*...*...* Gelato 1 *...*...*
 古典の先生は疲れた調子で平家物語の一節を黒板に書くと、ぼそぼそと説明を始めた。
 午前中最後の授業は、ぬるま湯のように穏やかに進んでいく。
 ぼんやりと見ていた教科書の上、影が差したのを見て、僕は窓の外に目をやった。
 ときどき、はちきれんばかりにふくらんだ浮き雲は、誇らしげに陽差し隠して悦に入っている。
 そんなことをして、太陽に勝ったつもりでいるところが可笑しい。

 僕はゆっくりと視線を教室の中に戻す。
 隣りの席にいる香穂さんはといえば、真剣な顔で黒板の文字を目で追っている。
 彼女の近くに顔を寄せれば風が送られてくるんじゃないかと思うほどの豊かなまつげは、香穂さんをより黒目がちに見せている。

『あの……。最近ヴァイオリンばっかりでなかなか勉強する時間が取れなくて。
 だから、できるだけ授業の中で理解できるといいな、って思って……』

 僕の憧れて止まない人は、どうやら性格までも優れているらしい。
 天は二物を与えずって、才能を持っていない人への励ましの言葉だよね。
 持っている人間は、才能が才能を呼ぶのだろう。数多くの優れた特性がある。

『頑張り屋なところは君の美徳だとは思うけど。どうかあまりムリはしないで』
『私、あまり要領が良くないから……。加地くんはいいなあ。来年の受験もバッチリじゃないかな?』

 香穂さんは、屈託なく笑う。
 確かにね。僕はかなり要領のいい男だとは思うけど。

 ──── だけど。

 僕が欲しい、と願うモノは、その思いが強ければ強いほど叶わない、って最近知った。
 音楽もそう。そして、香穂さんもそう。

 僕は夏休み中に、偶然見た風景を思い出す。
 普通科の屋上というのは普段使われない場所で、律儀にカギがかかっている。
 そんなところをわざわざ開けて、しかも取り立てて、その場所に用があったわけでもない僕が忍び込んでいたのを知られでもしたら、
 聞いてて愉快とは言えないお小言を食らうことは目に見えてる。

 厄介なことは願い下げとばかりに、僕は音を立てないように細めにドアを開けた。
 そこで目に入ったのは、大きな焦茶のスーツ。普通科のスカート。
 そして秘め事をささやく男女の声だった。

『──── 今夜11時。私の方から電話する』

 女の子の方の声は聞こえない。だけどやけに親密そうな雰囲気は、ドアを隔てた距離からでもわかる。
 2度、3度、甘い果物を咀嚼するような音が続いて、男はその場を去ったらしい。
 女の子は赤らんだ頬のまま立ち尽くしている。

 僕は、その女の子が香穂さんだと認めるのに、どれだけの時間を要しただろう。

『って、加地の転校ってそんな理由があったワケ? それってストーカーっぽくね?』
『ああ、そうだよ。彼女はそれだけ素敵な女の子だからね』

 夏休み、僕は星奏のみんなと遊ぶ時間と同じくらいの時を、以前の男子校のヤツらと過ごした。
 国立の附属高っていうのは全員がエスカレーター式に大学に行ける、というわけではないから、結構マジメに勉強しているみたいだ。
 そんな中、僕の転校の話は、使い古されたタオルのように何度も悪友の話題に上る。

『で、どうなんだよ。お前、その『素敵な子』やらと念願叶って成就したのかよ?』
『全然。今、彼女は別の男のモノだよ』
『って、お前、それじゃ転校した意味がないじゃん?』
『いいんだよ。僕は彼女の近くにいられるだけで幸せなんだから。
 ……さ、お前たちもそろそろ軽口叩いてないで、終盤戦、行ってみる?
 ほら、国語の問題で僕に聞きたいことがあったんじゃないの?』

 何気なく話題を逸らしながらも、僕は『転校したことの意味』について考えていた。

 香穂さんの音楽を身近に聴くことができる。それは僕に十分すぎるほどの豊かな時間をもたらした。
 共にアンサンブルを組んだ仲間たちと出会えたこと。
 自分に音楽の才能がないという事実を認めるのは、正直治りかけていた傷口をもう一度開くような切なさがあったけれど、
 別の視点からしてみれば、自分と音楽との共存を考える、いい機会にもなった、と思う。
 だけど。
 どれだけ理屈を重ねても、音楽という枠を超えた香穂さんにも惹かれ始めていた僕の一部は、確実に途方に暮れ、戸惑っている。
 ──── どうして、僕は、彼女の1番近くの存在になれなかったのだろう、って。

「あ、あれ? もしかして……」

 前にずらりと並んでいる級友たちが、ざわざわと机の中を弄っている。
 見渡すと、どうやら、教師から教科書の副教材を出すように、という指示があったらしい。
 香穂さんは、おろおろと机の中を見てため息をつき、パラパラと教科書をめくった。

「ふふ、どうしたの? 香穂さん」
「あのね、今、先生から言われた副読本、昨日天羽ちゃんに貸してそのままになってたの。まさか今日使うなんて思わなかったなあ」
「なんのために僕が隣にいるの。僕のを一緒に見ればいいよ」
「いいの? ありがとう!」

 僕は約30センチ離れている机をゴトゴトと香穂さんの机に付ける。
 9月とはいえ、今年の残暑はまだまだ続くのだろう。
 昼休みに近づいていく時間帯の香穂さんは、上気した頬の上、うっすらと膜が張ったように美しい。

 僕は自分に言い聞かせる。
 手を伸ばさなくたってすぐ届く位置に香穂さんは、いる。
 だけど、僕は香穂さんを手に入れることができない。
 僕にとって香穂さんの存在は、近くにいるのに決して手で触れることができない、理想の音そのものなのだから。

『ってお前、賢いヤツなのに、どうしてそんな風に音楽に関してだけは後ろ向きなんだよ。
 自信ってのは実力を引き立ててくれる。自分自身が自分の音楽を好きにならないでどうするよ』

 土浦のため息混じりの感想を思い出す。
 だけど、僕は知ってるんだ。
 どんなに頑張っても、僕は音楽を極めることはできないし、香穂さんを手に入れることはできないってね。

 僕は香穂さんの柔らかな髪を見つめながら、ぼんやりと空想にふける。
 僕がまだ生まれる前。母さんの内側に入る前のもっと以前。
 まだ、赤ん坊にもなっていない子どものかたまりたちは、願いを込めて贈り物を作る。
 生まれ落ちた世界で、僕も何かの役に立てますように、と。
 『贈り物』とは、この世界でいう『才能』みたいなもの。
 ある子は『優しさ』だったり、また、ある子は『英知』だったりする。
 身体全体を使って粘土細工のように、ぺたぺたと贈り物を作り出す光景は、想像するだけで僕を幸せな気持ちにしてくれるのに。
 なのに、僕はいつもそこで苦々しい想いを抱いてしまうんだ。
 どうしてそのときの僕は、『音楽の才能』を作らなかったんだろう、って。

「……加地くん?」
「え? ああ、なあに、香穂さん」
「あのね、授業終わったよ? 本、どうもありがとう。助かっちゃった」

 香穂さんは副読本の表紙をそっと撫でると、向きを変えて僕に渡してくれた。

「ふふっ。そうだなあ。僕に感謝してくれる、って言うなら……」
「なあに?」

 たかが、本を見せた。それだけのことなのに。
 ……香穂さんは優しい人だから。
 だから、今の香穂さんなら、僕の誘いを断らない。
 そんな気がして、僕は香穂さんの顔に口を寄せた。

「香穂さん。僕の我儘にもう少しだけ付き合ってくれる?」
*...*...*
「わ……。良かったのかな、こんな風に学校を抜け出して」

 正午の太陽が真っ直ぐに照りつける昼休み。
 僕と香穂さんは、ふとゆるんだざわめきの中を縫うように走って北門を通り抜ける。
 正門と真逆の位置にあるこの場所は、昼でも少し薄暗くひんやりとしている。

「いいよいいよ。もし誰かに見つかったら、僕のせいにすればいいんだから」
「ううん? そんなの、加地くんに悪いよ」
「いいんだよ。勉強もヴァイオリンも頑張っている香穂さんに、ちょっとエールを送ることくらい神さまも許してくれるって」
「うん……」
「香穂さん、ほら、手を出して?」

 余計なジャマが入るのは面倒だ、と僕は、思わず香穂さんの手を握って走り続けた。
 ちょっと無理をさせたのか、香穂さんは息を上げて僕の後をついてくる。
 2回大きな角を曲がったところで手を離すと、香穂さんは苦しそうに肩を上下させている。

「どこに、行くの?」
「最近、オススメの店があるって、以前の学校の友だちから聞いたんだ。
 知ってる? ジェラートって、ビタミンとかカルシウムもたっぷり入ってるんだ」
「そうなの? えっと……。アイスクリームとは違うの?」
「そうだね。フルーツ系のジェラートならビタミンが、ミルク系ならカルシウムが多いんじゃないかな」

 友だちから得た知識を、僕はさらさらと口に乗せる。
 悪友と僕、それに女の子2人。グループデートで食べたとき。
 僕の目はすぐ近くにある女の子の笑顔を通り越して、香穂さんを見ていたんだ。
 ──── 彼女なら、どんな風に笑ってくれるだろう、ってね。

「到着。ここだよ?」
「わぁ。こんなお店あったんだ。知らなかったな」
「うん。8月中にオープンしたんじゃないかな。ほら、店内にもポスターがある」
「きれい……。ジェラートってこんなにたくさん種類があるんだ」

 香穂さんは目をくるくるとさせて店内を眺めると、ジェラートが詰められているショーケースを見て思い切り目尻を下げた。

 ……そう。君のそんな顔が見たかった。
 夏休みが始まる前から気づいてた、香穂さんの表情。
 授業の間や、昼休みのカフェテリア。放課後の音楽室。
 香穂さんは、ふっと優しげな表情を浮かべることがあった。
 ヴァイオリンが上手く弾けた、とか、中間考査が良くできた、とかそういう即物的なモノではない、優しく、儚い、顔。
 照れたような、だけど、恥ずかしがりながらも続きを待っているような表情は、僕の知っている香穂さんではなかった。

 女の子から、女の人へと変わっていく、面輪。
 夏休みに偶然見た、香穂さんと1人の男の姿が、脳裏に浮かぶ。
 そうか。香穂さんをこれほど美しくしたのには原因があったんだ、って。
 そして、僕はその原因にはなれなかったんだ。

 香穂さんは満面の笑みで振り返ると、ショーケースを指さした。

「どれもみんな美味しそう。加地くん、どれにする?」
「あ、ああ。そうだな、じゃあ、ブラッディオレンジにしようかな」
「ブラッディオレンジ……、シチリアのオレンジ100パーセント、だって」

 ショーケースに額を寄せている香穂さんは、あどけなさに満ちている。
 高2の時に出会って。共に奏でた4回のアンサンブル。そして、冬のオーケストラ。
 その後も彼女は、順調に栄光への階段を登っている。
 そう……。彼女の大切な人が引いたレールの上を、まっすぐに進んでいるように見える。

 来週には大きなヴァイオリンコンクールの決勝があると、音楽科に転科した土浦から聞いた。
 普通科にいる彼女は、周囲のみんなに気を遣っているのか、自分からヴァイオリンのことを話題にすることはない。
 僕とは違う清廉さは、彼女の音楽性にも繋がっているのかな。
 ヴァイオリンを手にした彼女と、今、僕の目の下で、うんうんとジェラートを悩んでいる彼女はまるで別人。

 じゃあ、あの人の愛撫に応える彼女は、僕の知らない彼女なのかな。

「香穂さんは決まった?」
「ん。さっぱりしたのが食べたい気分だから、私、グレープフルーツにする」
「ご注文を繰り返します。カレシさんは、ブラッディオレンジ、カノジョさんは、グレープフルーツですね」

 ヤケにテンションの高い店員さんは、手際よくコーンの上にジェラートを盛りつけると、僕たちに手渡した。
 『オレンジ』なんて名乗るのが恥ずかしいほどの深紅と、白雪のようなジェラートが夏の陽差しの中、優しく溶け始める。

「ありがとうございました〜。暑いですし、少しだけ、オマケしました」

 店員さんは鼻の頭に汗を浮かべ、笑っている。
 香穂さんも笑う。僕も笑う。



 なんでもないような普通の風景なのに、数年先の僕はこの景色を覚えているような気がした。
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