*...*...* Breeze 2 *...*...*
人が少ないのをいいことに、思い切り廊下を駆け抜ける。し、静まれ、心臓! もっと、そう、落ち着いて。ちょうど今練習しているフレーズのように。
私は何度か階段を下りて、最後に廊下の角を勢いよく曲がると、壁に背中を預けて息をついた。
──── 本当に、自分でも信じられない。
いきなり、その……、吉羅さんのこめかみにあんなことするなんて。
もう1度やるように言われたって、きっとこんな勇気、もう2度と出てこない。
それにしても、私もどうかしている。
吉羅さんのことを考えると苦しい。考えないのも苦しい。
そう言う私にリリは、何度もしたり顔で頷いている。
『恋も音楽と一緒なのだ! 自分の気持ちを素直に表現することが大切なのだ』
『だ、けど、リリ……』
『恥ずかしがることなどないぞ? 日野香穂子とのキスのあとの吉羅暁彦を知っている我輩としては、だ』
『も、もう、それ以上言わないで? 恥ずかしいよ』
仕事中というのは、私がまだ知らない男の人の聖域みたいで、緊張する。
いくら夏休みとはいえ、用事もないのに入り込むのはどうかと思わないでもなかったけど……。
今日は理事長室でずっと仕事をしていると昨日聞いていたから、
『夏休み』を言い訳に、私はそろそろと理事長室に向かった。
だけど、理事長室に入る前も入ってからも、リリが言っていたことを実行する気もなかった。
でも、吉羅さんの厳しい目をした顔を見て。
仕事をしている男の人は、私のことを考えている隙間がこれっぽっちもないみたいで、ちょっと淋しくなった。
ううん、それ以上に、吉羅さんがとても愛しくなったんだ。
「やっと見つけた。……ここにいたのか」
「ひゃ! き、吉羅さん?」
ようやく息が落ち着いてきたから、とそっと、廊下を覗き込むと、ちょうどそこには不機嫌そうに眉を顰めた吉羅さんが立っていた。
理事長室からはかなりの距離を走ってきたはずなのに、どうしてわかっちゃったのかな……?
「ごめんなさい。先に謝ります。仕事中にごめんなさい!」
「突発的な行動というのは、なにかしら理由があるものだ」
「はい?」
「私としては、アルジェント・リリから君がどんな入れ知恵をしてもらったのか聞かせて欲しいところだな」
「えーっと……。ごめんなさい。リリは悪くないんです。私が」
「香穂子が?」
じっと顔を覗き込まれる。
初めて会ったとき、冷ややかな、射るような悲しい目をしている、そう思った。
だけど、今は違う。
どんな話でも、私のことを理解しようと努めてくれる強い目をしてくれている、そう思える。
「あの、……私、吉羅さんのことが好きだなあ、って思ったら、つい……。ごめんなさい」
「は?」
「えーっと、その。吉羅さんがなんだか疲れてるみたい、って思ったら、身体が勝手に動いてて」
言ってる自分自身、まるで子どもみたいで情けなくなる。
もう、まともに吉羅さんの顔を見ていられないよ。
「君は……」
吉羅さんがどんな顔をしてるかと思うと、目を合わすのも恥ずかしい。
だけど、聞かなきゃわからないもの。
私はふぅ、と息を吐き出すと、思い切って顔を上げた。
「本当にごめんなさい。……呆れました、よね?」
「呆れた」
「うう……」
間髪入れない返事は、ますます私を落ち込ませる。
もしかして、私、吉羅さんに嫌われちゃったのかな?
これって、あとから挽回できるのかな? というか挽回する機会ってあるのかなあ……。
「あ、あれ? なんだろう?」
遠くから、賑やかな足音こちらに向かってくる。
「やっぱ、今年イチバンのアイスって言ったら、『グリーンアイ』でしょ! ミントとパイナップルって意外に良いコラボだったよ」
「そうかなあ? この暑さだもの、ソーダ系は譲れないよ!」
明るい声は、女の子の2人組?
カフェテリアの飲み物を何にするか、話し合っているらしい。
途切れ途切れに、新作のアイスクリームの名前が聞こえてくる。
吉羅さんは、やれやれといった風に首を振ると私の髪の毛をかき上げた。
「あ、あの? 吉羅さん?」
「年下の君にここまでされて、されっぱなしというのも私の性に合わない」
「え……?」
吉羅さんはそう言って、あらわになった私の耳をぺろりと舐めた。
「──── 今夜11時。私の方から電話する」
*...*...*
ネクタイの結び目に手を当てながら、吉羅さんは足早に廊下を後にした。えっと……。ニブいかも、だけど、やっぱりよく分からない。
吉羅さんは怒ってるの? それとも、もう怒ってないのかな?
「……香穂さん」
「わ! あ、あれ? 加地くん?」
廊下の1番奥。日頃は滅多に開かないドアが開いたと思ったら、そこから文庫本を手にした加地くんがひょっこり顔を出す。
そっか。まだ加地くんが転校したばかりの頃、この普通科の屋上は、本を読むのに最適な場所だ、って教えてもらったことがあったっけ。
加地くんお薦めの本も何冊か貸してもらって。
所々に入った彼の自筆の解説は、とてもまっすぐ私の中に入ってきて、今も何かの拍子に思い出すこともあるくらい。
ちょうど逆光になっているからか、彼の表情までは読み取れない。
だけど暗い声のトーンは、いつもの加地くんとは別人のように沈んだ空気を醸し出していた。
「あ、えっと、夏休みなのに、加地くんも学校に来てるんだ。あ、そうだ、ヴィオラの練習で?」
「うーん、僕が学校に来ている理由か……。『香穂さんに会いに』って言ったら信じてもらえるかな?」
「あはは。また、そんなこと言うんだ」
笑いながら相づちを打つと、加地くんは一瞬笑顔になってくれたものの、やがてすぐ口元を引き締めた。
「事実は小説よりも、とはよく言ったものだね。まさかこんなところで、僕は1番知りたくなかった事実を知ることになるとは思わなかったよ」
事実が何を指しているのかを、私の頭は数秒後に理解する。
さっき吉羅さんの唇に含まれていた耳朶が、慌てるように熱を増した。
「いや。1番知りたくなかった、は嘘かもね。本当は、1番知りたかった事実、なのかもしれない」
どうしよう……。どうしたら、いいの?
私は理由もなく耳を髪の毛で隠すと、おそるおそる加地くんを見上げた。
「その……、見てた、の?」
吉羅さんとそういうこと、になってから、やっぱり第1に気にしたのは、この事実を学校のみんなに知られたらどうしようということだった。
学校のみんなというのは2つのグループがある。
1つは私の周囲のみんな。そしてもう1つは吉羅さんの周囲の大人たち。
どちらに知られても同じくらい困ってしまう、と思う。
加地くんは弱々しそうに微笑むと、かぶりを振った。
「君が吉羅さんと付き合っているからと言って、僕は誰にも言う気はないよ。ただ……」
「ただ?」
「僕の隣りに君がいないという事実に、折り合いを付ける方法を模索中、というところかな」
硬い表情を浮かべていたのだろう。
加地くんは、私を元気づけるように、そっと頭に手を載せた。
「もっと君のことが好きではなかったら、今見たことを条件にしていろいろ君に交渉するのにね。
僕とデートしようか、とか、その先のことまで」
「加地くん……」
「だけど、吉羅さんのものの君を抱いても、余計自分が惨めでしょ?」
『抱く』という言葉に、反射的に身体が震える。
改めて見る加地くんは、吉羅さんと同じくらい背も高くて。
入学してきたときは高2だった彼も、1年が過ぎようとしている今は、男の子から男の人に変貌してきているみたい。
加地くんは、かつん、と小さな足音を立てて、半歩私に近づいた。
同じ距離だけ空けようと、半歩下がって、私は壁にぶつかる。
少しだけがっしりとした肩は、逃げようと思っても逃げられないような威圧感がある。
「私、もう、行かなきゃ。その……、そうだ、練習室の予約があって」
裏返ったような声がおかしい。迫ってくる加地くんの胸板、私、押しのけることができるのかな。
「ふふっ。冗談。すっかり怖がらせてしまったみたいだね。謝るよ」
長いような短いような不思議な時間が過ぎたあと、加地くんは、ふっと私から離れると小さく笑う。
「じょ、冗談だよね、うん……、緊張した」
「だけど、冗談じゃない話も1つ、聞いてくれる?」
加地くんも、吉羅さんと同じだ。
普段はふわりと優しい表情を見せてくれるのに。突然、鋭い目つきで私に真っ直ぐ向かってくる。
そのたびに、不安になる。
この人は私の知っている人? 知らない人? どちらなんだろう、って。
形の良い唇は、歌うようになめらかに言葉を紡ぐ。
「今の君はあまり考えたくないことだろうけれど……。そして僕は、といえば、1番願っていることかもしれない。
──── 君が、今の人と別れることになったら、真っ先に僕に教えてくれるかな?」