然、審査員さんの好みに合っただけ。
本当なら、自分自身が1番、自分の理解者でなくちゃいけないハズなのに。
今、金澤先生の助言を聞きながら、音楽の道を歩き始めている自分が、ときどき信じられない。
今は、脆く崩れそうな砂の城を歩いているんじゃないか、って思えることがある。
気がついたら、金澤先生がいなくて。ヴァイオリンも朽ちていて。
今、私が手にしているモノ、すべてが無くなって、一人途方に暮れている。
最近、そんな夢をよく見るようになった。
「いっぱい練習して、いっぱい疲れたら、いっぱい眠ることができるよね……」
金澤先生を信じていない、っていうワケじゃない。
ただ……。
ときどき見せる、冷たい表情に。
突き放すような仕草に、不安が大きくなる日もある。
──── 金澤先生が、私から、離れようとしてる?
言葉にしたら、思いにしたら、現実になりそうな気がして、
私は考えを断ち切るかのようにヴァイオリンケースを強く握る。
私と金澤先生との関係。
もしこの関係を、クラスメイトや親しい人に自分たちの関係をオープンにしていたなら、
須弥ちゃんや乃亜ちゃんはどんな風に言ってくれただろう。
励まして、くれるかな?
それとも、笑い飛ばしてくれるかな?
香穂子は考えすぎ、って。気にしないの、って。
友だち思いの乃亜ちゃんだったら、もっと積極的な行動に出そうな気がする。
『よしっ。アタシが金やんに直談判してきてあげるよ!』
なんて。
金澤先生を好きになったことを後悔したことは1度もないけど。
普通の、ごく普通の学生同士の付き合いだったら、
今のような不安をどんな風に解決していったのかな。
──── 私の考え過ぎだったら、いいのに。
「誰か、いますか……?」
私は講堂のリハーサル室に向かうと、そっとドアを開けてみる。
ここは以前、練習室がいっぱいだったときに金澤先生が教えてくれたとっておきの場所。
寒々とした空気は、この部屋が無人であることを伝えてくる。
「ちょっとだけ、借りますよー」
私は明かりのスイッチと空調パネルを操作すると、そっと後ろ手にドアを閉めた。