*...*...* Breeze 1 *...*...*
「……まったく。創っても批判、壊しても批判、か」

 こんなとき喫煙の習慣のある人間というのは、自分自身を煙に巻くために、あの細長い代物に手を伸ばすのだろうか。
 あいにくと煙草に縁のない私は、手持ちぶさたにラミーの万年筆で机の端を2度叩く。
 インクを補填したばかりのせいか、少しだけ持ち重りする感覚が却って今の私を安心させる。

『今回ばかりは、新理事長の思惑が、まあ、少しばかり当たった、ということでしょうな』
『そうに違いありませんわ。第2の日野香穂子が出てこない限り、来年の入学志願者は例年通り、ということにもなりましょうから』

 昨年の秋、この星奏学院の理事に就任し、あと1ヶ月で任期1年を迎えるというこの時期。
 欲の皮だけが張った理事たちは、入学志願者の増加を盾に、この冬のボーナスの増額を連名で申し込んできた。
 私はプリントアウトした紙を改めて見つめる。
 どれだけ根回しをしたのかわからないが、ご丁寧にもその紙には、約過半数の副理事の名前が連ねられている。

 昨年の冬からのことを思い出す。
 あのご老体たちは、彼女に対して、この星奏学院に対して、一体どんなメリットを提供してきたというのか。

 『普通科の生徒を売り込む、と? ははは、なにを笑止なことを』
 『新理事さまは若いですなあ。成功したときのことしか考えておらんのでしょう。
  悪いことは言わん。……失敗したときのことも今1度考えてみたまえ』

 幾度となく繰り返した私の提案に対して、失敗したら、などという影のところばかり注視する。
 そんな、ろくでもない人間ほど、こういう呆れたことを臆面もなく言う勇気は持っていたりするから、余計たちが悪い。

 私はPCの画面からいったん目を外すと、コーヒーカップを手に西日が入る窓側へ向かう。
 夏休みの午後。
 南天に貼りついた太陽は正門前を容赦なく照らし、アルジェントの像は影絵のようなまっ黒なシルエットを作っていた。

 アルジェント・リリ。……音楽の妖精、か。
 もし、音楽の祝福という目には見えない恵みが、この世の中に存在するのなら。
 どうか、それを欲しているすべての人間に行き渡るといい。

「……おや?」

 突然、正門前の光を集めたかのような光線が瞬く、と思ったら、そこにはアルジェントが満面の笑みで浮いていた。

「ふっふっふ。吉羅暁彦! 今、我輩のことを考えたろう? だから、我輩、遊びに来たのだ! 久しぶりなのだ〜〜」
「……招かれざる客、到来か」
「な、なんと!」
「私になにか用だろうか? アルジェント・リリ」

 私はため息と共に、小さな生き物を見上げる。
 どうやら私が少しでも音楽のことに思いを馳せると、アルジェントは敏感にそれを察し姿を見せるらしい。
 今回ばかりは、そうなることを経験で何度も知っていながら、音楽の祝福がどうとか考えた私に落ち度があるのだろう。

 妖精というのは人間とは異なる時間を生きているからだろうか。
 目の前でせわしそうに羽を動かしているアルジェントは、見るからに涼しげで、暑さを感じないようにも見える。
 考えてみれば、夏も冬も同じ格好をしているから、寒さも感じないのだろう。

「い、いや、そのなんだ? 吉羅暁彦が難しそうな顔をしていたから、我輩は、その、なんだ?
 そ、そうだ、お前を元気づけにきたのだ!」
「それはご苦労なことだ。でももし、アルジェントに音楽の祝福を与えられる力があるというのなら」
「お?」
「……そうだな、私ではなく香穂子の方にその力を注いだらどうかね」
「日野香穂子は問題ないのだ! 夏休みだというのに、毎日熱心に練習をしている。今朝も早くから練習室で頑張っていたのだ」

 アルジェントは香穂子の音楽への姿勢が、まるで自分の手柄であるかのように何度も自慢げに頷いている。

「そうだ、日野香穂子が言っていたぞ。『あとで理事長室に行こうかな』と」
「香穂子が?」
「そうだな。なにか考え込んでいるような様子だったから、我輩、少しだけアドバイスをしてやったのだ!」

 私が星奏学院の一生徒である香穂子と付き合い出してから、かれこれ3ヶ月。
 付き合うという段階の中で、今が1番楽しい時期なのだろうかと、ふと自分の今までと比べて考え込むことがある。

 大人の恋愛なら何度も経験してきて、それなりに耐性はできているつもりだったが。
 香穂子と付き合い出してからの私は、自分でもおかしい。

 切望の先には失望があるのではないか。
 もっと言えば、お互いを求めた先にあるのは別れしかないのではないか。
 歳を重ねている分、幾ばくかの不安を抱えて付き合い出した香穂子との仲は、
 意外なことに、私の思ってもみない、『良い』方向へと転がり始めているのを感じていた。

 今までの恋愛と、香穂子とは何が違うのか。
 私は仕事進めるときの手法で香穂子との関係を考えたことがある。

 ──── だが。

 アルジェントという音楽の妖精が取り持っている仲だから。
 それだけでは、まったく説得力に欠ける。
 私と香穂子はこの星奏学院を背負って立つ、いわば共同経営者のような間柄だから。
 というのも空々しい契約事のようにも感じる。

 私はそろそろ、自分の中における香穂子の存在の大きさを認める時期に来ているのかも知れない。

 認めるという行為は、ときに不安も一緒に連れてくるらしい。
 共にいる時間に、これほどの幸せを感じられる相手。
 だからこそ、神はまた無情にも私から香穂子を取り上げてしまうのではないかとさえ思える。
 ……そう、私たち家族から姉を奪っていったように。

「吉羅暁彦?」

 そう考えると、内側に生じた高まりを制御するのが途端に難しくなる。
 彼女とは昨日も逢ったというのに。
 そして彼女の心も、身体をも確かめたという自信があるというのに。

「吉羅暁彦〜〜! 聞いているのか?」
「ちゃんと聞いているが何か?」
「お? おお。それなら良いのだ! 日野香穂子のことを頼む、なのだ〜〜」

 こまっしゃくれた口を叩く妖精は、周囲に金色の粉を振りまくと窓の外へと吸い込まれていった。
*...*...*
 夏休みも中盤というこの時期。
 学院に勤めている教師たちもお互いに予定を調整し合って長い休みを取る。
 こういう人少なな時間というのはいい。
 面倒な会議も、人の都合も考えず突然割り込んでくる電話もない。
 いわば、自分が引いたレールの上を粛々と進む車両のように、自分の仕事が捌けていく。

 金澤さんはといえば、どういう風の吹き回しか、今年は長期に休みを取ってイタリアに行くと言っていた。

『なあに、この年になるとデトックスってのも必要なんだなあと思ってさ』
『デトックスですか? なにやら用法が違っているようにも思いますが』
『いや、なんだ。俺も人生の棚卸しの時期に来たのか、とシミジミしているところさ。お前さんが俺の歳になるのもあっという間だぞ〜』
『……確かに私が金澤さんの歳になるのはあっという間でしょうね。なにしろ少ししか歳が変わらないのですから』

 どういう感情が金澤さんを動かしたのかは想像するしかないが……。
 飄々とした先輩の背中が目に浮かぶ。
 ──── どうか、この夏が金澤先輩にとって実りある日々になるように。
 ……と私が考えていることなど、金澤さんは気づくこともないだろうが。

 かすかなノックの音に顔を上げると、ドアの向こうに人の気配がある。

「……はい。どうぞ」

 昼1時を少し回った時間。この時間に私を訪ねてくる人間に心当たりはない。
 だとしたら、ノックの主は午前中にアルジェント・リリが告げていた香穂子なのだろうか?

「失礼します。日野です」

 私が想像していた姿が、ドアの隙間から顔を出す。
 今、私はどんな顔をしてこの女生徒を迎えているのか、自分でも想像が付かない。
 第三者が私たちの仲を察してしまうようなことにならないといいのだが。

 香穂子は眩しそうに目を細めると、私に向かって一礼をする。
 いつまでもこういう律儀なところは、大いに私を満足させ、そして少なからず残念がらせる。
 もう少し慣れてくれたらいい。近づいてくれたらいい。
 だが、今のままでいて欲しい。馴れ合いの先には失望が待っている。
 そんな気持ちの繰り返しだ。
 香穂子は、私の愚かな考えの支点に立って、絶妙な位置で戸惑っているようにも見えてくる。

「こんなところに、どうしたんだね」
「ごめんなさい。仕事中に」
「いや、解きようのない計算の解を求めていたようなものでね。ちょうどいい。コーヒーでも?」
「ありがとうございます」

 私は眉間に寄っているであろう皺に指を当てると、大きく息を吐く。
 オンとオフ。最近はどうもこの2つの敷居が低くなっている気がする。
 できるだけ、香穂子の前では『理事』という私の立場を出したくない。
 たとえそれが理事長室の中であってもだ。

 私は立ち上がるとコーヒーサーバのある棚へ向かおうとして、机上にあった書類に目をやる。
 香穂子も知っている理事たちの名前が並んでいる。
 彼女が字も読めないくらい幼い女の子ならこのままでもいいが、そうもいくまい。
 私は内心舌打ちをしながら、さりげなく書類を右上の引き出しに滑り込ませた。

 香穂子は心配そうに私の様子を見つめながら、ソファの端に腰を下ろす。

「香穂子、練習は進んでいるだろうか?」
「はい。あ、ほら、昨日いろいろ助言してもらったように、ちょっとピッチを変えてみたんです」
「そうか。私の助言はそれなりに価値がある、ということだろうか」
「はい」
「最近の私は……どうも、音楽そのものに対する造詣が浅くなっているようだ。仕事に熱心になりすぎるというのも問題だな」

 私の言葉に釣られるように、香穂子はおどけるように口を開いた。

「はい……。さっきの吉羅さんの顔、少し怖かったですよ?」
「は?」
「厳しい顔をしてて。お仕事をする男の人ってそういうものなのかなあ」
「そんな顔をしていただろうか?」
「はい……。だから、あの」

 背後から香穂子の声がする、と思ったら、突然身体に巻き付いてきた白い腕に気づいた。

「香穂子?」
「こう、したくなりました」

 香穂子の顔を見るために少しだけ屈んだ腰。
 逆に香穂子は精一杯の背伸びをしていたのだろう。
 同じ高さで視線が合う、と感じたとき、私のこめかみを春風のように柔らかいものが通り過ぎていった。
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