(──── 終わった……)

 私は肩からヴァイオリンを降ろすと、観客席に向かって深く一礼をする。
 おやおやと眉をひそめる柚木先輩の顔が浮かんでくる。
 本来なら、もっとチャーミングに、威厳を持って軽くうなずくくらいの礼をするのが好ましい、って何度か先輩からは助言を受けた。
 だけど、今の私はカッコよくやろう、なんて余裕はどこにもなかった。

(こんなに気持ちよく演奏できたのは初めてかも)

 曲想を追いかけると、その先には吉羅さんの後ろ姿が見える。
 追いつきたくて足を速める。
 やっとのことで手と手が触れ合ったと思ったとたん、吉羅さんは苦笑を交えて皮肉な言葉を投げてくる。

『やれやれ。君は今も私のことを信用していないのかな?』

 違うんだもの。
 素直に、真っ直ぐ信じていられることが幸せで。そんな自分が温かくて、かけがえの無いものにも思えて。
 だけど、吉羅さんに触れることで自分をもっと納得させたいんだ。
 大好きな人は、こんな近くにいてくれると。

(あれ……?)

 おそるおそる顔を上げる。
 いつものコンクールだったら、顔を上げる前から、優しい拍手が降ってくるのに。
 どうしたんだろう。辺りは静寂に包まれている。
 これってやっぱり、柚木先輩の言うとおりにキレイなお辞儀をしなかったせいなの?

「……ブラーボーー!! 素晴らしい」
「おかしいわ、私……。なんだか涙が出てきちゃった。ブラボー」

 きょろきょろと辺りを見回して、袖へと向かう一歩を踏み出そうかどうしようか迷っていたとき、
 観客席から、私の身体が揺れるような歓声が響いてきた。
 審査員席のちょうど後ろで、満足そうに笑みを浮かべている吉羅さんが見える。
 音楽界の甲子園と言われているこのヴァイオリンコンクール、ソロ部門。
 私は順位よりも、吉羅さんの笑顔を見られたことに満足していた。
 
*...*...* Sin 1 *...*...*
「香穂! やったねあんた、スクープだよ。これは!!」
「あれ? 天羽ちゃん。どうしたの? そんなに慌てて」
「これが慌てずにいられますか、って。今日くらい学校を休んで、家でゆっくりしててもよかったのに」

 月曜日の昼休み、天羽ちゃんは息せき切って私の教室に入ると、『捕獲成功〜』と私の腕をがっしりと掴む。

「うん。じゃあ、ランチ一緒に行こっか。私、今日はお弁当、持ってこなかったの」
「って、あんたあれだけ頑張っておいて、今朝も早起きする気だったの?」
「うん……。コンクールのあとって、気が高ぶってしばらく眠れないんだー」
「よし。じゃあ、件の輩が入り込まないうちに、場所、移動しよっか」
「ふふ。『件の輩』って、僕のこと? 残念ながら、君の思惑どおりにはいかないよ」
「あ、加地くん。おっかえりーー! この天羽、あんたが来る前に香穂を拉致ろうって思っていたのさ」

 加地くんは、特別教室から走って教室にやってきたのだろう。
 はらりと落ちた前髪をかき上げて笑っている。

「天羽さん、ずるいよ。僕も香穂さんの話を聞きたいと思ってたのに。
 どうして、よりによって今日は朝から選択授業が続いたんだろうね。情けないよ。
 昨日は昨日で父さんのイベントに引っ張り出されて、香穂さんの晴れ舞台を見ることができなかったし」
「ふふふ、甘いな加地くん。それは天啓なんだよ。アタシの記事を楽しみに待ちなさい、って」
「うーん。今回はそういうことにしておいてあげるよ。天羽さん、記事楽しみにしてる」
「よし。期待されると腕が鳴る、ってもんよ。任せておいて! 香穂、じゃあ、早めに席、ゲットしよう?」
「うん。……じゃあ、加地くん、行ってくるね」
「オッケー。僕も誰か誘ってあとから行くよ」

 カフェテリアに行く途中、天羽ちゃんはスクープのネタなのか、それとも純粋な好奇心なのか、
 それとも、友だちとしての私を思いやってくれてるのかわからないような質問を次々と投げかけてくる。

「で、コンクール優勝おめでとう! 今回のコンクールってスカラシップ付いてるよね。香穂はどうするの?
 学院を卒業してから? それとも卒業する前に留学とかするの? そしたらあの人とはどうなるの?」
「は、恥ずかしいよ……。ちょ、ちょっと、待って、先に、メニュー選ぼう?」

 天羽ちゃんの声は良く通る。私は彼女の袖を引っ張ると、パスタのコーナーへ行って、今日のランチを頼んだ。
 天羽ちゃんは『取材料』だと言って、気前良く私の分まで出してくれる。
 ナスとアスパラのトマトパスタ。すごく美味しそうだけど、ソースが飛ぶと大変かも。気をつけて食べなきゃ。

 私たちは窓側に残っていた最後のテーブルを確保すると、向かい合って座った。

「で? で? どうよ、香穂」
「まだ、私、あまり考えてなくて……。だって、優勝できるなんて思わなかったんだもの」
「またまた。報道部の天羽菜美としては、すでに周囲のコメントとして衛藤くんの話は収集済みだよ」
「そうなんだー」

 今回、衛藤くんは1ヶ月先のコンクールに焦点を絞っているとかで昨日のコンクールには参加しなかった。
 そう……。
 もし、昨日のコンクールに衛藤くんが参加していたら、私が優勝できたかなんてわからない。
 彼の実力は、入学してからも夏のひまわりみたいに伸び続けている。

「彼、辛口批評だけど褒めてたよ。……少しクヤしがってもいたかな?」
「クヤしがる、って……。どうしてだろ? ああ、衛藤くんが参加してたら優勝できたから、かな?」

 お皿の上、トマト色のパスタはクルクルとフォークに絡む。
 ナスとアスパラは取り残されたようにお皿の中央に佇んでいる。
 私はぱくりと一口でパスタをほおばると、今度はナスを目がけてフォークを動かした。
 秋ナスって美味しいんだよね。真夏のコよりも柔らかくて優しい。

「違う。あの子、察してるんでしょ? あんたと吉羅さんの関係を。
 『暁彦さんって偉大だよな』って独り言、言ってたから」
「ほ、本当?」

 美味しい、と感じていたナスは、驚いたように一気にのどの奥を通り抜けていく。
 うう、あまり味を感じることができなかったような……? そ、それより!

「その……。吉羅さんってそういうことをあまり人には話さないような気がするんだけど、本当に衛藤くん、知ってるのかな?」
「うん。だから、私言ったでしょ? 『察してるんでしょ?』って。あの子って実年齢よりも老成してる感じがするし。
 ま、いいや。その辺りのことはアタシがまた衛藤くんに聞いといてあげる。
 で、アンタはどうよ。今回のコンクールは、結構いいスカラシップが付いてる、って衛藤くんは言ってたけど」
「だけど、私、考えられないよ。その、留学なんて」
「そっか。素人のアタシからしてみても、このスカラシップを蹴るのはモッタイナイ、って思うけど……。もう決心は固いの?」

 天羽ちゃんはサラダを手前に引き寄せると、目を輝かせて私の口元を見つめる。

「うん、あのね、よく分からないんだけど、こういうのはすぐ断るのも失礼に当たるんだって。
 留学をするとしても、来年の1月から、ってお話で、その、年内いっぱいに返事をすればいいんだって」

 なんでも素早い決断をしたい天羽ちゃんにしてみれば、まどろっこしい方法なのだろう。
 納得がいかないような表情で首を振ると、のどが渇いたのかグラスの水を勢いよく飲み干す。

「そうなんだー。なんだか大人の事情っていうの? 難しいな。
 アタシからすれば、辞退する子がいるなら、次の順位の子が繰り上げ当選、って形にすればいいのに、って思うよ。
 今は9月の上旬だから、えっと? 3ヶ月の間に返事を考えればいい、ってことね」

 そして、あらかじめ何個か質問を考えておいたのだろう。
 あとは2つ、3つ、昨日のコンクールの雰囲気や、学院についての感想を尋ねると、ICレコーダーの電源を切った。

「それで。ここからはオフレコ。……香穂がこの留学話を蹴る理由は、やっぱり、あの人のこと?」
「天羽ちゃん……」

 昼休みもそろそろ終わりそうな時間だからかな。
 辺りは少しずつ静寂さを取り戻しつつある気がする。

「うん……。そう、かな?」
「アタシは音楽のことはよく分からないけど……。
 ほら、アンタが音楽の妖精っていうの? あれ? なんだっけ? リリだっけ?
 高2のコンクールに出るようになってから、アタシ、少しずつ音楽のこと、勉強したんだ。
 主な入手経路は金やんだったけど。金やんって、『音楽は若い頃が大事』って考えじゃない?
 二十歳までが勝負、っていうか。だから18歳のアンタがこんないい話を蹴るのは勿体ないって思っちゃうんだよね〜」
「えへへ。いいの、天羽ちゃん。音楽に国境はないんだもの。私は、日本で、頑張るの」

 1番最初、リリからヴァイオリンをもらった頃は、みんなについて行くのがやっとだった。
 アンサンブルを組んだ頃は、ともに奏でるみんなの足を引っ張らないように、って願った。
 オケを組んだときは、ここまで私のことを信用してくれている吉羅さんの想いにお返しがしたかった。

(これからも、できれば、吉羅さんの近くで)

 今の私は吉羅さんの近くでヴァイオリンを弾いていられたら、もう十分なんだもの。

「香穂の決心は固いみたいだね。恋する女は強いよ、まったく」

 天羽ちゃんは少しだけ目を潤ませながら笑うと、トレーを手に立ち上がった。
*...*...*
「失礼します。日野です」
「日野君か。急に呼び出してすまなかった。入りたまえ」

 どんなに親しくなっても、理事室の中と外では異なるルールがある。
 それを寂しいと思わないでもなかったけど、私はどちらの吉羅さんも好きだった。
 冷たい様子を見ると、今の自分になにか吉羅さんのためにできることはないかな、って考えて。
 優しい様子を見ると、心の底が暖かくなる。もっと、近くに行きたい、って思う。

 私は手鏡で髪型と、それに首元のタイを確かめると、やや重めのドアをそっと開けた。
 理事長室、というのは教室や職員室の造りとはかなり違う、重々しい雰囲気が漂っている。
 そこの住人の吉羅さんも、影響を受け、また影響を与えているのかな。
 残暑があちこち散らばっている季節に、吉羅さんは少し早めの秋のスーツを身につけていた。

「あの……。なんでしょう?」

 学院の中にいる吉羅さんは、廊下で見かけることがあっても、すごく早足で歩いている。
 そして、ほとんど場合、考え事をしているのか、気むずかしそうに眉間にしわを寄せて考え込んでいる。
 こうして突発的に、しかも、担任の先生を通して呼び出されることって初めてのことだと思う。
 吉羅さんは椅子から立ち上がると、私をソファに座るようにと手で指し示した。

「昨日のヴァイオリンコンクールでは優勝おめでとう。私も聴きにいったが、後半、吸い込まれるような良い演奏だったと思う」
「ありがとうございます。……嬉しいです」
「ただ、最終楽章は少しピッチが速くなった。最後まで、楽譜に忠実に。
 君がソリストを目指すのか、オーケストラの団員を目指すのか、先はわからないが。
 もし後者であるのなら、楽譜への忠誠心は君の最大の武器になる。大事にしたまえ」
「はい……。ありがとうございます」

 担任の先生を通して話があったのだもの。これは、理事長と、一生徒、の関係のお話なんだろう。
 でも大人ってすごい。
 週末、一緒の夜と一緒の朝を過ごした人とは別人のような態度に、私の口も重くなる。
 大人の人って、どうして、カードの表裏、みたいに、簡単に態度を変えることができるんだろう……。

「日野君?」
「あ、ぼんやりしてました。ごめんなさい。なんでしょう?」
「そこでだ。今週の土曜日。学院のおエライ方も交えて、君の祝賀会を開く」
「祝賀会?」
「君が……。香穂子が、今回のスカラシップをどのように考えているか私にはわからないが。
 国外にしろ国内にしろ、君の選択肢が広がるのは喜ばしいことだ。私はその手助けになれればいいと思っている」
「吉羅さん……」

 私への呼び方が変わったことにどきりとする。
 思い切って顔を上げると、そこには最近よく見せてくれる吉羅さんの優しい笑みがあった。

「私の我が儘を押しつける気はない。だが、私は君が私の近くにいてくれたらいいと思う。
 海外の留学も悪くないが、今の日本で君が学ぶことがもう無いか、と問われれば、それは否とも言える。
 私は君に多くの選択肢を提示しよう。君はその中で良い、と思うものを選ぶといい」
「ありがとう、ございます。……いいの?」
「かまわない」

 吉羅さんは短く相づちを打つと、サイドテーブルに置いてあった大きな箱2つを私に差し出した。

「祝賀会用にと私が見立てたものだ。君に似合うと思う」
「大きい……。ありがとうございます! 2つも、ですか?」
「ドレスと靴だ。せっかくハイヒールが似合いそうな脚を持っているのに、今のままでは持ち腐れだと思ってね」

 吉羅さんの気持ちが嬉しくて、大切なモノを抱えるように2つの箱を抱きかかえる。
 重なった手のひらが温かい、と思ったら、私はプレゼントごと吉羅さんの腕に包まれた。




「私は、君にとって最善の道が開かれることを祈っているよ」
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