計ることのできる時間は、2年。周りは真っ白な砂で覆われている。
アリのようにもがいていた私は、1番最初に中心のくびれから落ち、次々と落ちてくる砂を払いのけるのに必死だった。
やがて、突然、砂が止む。
不思議に思って天空を見上げると、そこには神様のような大きな手がゆっくりと砂時計をひっくり返している。
──── 止まっていた時間が動き出す。
*...*...* Sin 8 *...*...*
雪の影響で2時間遅れのフライトだったけれど、ようやく私と月森くん、それに王崎先輩は機上の人になった。日本を飛び出して2回目の12月。故郷へ向かう空はどこまでも闇が続いている。
あと1時間で、私は2年ぶりに日本に帰る。
ウィーンの国際空港は、嫌い。
コンコースを延々と歩いていくのも。床が他人顔のように冷たいのも。
耳の奥を傷つけるような鋭い音を立てる飛行機も。何もかも、嫌い。同じくらい、成田も嫌い。
あちこちに飾られているクリスマスツリーも、にぎやかな分だけ、余計に胸が痛くなる。
私は自分を抱きかかえるようにして腕を組むと、二の腕をさすった。
──── 空港の雰囲気は、即座に私と2年前に連れて行く。
慌ただしい日々や、咎めるような視線。傷つく言葉。
通路を挟んで横にいる英字新聞を読んでいたビジネスマンが、ときどき舐めるように私の身体を凝視する。
私は目を逸らすと、意味もなく座席の前に置かれているパンフレットを手に取った。
『香穂子、すまない。俺は先に休ませてもらう。君もコンディションを整えるために早めに休むといい』
『ああ、香穂子ちゃん、おれも早めに休ませてもらうよ。おれ、どうも時差には弱いみたいだから』
隣の席で眠っている月森くんの顔をまじまじと見つめる。
女の子を思わせる長い睫。配置良い場所にある鼻は、すっきりと高く、その下に引き締まった口がある。
軽く開いた唇は、少しだけ彼を幼く見せているようでなんだか可愛い。
『香穂子。君は変わってしまったな。もう、君は俺が知っている君ではないように思う』
『そう?』
『星奏にいたときの君は、ただ……。可愛くて、幼くて。
誰かが手を差し伸べずにはいられないほどの甘い魅力があった。
だが、今の君は、差し伸べる手を無意識のうちに拒絶しているような冷たさがある。いや、鋭さ……、というのか』
『うん……。本当に幼かったよね、私』
『いや、すまない。今の君が魅力的ではない、というわけではないんだ』
留学したばかりの頃、月森くんは何度か呻くように同じ言葉を口にした。
私を傷つけないようにと、言葉を選んで話してくれる彼さえも、留学したばかりの私には怖かった。
彼は友人として私を大事にしてくれてる、とわかっていても、私は2人きりで会うのを本能的に避けるようにしていた。
──── 私はもう、2度と同じ間違いはしたくなかったから。
初対面の人と会って打ち解けるまでに少し時間がかかる私は、新しいスクールでは言葉の壁もあって、なかなか友だちができなかった。
自然と付き合う人間は、以前からの知り合い、ということになるけれど、
なにかと私のことを気にかけてくれる彼らとも、2年前の私は親しくなるのが怖かった。
私は月森くんの身体を覆っていたブランケットの端を首元まで上げると、もう一方の座席を見る。
そこには眼鏡を取り外して眠っている王崎先輩がいる。
私のことを思って優しい言葉をかけてくれる月森くんの申し出を断ることで、彼を傷つけたくない。
そして『同じ間違いはしたくない』。
そう決心していた私が導いた結論は、男の人と会うときは必ず外で会うこと。必ず複数人で会うこと、だった。
幸い、私の寮と、月森くん、王崎先輩のアパートメントは、小さなウィーンの街で徒歩圏内にあったのも都合が良かった。
月森くんと会うときは、必ず王崎先輩と一緒に。
王崎先輩には新しい恋人ができていたから、余計に私は安心だった。
だから、3人で会えば、大丈夫、って。
ウィーンの人たちは、よく音楽を中にして小さなパーティを開く。
友だちの誕生日だ、とか、付き合い出して半年の記念日に、とか。
そんな集まりとお誘いが週に2回のペースであったけど、私はほとんどパーティには出席したことがなかった。
その代わりに、時間さえあればストリートでヴァイオリンを弾いた。
雨の日は、駅の地下街で。
雪の日は、ショッピングモールで。
晴れた日はもちろん、景色の良い公園で。
人目があって、ヴァイオリンが濡れなければ、どこでもよかった。
気持ちのよりどころは、ヴァイオリンだけだったと言い切れるくらい。
初めはおずおずと触れていた音楽という世界。
それがこの留学を経て、音楽はいつしか、希望の源になり、戦友になった。
さまざまな形で私を支えてくれた。
ヴァイオリンを肩に載せるたびに思う。
──── この2年の間、私の近くに音楽があって、本当に良かった、って。
「香穂子。今回は突然の申し出ですまなかった」
眠っているとばかり思っていた月森くんが、ぽっかりと蒼い目を開いて私にささやいた。
あと1時間弱で日本に着く。
安全体制に入ると同時に、早々と消灯した機内は、今もエンジンの音だけが低く響いている。
小さく聞こえる足音は、朝食の準備を始めたスチュワーデスのものかもしれない。
「そんな、気にしないで? 私も2年ぶりに日本に帰りたいな、って思ったんだもの」
「君が……。どういう理由かは敢えて詮索しないが。
2年もの間、1度も日本に帰ると言わなかった君を、俺の母の事情で無理を言ってすまない」
今から 2ヶ月前に知った月森くんのお母さんの事情。
それは、彼のお母さん、浜井美砂さんのデビュー30周年のリサイタルの話だった。
月森くんは、ウィーンに来てますます音楽の幅が豊かになったのだろう。
今年は数々のコンクールに入賞し、名実共にヴァイオリン界のホープとして名を馳せた1年だった。
デビュー30周年のお祝いに、月森くんのお母さんが息子である月森くんと一緒に演奏したい、と考えること。
それは、ごく自然のことだと思えた。
だけど、その提案には続きがあった。
『ねえ、蓮。蓮の友人である香穂子さんにも一緒にリサイタルに出てもらいたいのだけれど、どうかしら?』
初めてこの依頼を聞いたときは、頑なに遠慮した。
なによりも親子で演奏する、というのがとても意味のあることだと思ったし、日本に戻るのも、本当のことを言えば怖かった。
──── でも、それは、私の自意識過剰、なのかな。
2年もの間、1度も連絡がなかった吉羅さんも、加地くんも。
気にしているのは私だけで、もう、2人とも、とっくに私のことは忘れてる……よね。
月森くんは、加地くんと連絡を取っているのだろう。
時折彼の口から加地くんの話題が上がった。
星奏学院を無事卒業したこと。附属の大学に入ったこと。
音楽に関わりのある芸術学部を進路に選んだこと。
ウィーンの街は、音楽を楽しむ土壌もできているけれど、それ以上に、動物と人間が共存している街だって思うことがある。
公園には、たくさんの野鳥が群れをなして飛んでいるし、街中に点在している動物園は、どこもみな放し飼いだ。
小さな生き物を見てはしゃいでいた私と、黙って見ていてくれた加地くんを思い出す。
……元気で、いてくれるかな?
順応性の高い人だから、今は大学で作った仲間と楽しい時間を過ごしてるかな。
どうか、そうで、ありますように。
一方で、王崎先輩は星奏の未来を背負う人、という意識が学院側にあるのだろう。
星奏学院の附属大学を卒業した今も、星奏とつながりがあるという話だった。
『なんでもね、星奏は、未来のある人間には惜しみない援助をしよう、と考えているんだって。
おれ、小さな弟が2人いるんだ。だから、こういう援助ってありがたいって思ってる』
理事長に月1回のレポートを出すことで、通っている音楽大学の学費を援助してもらえるんだ。
弾んだ声で、そう説明をしてくれる王崎先輩には申し訳ないけれど、私は、理事長と聞いて、ぎゅっと胸が痛くなった。
吉羅さん……。私のこと、怒ってるかな?
それとも、もう私のこと、覚えてもいてくれないかな。
吉羅さんは私に対して、何1つ酷いことはしていないのに。
私は、ただ、吉羅さんを傷つけるために、そばにいたの?
私が吉羅さんと一緒にいた意味はなんだろう。
『自分に同情するな』
柚木先輩はそう言っていたけれど、何時になったら私は自分を許せるようになるのかな。
『とは言っても、今の理事長のこと、香穂ちゃん知らないでしょう?』
『え? 今の理事長、って? あれ? その……、吉羅さん、理事長さんじゃないんですか?』
『うん。去年の今頃かな、吉羅さんは退任して、今の理事長が就任したんだ』
王崎先輩は去年の冬、帰国したときに会ったという新しい理事長の話を始めた。
『吉羅さんもなかなか野心家って感じがしたけれど、なんと言っても音楽の素養があったからねえ。
それに比べると今の理事は、まったく音楽については素人だから、簡単なやりとりさえ、伝わらないな、って思うことはあるよ』
『はい……。その……っ、あの、前の理事長の吉羅さんは、今は?』
彼が不審に思わないように、と何気なく尋ねると、王崎先輩はどこか誇らしげに話してくれた。
『ああ、吉羅さん? すごいよね、あの人は。音楽以外にも、いや、音楽以上に経営の才能があったんだねえ』
『はい……』
『彼、たった3年で星奏の経営を黒字にしたんだって。その手腕を買われて、今は文科省……。文部科学省にいるって話だったよ』
『そうなんですか……』
『香穂ちゃん? どうしたの、青い顔して。大丈夫かい?』
『あ! えーっと、すごいですね。文科省なんて』
あわてて取り繕ったけれど、ほんの少しの間、流れた沈黙は消せない。
吉羅さんが星奏にいてくれることが私のただ1つのつながり。そう思っていたから。
って、私は、いったいなにを言ってるの?
……自分から、何もかも放り出して逃げ出したのに。
吉羅さん、加地くんを心配する資格なんて、私には、あるはずもないのに。
*...*...*
「香穂子さん、今日は本当にありがとう。蓮も、ありがとう。おかげで素敵な舞台になったわ」舞台の幕が閉まる。
本当なら、確実にカーテンが自分の足元を覆ってから動き出すのがルール、といえばそうなのに、
月森くんのお母さん、浜井美砂さんは、感極まったように片頬に月森くん、もう片頬に私を抱くと、幼い子にするように頬ずりをした。
私と月森くんの顔も、息がかかるほど近くなる。
演奏をし終えたばかりの指は3人とも灯のように温かい。
「いえ、私こそ……っ、素敵な日にご一緒できて嬉しいです」
「母さん。突然こういう振る舞いをされては香穂子に失礼だろう」
「ううん? 私は全然!」
「ふふっ。蓮の性格も相変わらずね。香穂子さんには苦労をかけるわ」
「いえ、私の方こそいつも助けてもらってばかりで」
浜井さんは、演奏家の顔からすっと母親の顔に戻ると、肩をすくめて月森くんを見つめている。
「蓮の様子を見ていると、どうやら蓮の一方的な片思い、みたいだけれど。
音楽はいいわ。音楽と共に歩んだ人間たちは、恋人にはなれなくても、親友にはなれるわ。
香穂子さん。これからもどうぞ蓮と仲良くしてあげてね」
「母さん。もうそれくらいにしてください。大分時間が押している。そろそろ記念パーティが始まる時間だろう」
月森くんは顔を上気させながら、舞台袖にある掛け時計に目をやった。
ここは、出演者さんのことを配慮しているのだろう。
文字盤の大きな掛け時計が、舞台から見えるように置かれている。
月森くんのお母さんは労るように何度か手首を撫でながら、何かを思いついたのか、顔の前でぱちんと両手を合わせた。
「そうだ。香穂子さん、あなたもぜひ私の記念パーティにいらして? 懇意の人間だけを呼んだ少人数のパーティですの」
「あ、ありがとうございます。……でも」
「母さん。強要はしないでくれ。香穂子はパーティのような目立つ場所は好きではないから」
月森くんが私の顔色を見ながら助け船を出してくれる。
「あら、そう? そうね……。ウィーンから戻ってきてくれて、一緒に演奏してくれて。
それだけで十分満足、と言わなきゃいけないところよね……」
とたんに月森くんのお母さんはしょんぼりと肩を落とす。
その様子は少女のように可愛らしくて、月森くんが少し年下の恋人、と言ってもおかしくないくらいだ。
「ごめんなさい。あ、そうだ。あとで会場へ花束を贈らせてください」
「わかった。香穂子はなにも気にしなくていい。あとは俺が母さんのフォローをしておく」
「ありがとう……。ごめんね、ムリを言って」
「でも、本当に、気が向いたら来てくださいね。待ってますから」
浜井美砂さんは名残惜しそうに何度も声をかけてくれる。
その気持ちがありがたくて、断るのが申し訳なくなる。
パーティ……。祝賀会。白いドレス。
あの日から私はどんなに勧められれても、白いドレスと、露出の高いドレスは身につけなくなった。
自分の身体に目を当てる。
真っ黒な、襟と袖が詰まったドレス。
コーラルピンクのドレスを着こなしている浜井さんの隣にいると、私は譜めくりの助手の人のようにも見えたと思う。
「香穂子。今日は朝から、リハ、ゲネ、本番と疲れただろう。ゆっくり休んで欲しい。また俺から連絡する」
「うん。私こそありがとうね。すごく楽しかった」
私と月森くんは軽く握手を交わすと、舞台の中央で、それぞれ右と左に分かれた。
『音楽はいいわ。音楽と共に歩んだ人間たちは、恋人にはなれなくても、親友にはなれるわ』
浜井さんの言葉が自分の中に柔らかく広がっていく。
私は、月森くんと私の今の関係にすごく満足していた。
いきり立つほどの激しさも無い代わりに、穏やかな風が、確かに私と月森くんの間には流れている。
──── 私は、これで、いい。
今のままで十分幸せだもの。
クリスマスだからかな。
私は見えざる神という存在に祈りたくなった。
日本に帰ってきたせいか、たくさん浮かんでくる顔はみな、高校時代の友だちばかりだ。
土浦くん、元気でやってるかな? 柚木先輩も。火原先輩も。
甘えん坊の冬海ちゃんも、もう大学生なんだね。志水くんも。
加地くんも、元気かな。吉羅さんも。月森くんも王崎先輩も、みんなみんな。
──── どうか、すべての人が、幸せでありますように。
「……え?」
2度、大きく歪曲する渡り廊下を経て、楽屋に辿り着く。
キーを取り出し、鍵穴に差し込んだとき、私は目の端で、静かに尖る肩を見つけた。