↑2encore-TOP / ↑site-TOP / →Next
 
*...*...* Farewell (1/2) *...*...*
「2回目の春、か……」
 
 私は車にキーを差し込むと、ふと振り返って星奏学院の校舎を眺める。例年よりやや早めに開花したという桜は、今年は入学式まで保ちそうにない。その代わりだとでも言いたげに、数本の木蓮が誇らしげに白い蕾を広げている。それらは遠目から見ると、白い鳩が舞い降りたかのような華やかさだ。
 春特有の甘酸っぱい空気は、私に忘れていた何かを思い出させる。それは忘れようとして忘れて切れない少年時代の憧憬のようなものにも似ている。音楽か、それとも、若さか。……もう二度とこの手に掴むことが叶わない夢みたいなものか。
 ふと、こんな葛藤を感じることのないまま逝った姉のことを思う。そして香穂子のことを思う。あの子は今、幸せだと感じてくれているだろうか。
 校内も、街中も。こんなのろのろとした歩みではこの車も可哀相だ、と愛車を擬人化しながら走らせていると、バックミラー越しに人が手を振っている。……あのシルエットは金澤先輩、か。
 
「よぉ、理事長さん! 颯爽と外車でお帰りとは、我が星奏学院理事長の給料はさぞいいんだろうなあ」
「……金澤先生ですか。なにもそんな大きな声で呼び止めなくても」
「お、ありがとさん。乗せていってくれ、って言わなくても乗せてくれるお前さんはやっぱりいい後輩だなあ」
「いや。あの場で乗せなかったら、もっと大きな声であることないこと言われていたでしょうから」
 
 教職員であっても歩行者用の入出門と車用のそれは大きくルートが異なるというのに、こうして鉢合わせになるということは、なにか私に用があるのだろうか。金澤さんは大きな背を丸めると、助手席に滑り込む。上背は私よりあるというのに、ふとした仕草はときどき老成した猫のようにも思う。孤高で、寂しがり屋で。なのに人間を嫌いになりきれない猫のようだ、と。
 
「なあ、お前さん、ちょっとこれから時間は取れるか?」
「は?」
「今のこの俺の気持ちってさ、俺たちのような中年にしっくり来るかと思ってな。やるせないような、なにか大きな落としもんをしちまったようなさ」
「ええ。わからないこともありませんが」
「この手の焦燥感はさ、アルコールで洗っちまうのがいいんだよ。だからお前も付き合えや」
「別に構いませんよ」
 
 春の、このまままっすぐ帰るにはもったいないような夕暮れ。仕事というのは考えれば考えるだけあるものだが、帰宅してからもなお仕事に埋没するのも面白くはないし、効率も悪いだろう。昨晩途中まで聴いたマーラーの続きを聴くのは別の日でも、いい。
 
(香穂子……)
 
 明日会う約束をしているというのに、あの子の顔がちらりと脳裏をかすめる。この春、満面の笑顔で学院を卒業した彼女を、もうこの学院で見ることはない。元気で巣立ったことを喜ぶべきなのは分かっているが、これから私はこの星奏学院に来るたび、彼女の姿を探し、音を求めるだろう。感情が彼女を求め、理性が彼女の不在を知らしめるのを、私は微笑とともに受け入れるようになれるだろうか。
 
「っと、お前、車はどうする?」
「ああ。代行を頼みますから問題ないですよ」
「酒は楽しく飲みたいからなー。結論から先言うぞ? ……俺、今度、手術を受けようと思ってな」
「……金澤先輩?」
「あーあー。二度言わせるな。喉の手術だ」
 
 照れくささときまじめさが混じった声を聞きながら、私は慎重に駐車場に車を停めた。
 
「さてと。俺は話すだけ話したぞ? 今度はお前の番だ。お前もチャレンジャーというべきか年貢の納め時というべきか……。 まあ、とりあえず何事もなくあいつも卒業したわけだし、これからは普通の男女のように付き合えるか。 年の差、ってのも、年を取れば取るほど関係なくなっていくものだしな。不安も少なくなっていくだろ?」
 
 伝えたいと思っていたことを最初に伝えたからだろう。一仕事終えたようなすっきりとした顔で金澤さんはメニューを覗き込むと、早速店員にオーダーを通す。私は先輩と同じものを頼むと溜息をついた。
 
「まあ、先輩の手術の話はあとでしっかり聞くとして……。彼女との不安、ですか? 常時ありますが、それがなにか?」
「お? なんだなんだ。秘密主義のお前がついにいろいろ話す気になったか?」
「話すことで不安がなくなるなら、どれだけでも話しますがね。あいにくその手の類のものではないようですよ」
 
 お通しとして出されたピスタチオの皮を剥きながら、金澤さんはへらりと気楽そうに笑っている。
 
「まあ、話せるウチが花だ。話せなくなったら重篤だ、っていうが、お前さんはどうやら後者なようだな。まったく、どれだけあいつが好きなんだか」
「今の彼女を守るためなら、私は今まで自分の上を跨いでいった女性すべてに懺悔したい気分ですよ」
「そりゃまた重傷だなー。……でもそれでいいんだぜ? お前さんは」
 
 金澤さんは少し真面目な口調に戻ると、皮が剥きづらそうなピスタチオだけ丁寧に私の皿に移しては『お前にやるよ』と言いたげに目配せをしてくる。言葉と行動とのちぐはぐさに返事をしかねていると、再び懐かしげな声が落ちてくる。
 
「今までのお前の心は氷か爬虫類か、っていうくらい凍ってからなあ。……誰のおかげであれ、お前が血が通ったような真人間になっているのを見るのは、少なくとも俺は嬉しい」
「それはまた、随分な言われようですね」
「まあ、年寄りの繰り言はいいか。まあ、愛し子も無事卒業したってことでどこか遊びに行くあてとかはあるのか?」
「ええ、まあ。明日、『椿姫』を観に行こうと思っていますが」
 
 ひゅう、と金澤先輩は掠れた口笛を吹いた。
 
「あの公演か! プレミアチケットと評すべき、プロ垂涎のチケットじゃねえか」
「私も今回ほど、コネやツテが優位に働くことをありがたいと思ったことはありませんでしたね」
「俺も欲しいと思ってはいたんだが、なかなかなあ。今回はオケも良ければソリストも脂の乗り切ったゲオルギューが来日だろ。完売にならない方がどうかしてるって」
「さすが専門家はお詳しい。『椿姫』がヴェルディ作というのも、イタリア音楽がフィールドの金澤先輩の目に止まりますか」
 
 ふうん、と金澤先輩は鼻を鳴らした。
 
「なるほどねえ。チケットの発売は大体3ヶ月から半年前。となると、お前さんがあいつと近い関係になったのも大体、って見当はつくなあ」
「ご冗談を。私は大抵チケットは2枚取るんです。相手がいなければ1人でだって鑑賞しますよ」
 
 通路側の2枚連番のチケットを予約する。1人で見るときは通路側の席に座ることで、多少マナーの悪い客が来たとしても、1つ空席を挟んだ向こうにいるのなら、悪影響は薄まる、というものだ。もったいないと声を上げる人間がいることも事実だが、私からしてみれば、せっかくの公演を偶然隣り合わせた隣人に乱されることの方がもったいないと考える。
 明日は香穂子と2人。空席はない。……よい隣人と当たることを願うしかない、か。
 
「まあ、乾杯と行きましょう。……春の夕暮れと、金澤さんの手術と、明日の椿姫の成功を願って」
「お前みたいに前途洋々とはいかないが……。俺は俺の道を行く、ってか。まあ、乾杯」
 
 カチンとグラスが神経質な音を立てる。
 金澤先輩はジントニックを勢いよくのどの奥に滑らせると、はぁ、と気持ちよさそうに息をついた。ふるりと震えた喉仏が深い陰影を作る。──── かつて先輩の命があった場所。
 
「まあ、憎たらしい後輩への少しのジェラシーと、あとは、可愛い後輩へのエールを送ろうか」
「……憎たらしい後輩、とはどちらのことでしょうね?」
 
 わかり切っている答えをあえて聞く。金澤先輩は口端を持ち上げたままなにも返事をしなかった。
*...*...*
「……吉羅さん!」
「まあ、なんです、香穂子。もう少し大人しく……。吉羅さん、今日はお手数をおかけします。よろしくお願いしますね」
「いえ。……では、しばらくの間、お嬢さんをお預かりします」
 
 母親の後ろで、香穂子は恥ずかしそうにはにかんでいる。
 卒業式の日、私は香穂子と落ち合うとそのまま香穂子の家に挨拶に向かった。
 親と引き合わせることに不安を感じていた香穂子をよそに、私は強引に親と会う機会を持った。 自分が何故こういう行動に出たのかわからない。囲い込みなのか、けん制なのか。その両方なのか。だとしたらそれは香穂子に対して? 親に対して、どちらに対してなのか。と考えて、その両方に対しての行為であることに気づく。──── 私はこの子を誰にも渡したくないのだ。
 そう考えて、私は今まで付き合った女の誰一人としてその親を知らないのに気づいて苦笑する。……今までの行動となんと違うことか。
 この日のために私が見立てた桜色のワンピース。ベージュのあまり存在を主張しない色合いのハイヒールは、いかにも私好みで、彼女の年相応とは言い難いが、幸いなことに彼女はどんな色でも着こなすことができるらしい。今、私の前に立つ女の子は、目を奪われずにはいられない小さな淑女のようだった。
 
「それじゃ、行こうか」
 
 私は香穂子を車に乗せると、そのまままっすぐ首都高に向かった。
 助手席にいる香穂子の、桜色を照り返すような真っ白な手首が目に入る。今度はこの服に合う真珠でも贈ろうかと考え、私は心の中で首を振る。アクセサリーというのは年を重ねた女が肌の張りを補うために付けるものなのかもしれない。今の彼女は若さこそがアクセサリーなのだろう。
 
「想像以上によく似合う。君はどんな色でも着こなすことができるらしい」
「ありがとうございます。似合うかどうか心配で、今日はずっと鏡ばかり見ていたんです。あんまり見ているからお母さんに笑われちゃいました」
 
 人は年を重ねたから大人に成るのではない。ある節目を通り過ぎることで一気に大人に成るのだろうか。今日の香穂子は卒業式の時とは違う透明な美しさを身につけている気がする。
 香穂子は、ふと不思議そうに私の横顔に目をあてた。
 
「吉羅さんは今日はスーツなんですね」
「オペラを観るからといって、最近は取り立てて正装を、と畏まる必要はないが、ある程度の節度は必要だろうと考えている。舞台の人間も精一杯演じるのだから、それに見合うだけの服装と見識は持ち合わせているべきだろう」
「ドレスコード、っていうのかな。……今までは制服を着ていれば許されていた場所も、これからはそういうのを意識しなくちゃいけなくなるんでしょうね」
「私が分かることであれば教えよう」
 
 余裕を持って出かけたつもりだったが、会場は開場1時間前だというのに、独特の熱気に溢れていた。
 前回の公演の様子。指揮者の体調。いいえ、あのプリマは最高ですのよ、という密やかな声。いや、あのテノールが今回もやってくれるだろう。賞賛と期待に満ちた声は、ある希望を抱かせる。……少なくとも今日の私たちの隣人は、音楽を愛する人だということを。
 香穂子は、といえば、壁一面に飾らせた花に目を輝かせたり、パネルにして表示してあるプリマの経歴を把握したりするのに忙しいらしい。……さて、この経験が彼女の音にどう照り返されるのか、今後の楽しみといったところだろうか。
 
「吉羅くん? 吉羅くんじゃないかね?」
「……やあ、これはお久しぶりです」
 
 ぽん、と肩を叩かれて振り返るとそこには教育界繋がりの初老の紳士が立っている。一瞬まずい、と頭を巡らせて、なにもまずいことはないのだと開き直る。香穂子が卒業した今は、穏やかにこの場を受け止めて、受け流せばいい。
 
「やあ、可愛いお連れさんもいるのかね。これは失礼なことをした。親戚筋のどなたか、かな」
 
 香穂子の、半歩後ろで恥ずかしそうに笑うさまは初々しさと相まって、すれ違う人たちが見とれるほど愛らしい。最初の挨拶がすんだあと、紳士は興味深そうにちらちらと香穂子に目をあてている。
 
「……ええ、まあ。今日は彼女のエスコート役を買って出たところです」
「それはそれは。お嬢さん、オペラは初めてかな?」
 
 どうやらこの紳士から私たちは、恋人同士と判断されなかったらしい。不思議そうに私たちを見比べたあと、やがて人の良さそうな笑顔を浮かべて尋ねてくる。
 
「は、はい! 初めて、です」
 
 まさか自分が聞かれるとは思ってなかったのだろう。香穂子は大きく頷くと、ちらりと私を見上げる。紳士は相好をを崩すと小さい子に言い聞かせるような優しい声で香穂子に話しかけた。
 
 
「オペラは1回目で好き嫌いが分かれる。どうかあなたとオペラの間に良いご縁があることを願っているよ」
 
↑2encore-TOP / ↑site-TOP / →Next