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*...*...* Coffee (1/2) *...*...*
「お? お? おおお???」
「な、なに? リリ。私の演奏、おかしかったかな……?」
「違うのだ! その逆なのだ。日野香穂子。お前は本当にすごいのだ!!」
 
 正門前、リリはせわしなく透明な羽を動かすと、ブラボーなのだ、と繰り返す。
 2月とはいえ今日はすごく暖かい。背中に刺す光も1月とは少し違って勢いがある。
 リリの首にかかっている真っ白なマフラーを見て、私はそっと位置を直す。今年に入ってから冬海ちゃんと相談して編んだこのマフラーは、リリの首元と肩先をふわふわと踊る。妖精って寒いとか暑いとか感じるのかわからなかったけれど、身につけてくれているのを見るのはやっぱり嬉しい。リリの晴れやかな顔を見ていると、案外水色も似合うかなって考えてしまう。
 
「こう、お前の弾くバッハはイイのだ。お前の正直さや誠実さを引き出している」
「あ、ありがとう。そんなに言ってもらうとちょっと恥ずかしい、というか……」
 
『バッハってのは音楽一家だからな、いろんなバッハがいるから区別して言うんだぜ?』
 なんて土浦くんの話を思い出す。私が最近弾いているのは、大バッハと言われるヨハン・セバスチャン・バッハの『ラルゴ』。最終セレクションで柚木先輩が弾いていた曲だ。
 
「これね、春の最終セレクションのときに練習した曲なの。なんだか、まだ1年も経ってないのに懐かしくて」
 
 高2の春、これから夏に向かおうとする季節に、私は本来の落ち着いた曲想を置き去りにして、アクセントのようにピチカートを入れて弾いていた。新しい演奏技術が少しずつできるようになることが楽しかったし、派手なパフォーマンスはそれだけでたくさんのブラボーに繋がることが嬉しかった。人が注目してくれることに、ちょっと調子に乗ってたんだと思う。
 自己流で好き勝手弾いていた私を、柚木先輩は厳しい目で一瞥して、一言だけ言ったことがある。
 
『日野。楽譜に忠実でない人間に、楽器を弾く価値はないよ』
 
 その言葉にハッとして。……落ち込んで。その夜は半ベソをかきながらもう一度全部楽譜をさらった。そんな思い入れのある曲。
 ──── 懐かしいな。あのときの柚木先輩の言葉がなかったら、今の私はこんな風に楽譜に誠実に向き合えてなかった。
 そうだ、柚木先輩が卒業するまでに、ちゃんとこの気持ちを伝えられたらいいな。
『お前、今頃になって何当たり前なことを言ってるの?』
 きっと、先輩は皮肉そうに口の端っこを持ち上げて笑うだろう。けど、それでも。
 
「日野香穂子。もう1度同じ曲をリクエストなのだ! それこそ、ラルゴのテンポでもう1回なのだ!」
「はい。じゃあ、もう一度弾いてみるね。リリは少しゆっくり目が好きなの? ……ごめんね、私、あまり楽譜から崩した演奏はできないかも」
「いや、お前に任せる。お前はいつも楽譜に誠実だからな。……バッハもお前の演奏を聴きながら、墓の下で居眠りしているに違いないのだ!」
「あはは。待っててね。ちょっと松脂をつけてから……」
「……日野君。気をつけたまえ」
「は、はい!?」
 
 急に大きな影が近づいてくると思ったら、それは逆光の中、私とリリをすっぽりと覆う。ときおり吹いていた風が息を止めたように静かになる。
 大人の人のような洗練された空気は、やがて小さなため息へと変わった。
 
「松脂は制服につくと厄介だ。風のある場所で松脂を扱うなら、風向きを見てつけるといい」
「吉羅さん。あ、ありがとうございます」
 
 影は眉を寄せて私の風上に立つ。
 少しずつ目が慣れてくにつれ、仕立ての良い白のトレンチコートと、その中の濃い臙脂色のネクタイが飛び込んでくる。日頃あまり見かけない銀色のアタッシュケースには大切なものが入っているのかな。口のところにはダイヤル錠が付いている。
 
「出張ですか?」
「ああ。都内までちょっとね。ああいう会議に1週間のほとんどを費やしている現実を思うと、文教界ももっと効率の良いやり方を模索する時期に来ていると私は思うね」
 
 吉羅さんははらりと落ちた前髪を払うと、せっせと弓に松脂を付けている私を見てほっとしたように微笑んだ。
 吉羅さんと初めて会ってから、えっと……、もうすぐ半年くらいになるのかな? ときどき吉羅さんはすごく優しそうな顔をする。今年になってからは特にそんな顔を見ることが増えてきた気がする。
 
「そうだ。日野君。あとで理事長室に来るように」
「はい……」
「……また、君の淹れるコーヒーが飲みたくなった」
 
 最近、2日に1度くらいのペースで私は理事長室でコーヒーを淹れている。最初は緊張ばかりしてどうしていいかわからなかったけれど、少しずつ私は吉羅さんと一緒にいる時間に慣れてきたのかな。前ほどは緊張しない気がする。普段は厳しい表情を浮かべている吉羅さんが、コーヒーを一口飲んだあと、ふっと頬を緩ませることを知ったのはいつだっただろう。
 コーヒー豆の話、お菓子の話、歴史、音楽。そして経済。吉羅さんは日常の話を的確に面白く説明してくれる。
『むずかしいことを、やさしく。やさしいことを、ふかく。ふかいことを、おもしろく。……教育者としてあるべき姿だと私は思うがね』
 これがキリマンジャロ。これは、ブルーマウンテン。利き酒じゃないけれど利きコーヒーのように、私は理事長室でいろいろなコーヒーを知った。真っ白な世界地図を書いて、自分の部屋の壁に貼った。コーヒー豆の原産地と、味と、匂いと、地図の場所。それに吉羅さんの表情。全部が一致すると、一曲ちゃんと弾けたときみたいに嬉しくなったっけ……。
 でも、いいのかな? 出張続きで疲れてる、っていうのに、お邪魔してもいいのかな。
 
「お? おお? 数年来愛想のなかった吉羅暁彦が笑っているのだ! 天変地異の予兆なのだ!!」
「……アルジェント。お前は私に喧嘩を売っているのかね。わざわざ買う気はないが、捨てておくのも腹立たしいと言ったところか」
 
 仲が良いのか悪いのか、リリと吉羅さんは会うたびになにかしら言い争いをしている。最初はすごく落ち着かなかったけれど、今は聞いているとクスクス笑ってしまうくらい楽しい。
 リリは吉羅さんの不機嫌をあっさりと交わすと、吉羅さんと私の間に滑り込む。
 
「それにしても吉羅暁彦。お前はいつのまにこんな風に日野香穂子と親しくなったのだ! 我輩になんの断りもないとは水くさいのだ!」
「アルジェントに振り回されている者同士、同病相憐れむ、といったところなのだが」
「ふふん。日野香穂子はどうなのだ! こいつに意地悪されていたりしないか? 我輩のようにツライ目に遭っていないかが心配なのだ!」
「あ、ありがと、リリ。意地悪されるなんてこと、ないよ? 安心して」
 
 慌てて取りなしたけれど、リリは納得がいかないらしい。胸の前で細い腕を組むとじろりと吉羅さんを睨みつけている。
 
「うーー。疑わしいのだ! その昔、我輩が吉羅暁彦をちょっと魔法の道具の実験台にしただけでもこいつはすごい仕返しをしてきたのだ!」
「……愁情経験値アップアイテムだといって渡された高級玉ねぎで、私は聴衆の面前で泣きながら演奏をしたんだ。残念なことに、あのときの屈辱は今もはっきりと私の記憶に焼き付いているよ」
「だ、だからといって、我輩を掴まえて『1時間くすぐりの刑』というのはあんまりなのだー!」
「……それはそれは。まだ懲りてないとみえる」
「あ、あの、2人とも、落ち着いて。吉羅さん、あの、みんなが……」
 
 見てます、と小さな声で言うと、我に返ったのか吉羅さんはこほんと空咳をして周囲を見渡した。
 今、リリが見えるのは私と吉羅さんの2人きり。リリはあちこちと空中を飛び回って、私たちはその姿を目で追って話をする。リリの姿が見えている私たちからしたら当たり前の振る舞いだけど、リリの姿が見えないみんなからしたら、私たちの行動は挙動不審のなにものでもない。
 
「……失礼。電話が鳴っているようだ。じゃあ日野君頼んだよ」
 
 吉羅さんは、胸元から聞こえる呼び出し音に不機嫌そうに眉をひそめると、ポケットに長い指を差し込んで歩き出す。私は小さく頭を下げると、すっきりとした後ろ姿を見送る。その姿は私が思っている以上に吉羅さんが大人の男の人なんだ、ってことを伝えてくる。
 ──── 大人の、男の人。
 どうしたらいいのか、わからない。認めた方が苦しいの? 認めない方が苦しいのかな。どっちだろう。よくわからない。そもそも私はなにを認めたいの?
 
「……そうだよね」
「ん? 日野香穂子、どうしたのだ?」
「え? ううん。なんでもない!」
 
 ときどきこうしてお茶に誘われること。話をすること。楽しいのに、そのあと苦しいのはどうしてなのかな。少しずつ、吉羅さんのことを好きだ、って思う気持ちが増えていって、だけど、その気持ちと同じくらい苦しさも増えていく。そうならいっそのこと好きな気持ちも苦しい気持ちも全部を閉じ込めてしまいたいと思う理由は……。
 
「……大人の男の人、なんだもの」
 
 さっき見送った背中を思い出す。あんな大人の人に私みたいな子どもは全然釣り合わない。だからこんな気持ちを抱いちゃダメ。……思っちゃ、ダメ、考えてもダメなんだ。
 私の思いをよそに、リリは細い両手を頭の後ろで組むとツンと唇を尖らせている。
 
「コーヒー。……コーヒーなのだ。コーヒー。我輩なにかを思い出しそうなのだ!」
「コーヒー? えっと、リリも、コーヒーが好きなの?」
「違うのだ! コーヒーを好きかどうかなど意識したこともないのだ。違うのだ」
「そっかぁ。リリがコーヒーを飲めるなら、今度理事長室に招待したのに」
「遠慮するのだ! そんなことをしたら最後、『くすぐりの刑1時間』では済まないのだ……。おっと、思い出した! 『コーヒー・カンタータ』なのだ!!」
「コーヒー・カンタータ??」
「日野香穂子。我輩、イイコトを思いついたのだ!」
 
 リリは魔法の杖をバトンのように一回転させると、一枚の楽譜を取り出した。
 
「コーヒー好きの吉羅暁彦と日野香穂子にこの楽譜を授けよう。ふふふ、我輩、吉羅暁彦の本音が聞きたいのだ!」
「本音……?」
「バッハの『リースヒェンのアリア』。別名、『コーヒー・カンタータ』なのだ。我輩、ナイスアシストなのだ。結果が楽しみなのだ!」
「待って、リリ。どういうことなの?」
 
 質問に答えることなくリリは金色の粉をまき散らして消えていく。
 私の手には1枚の楽譜だけが残った。
 
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