12月に入って、今まで秋一色だった景色が一気に活気づいてきたのか、街中の至るところに、イルミネーションが輝いている。
 シンプルな服の上、赤色を差し色にした人を見ると、本当のおしゃれさんなんだなあ、って思う。

(私はいったい、なにをしてるんだろう……)

 吉羅さんに抱かれて。別の日には加地くんに抱かれる。
 2人の人に抱かれるたびに少しずつ自分の中が汚れて、壊れていく。

 今まで見ないように、とひたすら目を背けていた事実。
 確かにきっかけは、祝賀会の夜、加地くんが作った、と思う。

 だけど。
 それからの私はなにをしていたんだろう。
 吉羅さんにも加地くんにも都合のいい顔を見せて、結論を先送りにしてただけなんじゃないかな。

 吉羅さんに知られたくない一心で、私は何度も加地くんと同じ時間を過ごした。
 でも、その行為は、私自身の狡さだったし、ただの言い訳だった、って今はわかる。
 私にも、ううん、私こそ、加地くんよりもずっと重い罪がある。  
*...*...* Sin 6 *...*...*
「香穂子……。あなた大丈夫なの?」
「お母さん」
「最近、あまり食事も摂らないようだし、元気もないし」

 日曜の朝10時。
 週末は夜遅くまで譜読みをしていることを知っているお母さんは、日曜日の朝は好きなだけ私を眠らせてくれる。
 もう一通りの家事が終わったのだろう。
 私がリビングに降りていくと、お母さんは私も紅茶もらおうかしら? と独り言のように呟きながら、私の前にティーサーバを用意した。
 秋が深くなってきたような香りに、私は加地くんが淹れてくれたオータムナルを思い出す。
 ──── 吉羅さんに加地くんのことが知れて、1週間が過ぎている。

 あれから毎日のように、吉羅さんと加地くんから会って話をしようと連絡があった。
 だけど私は2人の誘いを断ると、ずっとヴァイオリンの練習だけに没頭していた。
 もう、吉羅さんに知られてしまった以上、加地くんの誘いを断ることが怖い、と思わなくなったし、
 吉羅さんには、どんな顔をして会えばいいかもわからなかった。
 ──── ただ、1人になりたかった。
 いろいろなことを冷静に判断するには、疲れ過ぎてる。

 お母さんは白い湯気の中、紅茶を注ぐ。
 お母さんが、食器棚から取り出しておいてくれたのかな。
 普段使いのカップではなくて、私のお気に入りのカップの中に、紅茶の輪がゆっくりと広がっていく。

「うん……。心配かけてごめんね」
「あら、別に謝らなくていいのよ? 子どもの心配するのが親の仕事なのだから」
「ふふ。……お母さん、優しいんだ」
「ただ……、寂しいわね」

 お母さんは苦笑を交えて、ソーサーを持ち上げた。

「寂しい?」
「そうね。けしてあなたの悩みを根掘り葉掘り聞こう、っていうんじゃないのよ?
 ただ、昔は……。あなたがもっと幼い頃は、私の悩み事ももっとずっとシンプルだったわ」

 私は頷きながら、テーブルに並べられているクッキーを手に取った。
 まだ温かい。
 細かいオレンジピールの入ったクッキーは、お母さんの十八番のお菓子で、私も大好きなもの。

「そうね。寒い日は温かいものを、とか、食欲がなかったら、今日は消化の良いものを、とか。
 私、子どもたちの顔を見ながら、だいたいの献立を立てることができたのよ。
 だけど、今のあなたに、どんなご飯がいいのだろうと考えたとき、これがなかなか浮かばないの」

 親の頑張りどころよね。
 お母さんはふふっと小さく笑うと、もう1枚、私の手の上にクッキーを置いた。

「せっかくの日曜日なんだもの。お昼からお洒落して出かけしてきたら? ね?」
*...*...*
 突然、外に、と言っても、今の私に特に行きたいところはなかった。
 だけど、いろいろ気をもんでいるお母さんを少しでも安心させたくて、私はあてもなく外へ出る。
 ウィンドゥショッピングは友だちと行った方が楽しいけれど、今はとてもそんな気分にはなれなかったし、
 なにより、クリスマスソングの賑やかさは余計に気が滅入ってしまいそうな気がする。

「そうだ……。美術館に行こうかな」

 あそこなら、1人でいてもあまりおかしくはない。それに、ずっと考え事をしていても、そっとしておいてくれそうな気がする。
 この前冬海ちゃんが、ずっと見たいと思っていたローラーサンの絵が来日した、と言って、パンフレットを見せてくれたっけ。
 淡い色調の女性像は、冬海ちゃんのふわふわした雰囲気にすごく合っていた。
 そうだ。あんな色調の中に囲まれれば、私の想いも少しだけ和らぐかな?

 私は電車を乗り継ぎ、美術館近くの駅に向かった。

「わ……。綺麗」

 美術館は美術館に入ってからが始まりじゃない。
 入る前。もっと言えば、美術館のある駅に降り立ったときから、鑑賞の時間は始まってる。
 そう考えてしまうほど、美術館へ続く道は色の濃いレンガで覆われ、その脇を紅葉した木々が彩っている。
 遠くには噴水が秋の日差しの中、柔らかい放物線を描いていた。
 イチョウとカエデのコントラストは、秋の深まりを感じさせてくれる。

 そっか……。
 祝賀会があったのは、夏。確か、私、白いドレスを着てたっけ。
 あれから、私の中の時間は止まったままだったけど、季節はこんなにも動いてたんだ。

 ちょうど昼下がり、という時間のせいもあったのかな。
 チケットを購入してエントランスに向かうと、そこには満員電車よりも多くの人が溢れていた。
 入りたい、けど……。これじゃ無理かな。どうしよう。

「ほら、君。早く入って。奥に入れば少しは空いてるから」

 警備員さんたちは、止まりかけた私に目をあてると、額に汗をかきながら誘導する。
 今から引き返すことなんてできないよね。
 私はふぅっと息をつくと、知らない人の背中を追っていった。

(あ……。確かに冬海ちゃん、好きそうだな)

 半分くらいは人の頭を見ているような気がしなくもなかったけれど。
 絵はすごく高いところに配置してあるせいか、配色の美しいところを眺めることができた。
 冬海ちゃんは淡い色合いが好き、って言ってたけど、私はどうかな。
 鉛筆だけで描かれたデッサンもいいな、って思う。余白の部分が白よりも白く見える。

(え……?)

 さっきからずっと背中に覆い被さるような人がいる、って思ってた。
 最初は気のせいだ、って思おうとしたけど、やっぱり違う。
 これだけの人混みだし、この展覧を楽しみにしていた人は、もっと近くに寄って見たいだろう、って思ったから、じっと辛抱してたけど……。
 ぴったりと張り付く身体が気持ち悪い。
 脚の線を汗をかいた手のひらが伝っていく。──── 絶対、これって……っ!

 もがくようにして、振り返る。
 肩が当たって、手前にいた中年の女性が咎めるように私を睨みつけた。

「……僕の連れに手を出すなんて、あなたは一体どういった了見でしょうか」
「あ……っ! ゆ……」
「ああ、お前も、大声を出さないんだよ。鑑賞している方に迷惑だからね」

 そこには、苦虫を潰したような顔をした中年の男性と、その男性の腕を掴んでいる柚木先輩が立っていた。
 柚木先輩は、私と男性を交互に見つめると、男性の腕を捻り上げた。

「このまま出るところに出ても、僕はかまわないのですが。……お前は、どうしたい?」
「え? 私? あ、……その、止めてくれたら、もう、いいです」

 周囲の目が恥ずかしくて、いてもたってもいられない。
 卒業以来に見る柚木先輩は、とても私と1歳違いとは思えないほど大人っぽい。
 こうして中年の人とやり合っていても、柚木先輩の方が迫力があるくらいだ。

 小さな声のやりとりだったのにも関わらず、男性を取り囲む視線は厳しい。
 柚木先輩が手を離した瞬間、男の人は人を押しのけて出口の方へ走っていった。

「……やれやれ。『止めてくれたらいい』なんて、お前は相変わらず甘いな」
「甘い、かな……。あ! あの、助けてくれてありがとうございます」
「まあ、日曜の午後の貴重な時間を、価値のない人間に譲ることを考えたら、お前の選択も正しい、か」

 柚木先輩は私に連れのないことを確認すると、そっと私の後ろに立った。

「あ、あの? ……なんでしょう?」
「馬鹿。お前がまた、ああいうつまらない男に引っかからないように、俺がわざわざ付き合ってやってるの。ほら、早くおいで」

 それから私たちは人に流されるようにして、2人黙って絵を観ていった。
 柚木先輩はなにか考え込んでいるようだったし、私も黙ってみずみずしい色彩の絵を観ているのが心地よかった。
 去年の冬、柚木先輩と共にアンサンブルを組んだことを思い出す。
 一緒に合奏をした人に共通する思いってあるんだ、って思う。
 そう。柚木先輩も、加地くんも。
 ──── 一緒にいて沈黙が気にならないんだ。

 私は柚木先輩に誘われるままに、美術館に併設されている喫茶店に入った。

「それにしても浮かない顔してるな。なにがあった?」
「え? ううん……。なにも」

 どこから話せばいいのかわからない。
 そもそも話そう、という勇気もなかった。
 こんな……。誰1人幸せにならない生活をしている私を、私自身、誰よりも軽蔑しているんだもの。

「まあ、話す気がないなら話す必要もないが」
「はい。……ごめんなさい。どこから話せばいいのかわからなくて。だけど……」
「だけど?」
「私、自分が1番嫌いです」

 それだけのことをようやく告げると、柚木先輩はため息をつきながら窓の外に目をやった。
 うう……。久しぶりに会ったのに、こんな重い話、柚木先輩もイヤだよね。
 もっと、そう……。アンサンブルだとか、ヴァイオリンのことだとか、お話できたらいいのに。
 だけど、柚木先輩が今、どんな風に音楽と向き合っているのかがわからなくて、この話題も難しい、って思ってしまう。
 どうしたら、いいかな……。

 やがて柚木先輩は私の方へ顔を向けた。
 意地悪な、だけど、どこか暖かみのある目の色に、一気に時間が戻っていく。

「香穂子。自分に同情するなよ。同情している暇があればなにかやれ。時間が解決してくれることもある」
「そう、なんでしょうか?」
「1年経てば、自分が変わる。3年も経てば、自分も相手も、取り囲む環境が変わってくる」

 吉羅さん。加地くん。2人の顔が交互に浮かんできては消えない。
 柚木先輩の言っていることは本当なのかな。
 時間が、やがてなにもかも、押し流してくれるの?
 今、2人を想うだけで、自分が情けなくて泣きたくなる。
 こんな痛みも、いつか未来から振り返ったら、甘い痛みになるのかな。

 どんなに加地くんが優しくても、今までずっと良くしてくれた吉羅さんと別れるつもりもなくて
 だけど、加地くんと一緒にいる楽しさを振り切る勇気もない、自分勝手な私を。

 柚木先輩は、小さく笑いながら私の髪に手をあてた。

「──── 時が解決してくれることもある、ってことだ」
「はい……」

 気持ちいい手の動きに私の目が細くなる。
 強ばっていた私の内側が、ゆるゆると解けていく。

「柚木先輩って、すごく頼りになる占い師みたい……。どうも、ありがとうございます」
「お前、それ、茶化してるんじゃないだろうな」
「も、もちろんです!」

 久しぶりに声を上げて笑う。
 そんな私を柚木先輩は何も言わずに見ていた。

「そうだ、お前。これからの予定は?」
「これから、ですか?」
「そう……。これから俺は火原と会う予定になっている。まんざら知らない間柄でもないんだ。よかったらお前も来るか?」
「はい。……ごめんなさい。今日は用事があって」

 私はとっさにウソをつくと、そろそろ出ましょうか、と椅子から立ち上がった。
 窓の外は、さっきの紅葉をすっぽりと包み隠して、その代わりにクリスマスのイルミネーションが輝き始めている。

 夜は、……怖い。
 それに、知っている間柄だからこそ、余計に怖いこともある。
 柚木先輩も火原先輩も、男の人、で。
 目の前にいる穏やかな人が、加地くんみたいにならないという保証はないんだもの。
*...*...*
「香穂子−。電話よ。急いで」
「え? 家の電話にかかってきたの? 誰から?」
「月森くんよ。国際電話みたいだから、急いで」

 階下から、珍しくお母さんの大きな声がする、と思ったら、思いがけない名前を聞いて、私はパタパタと階段を駆け下りた。
 この2ヶ月くらい、ともすれば自分の部屋に閉じこもっている私を心配しているのだろう。
 友だちからの電話を伝える。そんな些細なこともすごく嬉しく思っているみたいだ。
 私は受話器に耳を押し当てた。

「もしもし、月森くん。突然どうしたの?」
『土浦からなかなか情報が伝わってこないから、君の決心が聞きたくなった』
「決心?」
『9月のヴァイオリンコンのスカラシップのことだ。君はどうするつもりなのだろうか?』
「えっと、その、……土浦くん、って?」
『土浦経由で君の進路の話を聞いていた。……なにか問題でも?』
「う、ううん? その……。ありがとう」

 電話の奥から聞こえる声は懐かしさと一緒に厳しさも連れてくる。
 そうだった。去年月森くんがウィーンに留学してからというもの、彼のヴァイオリンを聴いてないけれど。
 彼の音は、今聞こえる声と一緒。
 冷たくて、厳しくて、それでいて気持ちいい音だったっけ……。

「あの……、気に掛けてくれてどうもありがとう。えっと、あのスカラシップは辞退するつもりなんだ」
『なぜだろうか? 君の真意が聞きたい』

 月森くんは真剣な口調で詰め寄ってくる。

「私、まだ日本でやることが残ってるって思ってて……」

 私の言葉を遮るように、月森くんは早口で話し始めた。

『君には1年近く会っていないから、俺が考える君と、今の君では違いがあるのかもしれない。
 だが、香穂子がヴァイオリニストを目指すというなら、今回のスカラシップは辞退するべきではないと俺は思う』
「うん……。すごく条件がいいよね。珍しいくらい」
『条件だけではない。君の年齢を加味しての上だ』
「年齢?」

 私は心配そうに私の顔を見上げているお母さんに自室に行くことをジェスチャーで伝えると、もう1度階段を昇った。
 引き出しにあるスカラシップの要項を取り出す。
 2年間の留学。学費免除。寮完備。私でも知っている著名な先生が専科に就任している。

『君は Ms.Reed氏を知っているだろうか? 今回のスカラシップで担当教授になっている人だが』
「うん。今ね、スカラシップの要項を見ていたの。有名な人だよね」
『彼女はウィーンの音楽学校でも授業を受け持っているんだ。俺も何度か受けたことがある』
「そうなんだ」

 確かコンクールの最終選考にも来てたのを覚えてる。
 ごく普通の容姿の人だったけど……。
 選考の際に、鳶色の目が柔らかく光ったり、鋭く尖ったりするのが彼女の音楽の豊かさを伝えてくるようだ、って思ったっけ。

『君の事情もあるだろう。だが、俺はヴァイオリニストの君に言いたい。
 君は、今すぐこのスカラシップを受けるべきだと思う。君の人生が大きく開けるきっかけになるはずだ』
「大きく……」
『君の18歳から20歳までの2年間。異国の地でヴァイオリン漬けになるのもいいと思う。
 もし、君にほんの少しの迷いがあるのなら、もう一度考え直してくれないだろうか?』

 異国の地。ヴァイオリン漬け。
 その言葉を聞いて、私の中になにか閃くものがあった。

 そうか……。もし、私の身体が日本になかったら。
 吉羅さんは、仕事が忙しくて日本を離れるなんてことは無理だろうし、
 行動力のある加地くんなら、留学先まで来てしまうかもしれないけれど。
 それは私、自分のことを買いかぶりすぎだよね。
 そうだ、寮があるって言ってたもの。もしも、万が一、加地くんが留学先に来たって、寮には入れない、から。

 私が、留学してしまえば。私の身体がなくなれば。
 柚木先輩も言ってたっけ。時間が解決することもあるって。

(忘れて、くれたら)

 2人とも好きなんていう私は、2人に対して不誠実な行動を取っている。
 私がいなくなれば。
 そして、女っていうこの身体をどこか遠くに置いてしまえば。
 吉羅さんも、加地くんも、私のことなんて、すぐに忘れてくれるはず。

「……月森くん、私、留学、考えてみる」

 少しでも早く。準備なんて必要ない。
 私の身体とヴァイオリン。それだけがあればいい。




 私の中にもう迷いはなかった。
←Back
→Next