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「まったく。週の半分が出張とはね」
 
 私は早足で正門前を横切ると、まっすぐ理事長室へと向かう。
 現金なものだ。彼女が理事長室で待っている。そう考えるだけで、自然と会議を取り仕切る声にも勢いが籠ったように思う。
 私立高校の経営はどこでも厳しい。今日の会合はそんな愚痴がメインの会議だったといってもいい。──── どこも厳しい。それはわかっている。では今私はなにをするべきなのか。
 現代の親が子どもに求めるものはなんなのだろう? 経済力か、就職先か。音楽科というのはそのどちらの指標でも測れない類のものだ。では人は音楽科に何を求めて入学するのか。
『星奏学院……? ああ、あの王崎信武というヴァイオリニストがいる』
 昨年、とある国際コンクールで金賞を取ったステイタスというのは、数百万の経費が必要な広告以上の効果があったらしい。会うたびに告げられる『王崎信武』という名に私はまた考え込む。音楽科の増員を目指すためには、普通科とは別の指針、広告塔になるべく人材を育成することにあるのではないだろうか。……それも1人ではなく複数の。
*...*...* Coffee (2/2) *...*...*
「すまない。遅くなった」
「いえ……。あの、私こそ勝手に部屋に入っていてすみません」
 
 理事長室のドアを開けると同時に彼女はソファから立ち上がると、申し訳なさそうに頭を下げた。
 約束の時間に遅れたのは私の方で、彼女は別に謝る筋合いでもないとは思うが、謙虚に謝る彼女を見て、また少し彼女に向かう気持ちが大きくなるのを感じる。
 そもそも、彼女は私のことをどう思い、どう理解してこの部屋に来るのか。好きか、嫌いか。いや、この前私が彼女に告げた言葉と同じ『同病相憐れむ』くらいの位置づけか。それともあまり考えたくはないが、理事長対一生徒。Noと言えないただの上下関係なのだろうか。
 私は客先からもらった小箱を彼女に手渡す。
 
「私がコーヒーが好きだと言ったら、客先が持たせてくれた。チョコレートらしい。ヴァレンタインも近いからだろう」
「はい。じゃあ、コーヒーと一緒に出しますね」
 
 あらかじめ準備しておいたのだろう。部屋の隅にあるミニキッチンで、彼女は手際よく茶器を取り出し、コーヒー豆を挽き始める。しゅんしゅんと湯が沸く音に続いて、それに、コーヒーの香りが鼻先に届く。
 片方に寄せた朱い髪の隙間から、白いうなじが見え隠れしている。──── なにを話すでもない。手が届く距離にこの子の身体があるわけではない。それなのに、この穏やかな沈黙をもう、幾度となく繰り返している。私はいつかコーヒーの匂いを感じるたびに、理事長室に置かれた彼女の背中を思い出すのだろうか。
 私はコートを脱ぐと、きつめに結んでいたネクタイを少し緩める。この学院の建て直し。これからのあるべき教育の姿。諤々とと交わされた言葉の多くは少しずつコーヒーの香りに押しやられて小さくなっていく。
 
「君はずいぶんと手際がいい。初めてこの部屋に来たときもそうだった」
「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです」
「もしかしてアルバイトの経験があるのだろうか?」
 
 こと音楽に関して彼女は飲み込みの早い生徒だとは感じていたが、こうして何度か一緒の時間を過ごすことで、これは彼女独特のセンスがそうさえているのではないかと感じることが増えてきた。……そう。彼女の淹れるコーヒーは、かなり上質だ。素人が淹れるものとは一線を画している。
 
「いいえ。アルバイトはしていません。ずっとね、高2になってから始めようって思ってたんですけど、ヴァイオリンに夢中になってその時間が取れなくなって」
「それはなにより。人はいつか働かなくてはいけなくなる歳になる。なにもあわてて生き急ぐ必要はないだろう。……今、学ぶべきものもある。今でなくてはいけないものもある」
「はい……。だけどあまりお父さんに甘えてばかりじゃダメかな、って思ってて……。だから3年生になったら弦の費用くらいはアルバイトで、って思ってます」
「なるほど」
 
 ヴァイオリンの弦はいわば消耗品だ。前の弦が1週間保ったからといって次のものがそれだけ保つ、という保証はない。そのとき練習する曲にも左右されるし、湿度、温度、運にも左右される。私の頭はかたかたと動き続ける。久しく行っていない老舗の楽器メーカーに弦の定期便を依頼するのも悪くない、か。
 
「お待たせしました」
「ああ。ありがとう」
 
 今日の報告会議の資料をファイリングして一息つく。ビジネスをペーパーレス化するなどと、一体誰が言い出したのかと思うほど昨今の印刷物は多い。そしてこの印刷物は、数ヶ月で無駄になるものばかりだ。更に言うなら、捨てた書類ほどあとで必要になるというおかしな法則を恐れて、今日も私は忌々しい思いで仕舞い込む。
 来客用のテーブルセットの上には、湯気の立ったコーヒーと茶菓子が置かれている。私は彼女の横に座ると慎重にソーサーを手にした。
 
「ほう……。これはマンデリンだな。やや酸味が強い品種の一つだ」
「はい。今日は吉羅さんもお疲れかなと思って。本で調べてみたら、酸味が疲れに効くとあったので」
「……美味い」
 
 鼻をつく香りに眼を細めながら一口目はそのままの味を楽しむ。口に含んだ瞬間の鼻へ抜ける香気がコーヒーの美味しさの最たるものだと思えてくる。
 
「君にはいささか苦みが強すぎるかもしれないな。大丈夫だろうか?」
「はい……。吉羅さんが美味しいって言ってくれると美味しい気がします」
 
 私が一口飲む様子を心配そうに見守っていた彼女は私の感想に優しく口元を緩めると、こくりと黒い液体を飲み込んだ。白い首が滑らかに上下する。──── 今、ここでこの子の肢体を私の思うがままにしたなら、この子はどんな反応を返すだろう。痛がる彼女を少しずつ溶かしていく。手慣れたあとのこの子はどれくらい愛らしいことか。普通に話をしているときさえ可愛いと感じる声は、男の侵入を許すときどれだけ甘くなるのだろうか。
 彼女は私の爛れた思いに気づくことなく、のんびりと話を始めた。
 
「そうだ。あのね、この前リリと話していたとき、私、新しい楽譜をもらったんです。練習してきたので、あとでちょっと聴いてもらえますか?」
「ほう。アルジェントに?」
「はい。えーっと、一昨日かな。ほら、正門前で話していたときにもらいました。バッハの『リースヒェン のアリア』です」
 
 一昨日、か。……この様子だと、アルジェントの舌先に乗って、つい大人げもなく言い返したことに対する私の醜聞を彼女は何も聞いていないらしい。
 この星奏学院全教職員の中で、アルジェント主催のセレクションに参加した人間というのは私と金澤さんの2人しかいない今、私はアルジェントの存在を誰にも口外したことはなかったし、口外する必要性も感じなかった。だが今回はその考えが裏目に出たらしい。
 あれ以来、私は数人の副理事から私はあらぬ噂を立てられている。──── なんでも新しい理事は正門前の銅像に向かって話しかけている。今後の経営方針について銅像にお伺いを立てているらしい、お告げを聞いているらしい、と。鬼の首でも取ったかのような勝ち誇った顔をして金澤さんはご丁寧にも私に告げ口をしてきた。呆れて物も言えないとはこのことだ。
 とはいえこの話をしようものなら、この子はころころといつまでも笑い続ける気がするので黙っている。私はアリアについて話題を広げた。
 
「なるほど。『リースヒェン のアリア』か。君はこのアリアにどんな歌詞がついているか知っているかね?」
「歌詞、ですか? ……すみません。バッハと時代背景は確認したんですけど、歌詞は見てなかったです。この曲の別名はリリに教えてもらいました。『コーヒー・カンタータ』というんだ、って」
「まあ、アルジェントから楽譜をもらってまだ2日だから、知識を得るのはこれからだ、という言い方もできるが。歌詞を知っていると知っていないでは解釈がまるで変わってくる」
 
 『コーヒー・カンタータ』。別名、『おしゃべりはやめて、お静かに』は、コーヒー好きのヒロインと、ヒロインにコーヒーをやめさせたい父親とやりとりを描いた喜劇だ。
 
「まあ話せば長くなるが、時代背景として当時のドイツ連邦ではビール産業を保護するためにコーヒーに高い関税が掛けられていたことを意識すると面白い。この時代のコーヒー1杯は現代の価格にして5000円に換算される」
「そんなに……?」
「『1日最低でも数杯は飲まないとやってられない』と言い切る放蕩娘に父親が手を焼いていた。……こんな歌詞だ」
 
『コーヒー1杯の美味しさは、1000回のキスよりも素晴らしく、マスカットのワインよりなお甘い。
 コーヒーなしじゃやっていけない。私の機嫌を取りたい人は コーヒーをプレゼントして』
 
 私は低い声でアリアを歌う。金澤さんほど音域は広くはないが、会議などで饒舌に話したあとは喉の調子も良いらしい。自分の思い通りの声が出ることに満足する。
 あれほど離れたいと思った音楽がまだ私の中に根付いている。根付いて、次の世代の新しい才能が開くのを願う。自分でも御しがたいこの感情をなんと名付けたらいいのか。
 
「私、吉羅さんの歌、初めて聴きました。すごく素敵です」
「音楽家に在籍すると一通り音楽について勉強するからだろう。ヴァイオリン科であっても、声楽、ピアノ、あと管楽器の基本は習得するから、音楽に対する素養は持ち合わせているといってもいい」
「なんだろう……。胸の奥がきゅっとしました」
 
 彼女はあごの下で手を握ると、私の声を反芻しているかのように小さな唇を動かしている。……なるほど。どうやら彼女の注意は私の考えていた方向とは違う方に向かってしまったらしい。私は小さく息をつくと彼女のほうに身体を向けた。
 
「君はこの歌詞の意味を正しく理解しているのだろうか?」
「はい?」
「『コーヒー1杯の美味しさは、1000回のキスより素晴らしい』のこの歌詞のとおりなら、コーヒーを1杯淹れることはキス1000回に値する」
「え……?」
「1杯のコーヒーが1000回のキスだとすると、君はこれまで私のために、一体何杯のコーヒーを淹れてくれただろうね。どういうことになるか計算してみるかね?」
 
 ほのぼのと目の前の少女の頬が朱に染まる。手練手管を身につけた女なら、上手いこと話題を逸らして、こんな表情を男に見せたりはしないのだが、この子は危険だ。彼女の中で生まれた感情が空気を伝って少しずつ私を浸食する。彼女を見ていることで自分自身がおかしくなってくる。
 
「今年に入ってもう一月が過ぎた。週に3回。一月は4週。ざっと計算して12回。1回につき、君はだいたい2杯はコーヒーを淹れてくれるとして」
「も、もう、それ以上は言わなくていいです!」
「おや?」
「か、考えただけでどうしていいかわからなくなっちゃうので……」
「考える? 私とのキスを?」
「!!」
 
 特段刺激の強い発言をしたつもりはないのだが、彼女は音を立ててカップをテーブルに置くと、これ以上なく身体を小さくして目を泳がせている。
 ……やれやれ。私ももう少しこの子が年端もいかない子であること、そして特に男女の道については実年齢よりも幼い子であることを認識しなくてはいけないのに。わかってはいても、こうして彼女をからかうのが楽しくて仕方ない。
 
「この『コーヒー・カンタータ』の終盤には、もう一つ興味深い歌詞がある」
「は、はい。……なんでしょう?」
 
 剣呑な雰囲気から少し脱したと思ったのだろう。彼女は顔を赤らめながらも私のほうを振り返る。私は熱いコーヒーを口に含みながら説明を続けた。
 
「ヒロインが言うんだ。『私、いつでも好きなときにコーヒーを飲ませてくれる人と結婚するわ』と」
「は、い……」
「君はいつでも私の望むときにコーヒーを飲ませてくれるというわけだが。……さて、私はどうしたものだろうか」
「それって、その……、つまり」
「私もヒロインと同じ道を行くべきか……。いつでもコーヒーを飲ませてくれる人と結婚するべきか、とかね」
 
 彼女は朱くなった片頬を隠すように手を当てて、ちらりと私に目をあてる。そんなことをしても、もう片方の頬から、彼女の顔が赤らんでいることくらい、簡単にわかりそうなものだが。
 彼女は観念しきったような小さな声で抵抗する。
 
「あ、あの……。その、もう、そんなにからかわないでください。……心臓がもちません」
「おや? からかっているとは心外な。本気だったらどうするのかね?」
「それは……!」
 
 ぴくりと身体が大きく跳ねて、目の前のテーブルが不自然な音を立てる。
 数ヶ月後か、数年後か。男の冗談を理解し、受け止め、笑うようになったとき、この子はどれほど見応えのある女性になっているだろう。今はまだ萌芽がようやく見え隠れしている時分。これを慈しみ、育て、花開く頃、私はまだ彼女の隣にいることができるだろうか?
 私は彼女に空になったカップを手渡した。
 
「ありがとう。美味しかった。もう1杯お願いするよ」
「あ、あの、さっき、1杯のコーヒーは1000回のキスと同じ、って……。だから、その」
「君がコーヒーを淹れてくれるならそれ以上なにも望まない。今のところはね」
「……今のところ?」
「もちろん、君が望むのならその限りではない、というところだろうか」
 
 赤らんだもう片方の頬はどれくらい熱くてどれくらい柔らかいのだろう。触れたいという欲を押さえながら私の口はまた冗談を言う。彼女の淹れるコーヒーも、彼女とのキスも、両方を欲している私を彼女は知ったらどう思うだろうか。許してくれるだろうか。
 
 彼女は難しい顔をして考え込みながら、それでいて手は手順どおりコーヒーを淹れる準備をしている。その様子が可愛くて、私は素知らぬふりをしながら彼女を見つめ続けた。
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