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 お菓子作りが趣味だという冬海ちゃんは、はかりの目盛りを見ながら慎重に小麦粉をボールに入れている。エプロン姿の彼女は、女の子の中の女の子って感じですごく可愛い。冬海ちゃんのチョコを欲しがっている男の子はいっぱいいそうな気がするけれど、冬海ちゃん自身はオケ部の練習がなによりも楽しいみたいだ。
 スノーボールクッキーとチョコパイとマドレーヌ。作る種類も量も多いけど、私と冬海ちゃんの2人でやればなんとかなる、かな。  
*...*...* Bittersweet 1 *...*...*
「冬海ちゃん、こっちのバターの用意、OKだよ」
「はい。じゃあ、スノーボールクッキーから作りましょうか?」
 
 ヴァレンタイン前の祝日、私と冬海ちゃんは私の家のキッチンで、せっせとお菓子作りをしている。
 
『菜美先輩も誘いましょうか?』
『うーん。今回は天羽ちゃんは食べる側専門に回ってもらおうかなあ、って思ってるんだ』
 
 来週大きな会社が主催する弁論大会に天羽ちゃんが綿密な下準備をしているのを知っていた私は、今年は2人で作ろう? と冬海ちゃんに提案する。
 
『マスコミで働きたいっていうアタシの夢が一歩近づく機会なのさ。応援してて!』
 
 今から作ろうとしている3種類のお菓子はどれも日保ちがするものだから、全種類天羽ちゃんに差し入れよう。そうだ。天羽ちゃんが少し落ち着いたらまた3人でパジャマパーティをしようって誘ってみるのもいいかも。
 
「えへへ、それにしても期末試験が終わるってすごい開放感だよー」
「そうですよね。私もなんだか気が抜けてしまって」
「もうすぐ高2も終わるっていうのに、進路で悩んでる私も悪いんだけど……。今は音楽を諦めたくないから、普通科の勉強も、ヴァイオリンも続けようって思って」
 
『そうなのだ! 日野香穂子。その勢いで頑張るのだーー!』
「わ、リリ?」
 
 突然空中に金色の粉が広がる。トッピングに使う金箔が飛び散ったのかなと思ったら、そこには杖をバトンのように振りかざしているリリがいた。そっと手のひらを上に向けて広げると、リリは慣れた調子で腰を下ろす。私はそのままゆっくりと冬海ちゃんの前に持っていった。冬海ちゃんはぱっと顔を明るくするとリリの頭のあるところをそっと撫でている。
 
「リリちゃん? 久しぶりだね……。チョコレートをもらってくれるの? ありがとう」
「お? おーーー? 相変わらず冬海笙子はいいヤツなのだ。優しいのだ!」
「あ、えーっと、リリが冬海ちゃんのこと褒めてるよ? 優しい、って」
「えと……。リリちゃんに私の声は聞こえるんでしょうか? 私もリリちゃんのことが大好きだよ、って伝えてくれますか?」
 
 冬海ちゃんは自分の言葉にうっすらと頬を赤らめるともう一度リリの頭を包み込む。本当に冬海ちゃんは可愛い。それに努力家だ。私もこんな妹が欲しかったっていつも口グセのように言ってしまう。もう少ししたら帰ってくるお姉ちゃんに冬海ちゃんを引き合わせたら、お姉ちゃんも同じことを言いそうな気がする。『アタシもアンタより、こんな可愛い妹が欲しかったわよ』って。
 冬海ちゃんは小さな手でスノーボールの生地を丸め始めた。
 
「あの、少し羨ましいです。香穂先輩は、まだリリちゃんの姿が見えるんですね」
「うん。不思議だよね」
「香穂先輩以外に、今もリリちゃんと話ができる人っているんでしょうか?」
「ん……」
 
 元コンクール参加者の吉羅さんはまだ見えるみたい。だけど、吉羅さんはあまり公言して欲しそうじゃなかったかも、ととっさに口ごもってしまう。ううん、もっと本当のことをいえば、リリが見えることを吉羅さんと私の2人きりの秘密にしたかったのかもしれない。最近の私は、親友っていえるくらい大好きな女友だちにも言えないことが増えていてなんだか少し落ち着かない。『秘め事は大人の証』だったかな。去年加地くんから借りた本にそんなフレーズがあったっけ。だとしたら私も少しずつ大人に近づいてるのかな。どうなんだろう。
 冬海ちゃんはスノーボールクッキーを作り終えると、今度は丁寧にパイ生地を切ってチョコレートを挟んでいく。以前差し入れにもらったレモンパイもパイの層ががふわふわですごく美味しかったっけ。今回もこのチョコパイが一番人気になるかも。
 
「ごめんね、冬海ちゃん、ちょっとだけ自分用のチョコ、作っちゃうね?」
 
 私はマドレーヌの生地を一旦落ち着かせるために冷蔵庫に入れると、準備しておいたチョコを湯煎にかける。チョコレート専門店で買ったとっておきのチョコは、カカオの含有率が高いからか固体がとろりと液体に変わるにつれ、美味しそうな香りが立ち上る。
 今年吉羅さんにチョコレートを渡そうと思って最初に考えたのが、コーヒーと相性のいいチョコレートはなんだろう、ってことだった。調べてみるとチョコレートにもコーヒーみたいにそれぞれの生産国があること。それぞれに風味が異なることを知った。私が選んだのは『エクアドル』産。どちらかといえばやや苦みのある品種なのに、口の中で溶けるころには甘くなる。Bittersweetって名前もなんだか可愛い。そういえばエクアドルっていう国はコーヒーの輸出もさかんだったっけ。だったらこのチョコレートには同じエクアドル産のコーヒーが合うかな。
 
「香穂先輩、それは……?」
「あ、あの! これは、お姉ちゃんに、というか……。お姉ちゃん、洋酒が入ったのが好きかなあ、って思って。ごめんね、急いで作っちゃうから」
 
 私は溶かしたチョコレートを四等分すると、それぞれ、コアントロー、クルミ、アーモンド、モルトパフを入れる。モルトパフを使ったことはなかったけれど、クランキーのような軽い口当たりになると聞いて、どうしても欲しくなった。甘いものが好きな私は甘くないものを探すのが最近ちょっと楽しい。……吉羅さんがどんな顔をしてくれるかな、って考えるのが楽しいのかもしれない。
*...*...*
 2月14日。私は冬海ちゃんと一緒に土浦くん、加地くんにチョコを配った。火原先輩や柚木先輩に渡せたらと思って準備はしておいたけど、受験生の2人は受験シーズンまっただ中で今日も午前中の短い時間だけ学院に来てすぐ帰ったらしく会うことができなかった。
 留学の準備で忙しい月森くんは今日も学院には来ていない。明日ならもしかしたら会えるかもしれないから、と1人分のお菓子を取り除けておく。
 
「えと……。香穂先輩、どうしましょう。志水くんが見当たりません」
「そういえばそうだね。どこ行っちゃったのかな。てっきり私、森の広場にいるかなあ、って……」
「そうですね……。志水くん、どんな場所でも寝ちゃうんです。心配なのでちょっと探してきますね」
「うん。じゃあ、私は金澤先生に渡してくる」
 
 2月の森の広場は、校舎から飛び出すときは少しだけ勇気がいるけど、出てしまえばすごく気持ちがいい。
 
『この季節はね、空気が澄んでいるから多くの星が見られるんだ。冬の星座が日本人に受け入れやすいのは、目にする機会が多いからだと僕は思うよ』
 
 加地くんはうっとりとした顔でよく空を見上げている。
 空気が澄んでいる。確かに冬の空の下で弾くヴァイオリンは思ってもみない硬質な音を響かせることがある。そっか……。いつも吉羅さんには理事長室でヴァイオリンを聴いてもらうことも多いけど、吉羅さんの都合がついたら、森の広場で聴いてもらうのもいいかも。
 ひょうたん池の近くの芝生で、猫のしっぽが2本揺れている、と思ったら、しっぽと一緒に白衣の端がはためいている。金澤先生は私の姿を認めると寝転がったままひょろりと長い手を振った。
 
「おーおー。悪いな、日野。なんだ? 俺に貢ぎ物か?」
「あはは、貢ぎ物かもしれません。えっと、チョコレートです」
「お? サンキュ。今日はヴァレンタインか。もしかして本命チョコかぁ? なんてな」
「えっと……。どうなんでしょう?」
「ははは。そこはすかさず『そうなんです。私、金澤先生のことが好きだったんです』って答えるところだろ? ってか過去形、ってのもおかしいか」
「あはは!」
 
 いつも金澤先生はこんな風に茶化してしまうから、なかなか本当のことが言えない。だけど、私を音楽の世界に引っ張り込んでくれた最初の恩人は金澤先生だって今は思う。ちゃんと2年生のウチにありがとうって気持ちを伝えなきゃ。
 
「まあなあ。なんてったってお前さんたちはまだ若いんだ。こういうイベントもしたかろうよ」
「そんな。金澤先生だってまだ若いのに」
「いやいや〜。気力体力減退中、ってとこだなあ。どっかの誰かさんみたいに若い彼女でもできれば話は違うんだろうがな」
「どっかの、誰か……」
 
 じっと見据える目が笑っている。こんなとき、どんな反応をすればいいのかわからない。吉羅さんは金澤先生にどこまで話をしているのかな。
 今の吉羅さんと私の状態ってなんなのだろう。一生徒と理事長、というには近すぎる。お互いリリが見えるという特性は、私と吉羅さんの共通項だとも思う。だけど、『彼女』のような親しい存在かって聞かれたら、返事ができない。コーヒーを淹れているときの空気。匂い。吉羅さんの気配。私はあの空間をとてもとても大切なものだと思ってて、誰かに取り上げられたくない、って思ってる。じわりと熱を増す頬がやり切れない。
 
「いやあ。あいつもなあ。高校生のときは俺の次ぐらいにモテてなあ。ヴァレンタインなんて、それこそ紙袋じゃ収まりきらないほどもらって二人で比べ合ったもんよ」
「そうなんですか? 吉羅さんも金澤先生も人気者だったんですね」
「おうよ。挫折を知らない若者っていうのは傲慢だったねえ。自分を思ってくれるヤツと付き合うってラクだろ〜? 吉羅もとっかえひっかえ年上のオンナたちと楽しんでたんじゃないのか」
「は、い……」
 
 私は、笑おうとして笑い切れない口端を無理矢理持ち上げる。
 あれだけ素敵な人だもの。高校生のときだって、大学生のころだって。ここ星奏学院の理事長になる前の社会人の時代だって。ちょっと冷たい雰囲気が怖いときもあるけど、女の人からすごく人気があったんだろうな、っていうのはわかる。
 だけど……。
 
 『年上のオンナ』
 
 どうしよう。こんな風にはっきりと聞かされると息が苦しい。10歳以上も年下の私は、まるで対象外ってことなのかな。ヴァレンタイン前の祝日に頑張って作ったトリュフが可哀相に思えてくる。……そっか。私、吉羅さんにチョコレートを受け取ってもらえないかも、って考えていなかった。
 
「あいつさ、結構ああ見えて、年上のオンナからモテてたんだよなあ。付き合うオンナは全部年上で。あのクールなところが逆に可愛いとかなんとか言ってさ。こんないいオトコがここにいるってのに、今も昔もオンナってのは見る目がないよなあ?」
「あ、えーっと、金澤先生、どのチョコがいいですか? スノーボールクッキーとチョコパイとマドレーヌ、です。選択制、です」
「お! こりゃ上手なもんだな」
 
 私は手に持っていた箱のふたを取りながら、金澤先生の目の前にお菓子を広げた。
 今日も理事長しつでコーヒーを淹れる、というお話があって、私はチョコレートと相性がいいっていわれるエクアドル産のモカを選んだ。これならチョコレートの甘さと上手く馴染むと思ったし、産地が一緒なら相性もいいかなって思った。
 金澤先生は私の内側に気づくことなく話し続けている。……よかった。私がもう少し頑張れば、『今』は穏やかに終わっていく。もう少し。金澤先生はもう少ししたら、お菓子を手に取る。そして多分私に『ありがとさん』って言って笑ってくれる。その笑顔に笑い返せば、演奏終了だ。
 ふわりと頭に大きな手が乗る。
 
「日野。ありがとさん」
 
 私は舞台に立っているときと同じようにぺこりと一礼をする。顔を上げて笑う。……うん、上出来、だよ。自分を褒めてあげたいくらいだもん。
 
「ごめんなさい。私、志水くんを探しに行かなきゃいけなくて……。受け取ってくれてありがとうございました!」
 
 確か志水くんは冬海ちゃんが探す、って話になっていたけど、今はごめんなさい。嘘をついて後ろも見ないで走り出す。
 どうしよう。動揺してる。混乱も、してる。
 吉羅さんが好きなのは大人の女の人。同級生の中でさえ大人っぽいのとはほど遠い私は、吉羅さんにとってまったくの対象外だったんだ。ときどき、理事長室でコーヒーを淹れてくれ、と頼むのは、ほかに頼める人がいないから? からかうのにちょうどいい、っていうことなのかな。
 
『年上のオンナ』
『とっかえひっかえ』
『クールなところが可愛い』
 
 自分とは真逆なキーワードばかりで、笑えてくるくらい情けない。私、吉羅さんのクールなところが怖い、とは思っても、とても可愛いとは思えない。それくらい私にとって吉羅さんは大人の男の人だった。……手が届かないくらいの、大人の男の人。
 
「……泣きそうだよ」
 
 もしかしたら悲しいを通り越して笑っちゃうかも。そう思っていたのに、私の顔は、笑顔を作ることができないままそのまま泣き顔になる。
 ひょうたん池から校舎まで一気に走り切る。箱の中に入っているお菓子たちが不愉快そうにガサガサと音を立てている。  
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