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 街中のディスプレイが、赤やピンクに彩られている様子を見て、ヴァレンタインという日が近づいてくることを知る。立春と相まって街の雰囲気は一気に春めいてくる。
 ついこの間まで、自分がこんな風にイベントごとに浮かれる人間だとは思っていなかったのだが。 考えてみれば冬というのは想いを交換しあう季節といえるのかもしれない。 クリスマス、正月、誕生日。そしてヴァレンタイン。 次々とあるイベントごとを今年は密かに楽しんでいる自分がいる。  
*...*...* Bittersweet 2 *...*...*

 月1度の経済学の勉強会をすませると、私は足早に理事長室へと向かう。 大学では経済学を専攻しながらも数学が嫌いではなかった私は、 物事の事象を数値化して考える癖がある。 この私のやや偏った習性は経済学という分野の中では、かなり有効な特性であるらしい。 数値化することに快感を覚えるのはすなわち、数値化することは客観視することと同義だと 捉えているからだ。 客観視するということは、明確に人に説明ができるということ。 イコール、自分の内側の知識が深まったことと判断できるのも好ましい。
 週に何度か彼女を誘い、理事長室でコーヒーを飲む。習慣というのは恐ろしいもので、 たった1ヶ月だというのに、私にはコーヒーの香りと彼女の後ろ姿をセットで 思い出すようになっている。2月14日。この日をわざわざ指定したのも、思惑があってのことだ。 誘ったときは、もっとも、彼女は気づいていたのか気づいてないのか、 普段どおり了解の返事を寄こし、今こうして2人同じ空間にいる。
 
「君も期末考査が終わって、一段落といったところだろうか?」
「はい! なんだか今週は気が抜けて……。家に帰るとちょっと譜読みしてから、すぐ寝ちゃう、っていう毎日でした」
「『よく学び、よく遊べ』を実践しているのは悪くない。英語でも似たようなことわざがある。"All work and no play makes Jack a dull boy." 『make+O+O』のmakeらしい用法の一つだ」
「えへへ。私、試験が終わったらいろいろ抜けちゃったみたいです。……お待たせしました。今日はモカです」
「ありがとう。早速いただこうか」
 
 講義資料を鞄から取り出していた私は、コーヒーの香りに釣られるようにソファーに向かう。
 かつては飲み物とともに甘いものを食したいと思ったことはなかったが、 この1ヶ月の間にすっかり彼女のペースに馴染んでしまったらしい。
 ふと見ると普段はソーサーに置いてある茶菓子ない。それに目の前の彼女にも覇気がないような気がする。 彼女と、コーヒーと、ヴァイオリンケース。足元には学用品を入れる鞄。それに見かけたことのない大小の紙袋が置いてある。
 
「どうした? 少し元気がないな」
「そう、ですか? 丈夫ですよ? ……そ、そうだ、このコーヒー、『エクアドル』って 国の豆なんです。さっぱりしてて飲みやすい、って。今日この豆を選んだのは……、えっと」
「……聞いているよ。選んだのは?」
「えっと……。その」
 
 彼女の目は私のタイの結び目を見たり靴先を見たりと忙しい。私は持ち上げたカップを元の位置に戻すと彼女を見つめた。
 いつもならすっきりとした目元が、今日はどこか腫れている。……泣いていたのか。泣かせたのは誰なのか? 彼女を泣かせる人間は私だけであって欲しいと願う気持ちと、私でさえ、彼女を泣かせるのは不本意だという忌々しい思いが交互に押し寄せてくる。
 
「どうやら君は嘘をつくのが苦手らしい。なにかあったのだろうか?」
「……ごめんなさい。金澤先生から、高校時代のころの吉羅さんのお話を聞いてしまって」
「ほう。……それで?」
「その、ヴァレンタインにたくさんチョコをもらっていて……年上のいろんな人と付き合ってた、って」
 
 彼女は申し訳なさそうに肩を落としながら、そこでほっと深く息をつく。
 なるほど、ね。
 過去は決してやり直しが効くものではない。過去の続きに今があり、今の続きに未来がある。いわば過去の私が今の私を作っているというのに、その手の話はすべて男の言い訳になるのだろうか。今までなら軽くつっぱねた話題。しかし彼女の顔を見ていると、どうにもやるせない気分になってくる。
 
「10年以上も前の話など、とうに時効だと思うがね」
「はい……」
「でも君はそれに不満を持っていると」
「ふ、不満じゃないです。ただ……。あ、そうだ、今日のお茶請け、こちらの箱の中から選んでもらえますか?  ヴァレンタインのプレゼントです」
 
 彼女は言葉濁すと大きな紙袋から箱を取り出し ふたを取った。 中には愛らしいラッピングが施されたお菓子が並んでいる。 この子はコーヒーを淹れるのと同様にこういったことも器用なのだろう。 まるで箱の中に洋菓子店がやってきたような華やかさだ。
 
「なるほど。では、こちらの紙袋はなんだろうか?」
 
 私は鞄の間に隠すように置かれていた小さな紙袋を手に取った。
 理詰めで相手を問い正すこと。詰め寄ること。 冷たいともキツイとも言われるゆえんだろうが、どうにも止められない。 案の定、彼女は怯えたように目を見開くと、ぼそぼそと小さな声で話し始めた。
 
「えっと……、そのごめんなさい。私の勘違いだったみたいです」
「勘違い、とは?」
「……私、吉羅さんが優しくしてくれるのが嬉しくて、勘違い、してたんです」
「だから、勘違いとはなにか、と聞いている」
 
 彼女はきゅっと下唇を噛みしめると、困り切った表情で目を逸らしている。
 軽く弧を描く額を、すっきりとした鼻梁が支え、血色のいい唇は持ち上げやすそうなあごに 守られている。真面目に悩んでいる表情も可愛くて、私は少しの間その横顔に見入ったあと、おもむろに口を開いた。
 
「君が答えにくいというなら質問を変えよう。この2つの品物の位置づけはなんだろうか?」
「はい。……えっと、こっちはその、『お世話になっていますチョコ』というのか……。 コンクール参加者のみんなや、衛藤くん、金澤先生にも渡しました。 義理、っていう言葉はあまり好きじゃなくて、感謝の気持ちというか。 『いつもありがとう』のチョコ、です」
「ほう。……ではこちらは?」
 
 私は紙袋から小さな箱を取り出す。10センチ四方のコーヒー色の箱に、洒落たシャンパン色のリボンが結ばれている。
 本命用、というのか。うぬぼれではないのなら、これをもらう男は私自身だと思っていたのだが。それともなにか。この子は私と別れたあと、この小箱を渡す男と落ち合うのだろうか。
 
「それは……。特別な人に渡すチョコ、です。でも、もう……」
「もう?」
 
 私は執拗に続きを促す。答えによっては、自分がどういう振る舞いをするのか自信がない。 そんな私たちを2つのカップは静かに見守っている。
 私と彼女の間に鎮座する大きなテーブルが忌々しい。向かい合わせの席というのは、すぐに彼女に手が届かない。私はソファから立ち上がると彼女の隣りに腰を下ろした。
 
「なるほど。では私がそのチョコレートを両方もらう、という結論でも構わないのだろうか?」
「は、はい? 両方、ですか?」
「少なくとも私は、君に対してなんらかの世話をしているという自負はあるからね。 それに、お互いファータが見える特別な関係でもある」
「待ってくださいた、確かにそれは特別ですけど、その……!」
「金澤さんからなにを聞いたか知らないが、あの人は大切なことで嘘はつかない。 だから君が聞いたことはおおむね真実だろう」
「そう、ですよね……」
 
 大きく開かれた目が、徐々に力を失って元の位置に納まっていく。納まり切らなくなった涙が白い頬を流れていった。
 
「いろいろな女性と付き合ったよ。学生の間は全員が年上の女性だった」
「は、い……」
「……私は、彼女たちから姉の話が聞きたかった」
 
 音楽という架け橋を通じて、私と姉は普通の姉弟以上に親しく過ごしていたからだろう。 姉を失ったときの喪失感はしばらくの間私を廃人にした。 私が話す言葉は上手く外の世界に伝わらなかったし、逆もまた同じだった。 人の言葉が、旋律が、まるで水中で聞いているかのように何拍か遅れてぼんやりと聞こえる。 そんな私の様子を先生方は痛々しそうに見守り、級友たちは腫れ物に触るように扱った。 私は流れていく時間をやり過ごす方法を知らなかった。
 
『ねえ、吉羅くん。美夜の行きつけのお店、一緒に行ってみない?』
 
 私への好意ではない。少しの憐憫と、少しの興味と。 大体がそんなものだったのだろう。それは彼女たちになんの好意も持っていなかった私も同罪だ。 何人かの女生徒はそういう言葉で私を誘い出した。事実のときもあったし、 そうでないときもあった。ただ、私は姉の話が聞きたかった。 聞くことで、自分が知らない姉の欠片を集めたかった。
 
(あの人は、あの人生で幸せだったのだろうか?)
 
 その問いに対する答えを見つけたいと思った。だが不完全燃焼のような不毛な時間は私に何の答えもくれなかった。くれたのは音楽は人の救いにならないこと。助けにはならないという冷めた感情だった。
 ──── だが、そんな事情は今のこの子にはなんの関係もない。 私は彼女の頬に手を添えると、涙のあとを指の腹でぬぐった。
 
「今の私は、君にしか興味がないんだが。……それでは駄目だろうか?」
「……吉羅さん」
「君といると安心する。……君の弾くヴァイオリンは、私に忘れていた感情を呼び戻させる」
 
 音楽。ヴァイオリン。旋律。喝采。
 たくさんある芸術の中で、私はこれほど人の気持ちを高ぶらせる芸術を知らない。 恨んで、憎んで。捨てて、諦めて、 それでも今も私が音楽の世界に囚われているのは、この子に会うためだったのかもしれない。 今は素直にそう思える自分がいる。
 
「さて。では早速いただくとしよう」
 
 私はリボンをほどくと、そっと箱のふたを取った。中には4つのトリュフというのだろうか。 丸いチョコレートが入っている。 白、とココア色、というのか、茶色、それに抹茶色、ピンク色の4つだ。
 なかなか甘い言葉が言えない自分に腹立たしさを覚えながらも、なんとか私の思いは伝わったのだろう。彼女はいつものような柔らかな雰囲気で私の方に寄り添ってくる。
 
「えっと、あまり吉羅さん甘い物は好きじゃないかな、と思って、どれもちょっと甘さは控え目です」
「ほう」
「茶色がココア、白は、粉糖……、お砂糖ですね。緑は抹茶で、ピンクのはフランボワーズっていう果物のパウダーをまぶしたんです」
 
 コーヒーを淹れる腕前同様、こういったものを作るスキルも高いのだろうか? 目に入る4つのトリュフはちょっとしたアクセサリーのように品良く入れ物に収まっている。私はその中の1つをつまみ上げようとして、ふとあることを思いつく。
 
「君のお勧めはどれだろうか?」
「ん……。このフランボワーズでしょうか? 中にね、コアントローっていう洋酒が入ってて、甘酸っぱいと思います」
「君に食べさせてあげよう」
「え……?」
 
 突拍子もない申し出に、目の前の女の子はきょとんとした顔をしている。 私はピンク色のトリュフを持ち上げると、彼女を流し見た。
 
「少なからず、君の泣き顔は私を不安にさせたんだ。これくらいの役得があっても然るべきだと思うが?」
「ま、待ってください! このトリュフは吉羅さんに食べてもらいたいって思って」
「君からもらうから問題ない。……いいから口を開けてごらん」
 
 私は彼女のあごを持ち上げると、そっと指先で下唇の輪郭をなぞる。ぷくりと弾力のある赤い部位は怯えたように震えている。
 
「その……、本当に……?」
「私はわりと気の短い方でね。……これ以上は待てないな」
 
 私は自分の口にトリュフを咥えるとそのまま彼女の唇を覆う。 自分の口内で少しずつ、コーヒーの酸味と洋酒の苦み。それに果物の甘みが混じっていく。 華奢な彼女の背中を撫で上げるたびに少しずつ彼女の唇も開く。 私は彼女の舌を引っ張ると少しずつトリュフを移していった。 溶けて流れていく甘みはやがて私と彼女の口内の濃度を均一にする。
 こくりと彼女の喉がなったところで私はようやく唇を離した。
 
「君とのキスのせいだろうか? 最初は苦く感じたがあとから甘くなった」
「……き、吉羅さん、私、なんて言っていいのか……」
「これでも君の卒業までは、優しい理事長のままで過ごすつもりだったんだがね」
 
 
 私は自分の印を付けるように、もう一度彼女に口づける。 彼女がコーヒーとともに出すお菓子を今や当然と思う自分がいるように、 彼女とのキスもやがて一日の終わりになくてはならない存在になるのかも知れないと思いながら。
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