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*...*...* Destiny 1 *...*...*
 あと1週間で冬休み、という放課後。
 今朝の天気予報より風がないことをいいことに、私はファータの銅像の足元で何度も同じ小節を繰り返していた。 春や夏は、ここ正門前で練習する人は多いけれど、木枯らしが吹き始めてからは本当に少ない。 だけど私はどういうわけか、この場所で練習するのが好きだった。
 ……どうしてだろ。
 指と頭は忠実に楽譜の流れを追いながら、心はぼんやりとその理由を探し続ける。
 
(……吉羅さんと初めて会った場所だから、かも)
 
 高2の9月。また暑さが残る季節に、あの人は濃い色のスーツを身につけて正門を駆け抜けていったのを思い出す。
 不機嫌そうで。取っつきにくそうで、怖そうで。 吉羅さんの第一印象はどちらかといえば悪い方だった、と思うのに、 あれから1年経った今、私と吉羅さんは幾度も同じ時間を過ごしている。 優しい顔の吉羅さんばかりを見てきたからかな。私が今思い出す吉羅さんは笑顔ばかりだ。
 吉羅さんは今日は都内のセミナーに参加するって言ってたっけ。自己啓発、っていうのかな。経済。歴史。教育。海外のマーケティング。吉羅さんは自分に役立つと思うセミナーをそれこそ毎日のように受講しては、熱心にパソコンに向かっている。たった1年で星奏学院を黒字にしたことを偶然の産物、という人もいるけれど、 今の私はそうは思わない。吉羅さんの努力の結果が今こうして形になっているだけのような気がしてくる。
 
「おおー。日野香穂子! 今日も練習なのか? まったくお前は素晴らしいのだ!」
「あ、リリ、来てくれたの? この曲ね、もう少しでマスターできそうなの。リリが好きだといいんだけど」
「おお。これは『コーヒー・カンタータ』ではないか! それは我輩がお前に渡した曲なのだ。嫌いなワケがないのだ!!」
「……私ね、リースヒェンが飲んでいたコーヒーはホットだと思うの」
「なななんと!?」
「あの時代は氷もなかったと思うし……。リースヒェンはきっと小指をピンと立ててコーヒーカップを手にしてたって気がする」
 
 私はこの前吉羅さんと一緒に観に行ったオペラの話をリリにする。リリは腕を組みながら興味深そうに頷いている。
 
「なるほど〜。お前の言うことはもっともなのだ」
「そう? えへへ。ありがとう」
「それにしても吉羅暁彦! あいつは仏頂面なくせして、日野香穂子には優しいのだ! 我輩も連れていって欲しかったのだーーー!」
「そ、そうだったんだ……。えと、その、ごめんね?」
「ううむ。なにも日野香穂子が謝ることなど全然ないのだ。だが我輩はどうにも面白くないのだ!」
 
 リリはステッキをぶんぶん振りながら怒っている。
 ──── 考えてみれば不思議だ。 高2のコンクールが終わって、もう1年と半年くらい経っているのに、私とそして吉羅さんだけはまだリリを見ることができる。 話すこともできる。一緒にコンクールに参加した冬海ちゃんや志水くんにはもうリリの姿は見えないみたい。
 
『リリは香穂先輩のことが好きなんだと思います。たまには僕の前にも姿を見せるように言ってください』
 
 以前尋ねたとき、志水くんは淡々とそれだけ言うと、また静かにチェロに向かっていた。
 高2になってから見違えるように背が伸びた志水くんは、以前は出せなかった音が出せるようになったと静かに笑う。 抱きかかえているチェロは去年から同じなのに、チェロの方が小さくなったように見える。
 そっか。私より大きな身体の吉羅さんが、ヴァイオリンでこの『コーヒー・カンタータ』を奏でたら、どんな音になるんだろう。 一度聴いてみたい気がする。
 
「こんにちは」
「ひゃ!!」
 
 ぼんやりとそんなことを考えていると、背後から声がする。慌てて振り向くと、そこには人なつっこそうな微笑をたたえた男の人が立っていた。
 吉羅さんくらいの身長と、厚めの肩。薄いピンクのワイシャツにターコイズ色のネクタイ。 身につけているスーツは細いストライプが入っていて、学校の先生という感じじゃないかも?  なんだろう、学校に用事がある、営業さん、って感じかな。
 
『おーーーー。久しぶりなのだ! 霧島なのだ!』
「えっと、……リリ?」
『霧島裕貴(きりしまゆうき)。金澤紘人と同級生で、コンクール参加者なのだ。吉羅暁彦とも知り合いなのだ!』
「え? そう、なの?」
『専攻はピアノ。土浦梁太郎をもう少しアクティブにした感じの明るい演奏を得意としていたのだ。そうか、お前には、火原和樹がピアノを弾いていると言ったら、伝わりやすいかもしれないのだ!』
「うん……。しっくり、する」
『ううう、霧島裕貴。懐かしすぎるのだ!』
 
 リリと話すことは大好きだけど、私と吉羅さん以外には姿の見えないリリと話すことは、なにもない空間に向かって独り言をいうことと同じでかなり恥ずかしい。 私は聞いてるよ? という風に何度もリリに頷いてから、目の前の男の人に頭を下げた。
 
「あの、すみません。ヘンな声出して……」
「そうだね。『ひゃ』っていうか、『ぎゃ』っていうか。可愛くって面白い声だったよ」
「ううう、消えたい、です……。すみません」
 
 霧島、さん。霧島さん。……うん、覚えた。 だけど霧島さんにはリリの姿が見えてなかったみたいだから、私もいきなり霧島さん、って話しかけない方がいいかな。どうしよう。
 
「あの、なにか……?」
「ごめんね。あのね、理事長室まで案内して欲しいんだ。俺、すっかり忘れちゃったみたいで」
「はい。わかりました」
「いや。卒業して以来ここに来るのは久しぶりでね。理事長の吉羅暁彦に用があるんだけど」
「き、吉羅、さ……、吉羅理事長に、ですか?」
「うん。まったくすっかりエラくなっちゃってさ。すごいよねえ、彼」
 
 霧島さんの言い方に軽いトゲのようなものを感じながらも、私は頷くと、いそいでヴァイオリンを片付けた。 風がない日だけどやっぱり12月の空は寒々しい。雲の間から2本、オレンジ色の夕陽が長い脚を伸ばしている。
 
「……っと、お前? あれ? お前って……?」
「おーー。金澤!! それに、ちょうどいいところに、吉羅まで一緒か!」
 
 背中に大きな声が降ってくる、と思ったら、そこには、白衣をはためかせた金澤先生と、無表情の吉羅さんが立っていた。慌てて会釈をする。すると吉羅さんはさっき私が思い描いていた笑顔と同じ、口端だけの笑みを浮かべて、それはすぐ元の端正な場所に戻っていった。
 
「霧島! お前、またどうしてここへ?」
「紘人も相変わらずだなあ。元気でやってんのか?」
「こんにちは、霧島さん。お久しぶりです」
「って吉羅も相変わらずだなあ。元気か?」
 
 会えない時間も、会った瞬間あっという間に時が戻るのか、3人は親しげに話し続けている。 ちょっとだけ、吉羅さんが控え目な気がする。ああ、リリが言ってたっけ。 この霧島さんは、金澤先生と同級生だ、って。だったら、吉羅さんとは2つ違い。 そっか。ちょうど火原先輩と柚木先輩。それに志水くん、みたいな関係になるのかな。
 霧島さんは底抜けに明るい声で、金澤先生に問いかけた。
 
「紘人。お前そういえばまだシングルか?」
「ってお前さん、聞きにくいことをあっさり聞くなよ」
「安心しろ。そういう俺もシングルだ。はっはっはっ」
「お前は今、なにやってんだ? 相変わらずピアノは頑張ってるのか?」
「いんや。今は営業ってか? 人材マネジメント。一応コレでも社長なんだぜ? 俺のポリシーはなんだと思う?  使えるものなら何でも使う。自分の過去も切り売りする。今の俺はお前を売ることだってできる。悪魔にだってなれる」
 
 3人は親しげに話し続けている。リリは泣き出さんばかりに、せわしなく羽を揺らした。
 
『素晴らしい、素晴らしいのだ! コンクールを通じて知り合った仲間たちはずっと友だちなのだ! 戦友なのだ』
「うん……。本当にそんな気がしてきた。……私たちも、いつか、なれるのかな?」
 
 ウィーンにいる月森くん。音楽科に進んだ土浦くん。それに志水くんでしょ、冬海ちゃん。大学に進学した2人の先輩。 私も、何年後かみんなに会ったとき、こうして笑って会えるのかな? 会えなかった時間もあっという間に縮まるほど、特別な存在になれるかな。どうか、そう、なれますように。
 
『もちろんなのだ! 日野香穂子。そうなることを我輩は信じているし、願っているのだ!!』
 
 感極まったようにリリはそう叫ぶと、くるりとステッキを振って姿を消した。
 そ、そうだ。私もぼんや3人の話を聞いていたら申し訳ないよね。霧島さんの用事もこれで終わったみたいだし、私もここから離れよう。
 ヴァイオリンを手にして、軽く頭を下げる。夕方の5時過ぎ。どこか場所を探して6時まで頑張ろう。
 
「あ! 君」
「はい?」
「ヴァイオリンの君! おかげで助かったよ。ありがとう!」
「いえ、私はなにも……」
 
 霧島さんは私にはきはきとお礼を言う。その様子を見て吉羅さんは少し眉根を寄せている。その反対に金澤先生はくしゃりと相好を崩した。
 
「霧島、紹介しておこうか。こいつが日野香穂子。将来星奏の未来を背負って立つ子だよ」
「そうなの? 俺、霧島っていいます。この金澤とは同級生の腐れ縁。……君とは、またどこかで会える気がするね」
「は、はい! あの、よろしくお願いします」
 
 吉羅さんの表情が気になって、私はさっきよりも深く頭を下げるとそのまま柳館へ向かって走り出した。
*...*...*
「……まったく、我ながら呆れるね」
 
 ホテルの一室。吉羅さんはネクタイを緩めながら、苦笑を交えて私の顔を覗き込む。
 何度かこうして吉羅さんと一緒の時間を過ごしているのに、どれだけ時間が経っても、ドキドキする気持ちは抑えられない。まともに吉羅さんの顔、見ていられない。そんな私の思いなんてきっと私よりもよく知っているのかな。こういうときに限って吉羅さんは私を長い時間見つめている。
 
「呆れる、って……?」
「飽きることを知らない自分に呆れている、といったところだろうか」
 
 ときどき吉羅さんはこんな風になぞなぞのような問いかけをする。飽きること? なんだろう。そういえば、今日出張で参加するといっていたセミナーで、またなにか考えることがあったのかな。
 大人といえば、私の周りにいる大人は、大人すぎて自分の世界とはほど遠いところにいると思っていた。だけど吉羅さんは、自分の身の回りに起きたことについて丁寧に話してくれる。教えてくれる。 そうすることで、私も少しだけ大人の世界が身近に感じられることも増えてきた気がする。 そう感じられることが、吉羅さんへ近づけたようですごく嬉しい。
 
「やれやれ。多分君は私が思っていることとは違うことを考えていそうだが」
「はい……。今日のセミナーでなにか考えることがあったのかな、って思ってました」
「可愛い恋人といて、そんな無粋なことを考える男はまずいないと思うがね。……香穂子、おいで」
 
 上着を脱いでベスト姿になった吉羅さんは、ソファに座りながら私を手招きする。 その顔は学院で見る吉羅さんとはまるで別人のように優しくて、また心臓がことりと大きな音を立てる。 吉羅さんの目に映る私は、私の知っている私? 知らない私? どっちだろう。緊張で脚が自分の思うように動かない。
 
「君を抱きたくて仕方ない。そんな自分に呆れてるところだ」
「……吉羅さん、こわいです」
「君はいつも私に抱かれる前にそんなことを言う」
 
 ひょいと長い腕が私を引っ張る。私の身体は、熟練の職人さんが作ったような吉羅さんの腕の中にすっぽりと納まった。
 
「あ、あの……。やだ、私、シャワーを……」
 
 もがくように首を振る。 夏が過ぎて秋が深くなった頃から、吉羅さんはシャワーを浴びることを許してくれなくなった。 確かに夏みたいに汗をかくことは少なくなったけど、やっぱり不安がある。 それに、ほんの少しでもいい。綺麗な自分を見て欲しい、って思う。
 
「そんなことをしたら、君の匂いが消えてしまう」
「だめ、です……。私……」
「言っただろう? 君を抱きたくて仕方ない、と」
 
 点くか点かないか。自分の中で燻されていた火が少しずつ勢いを増して大きくなる。吉羅さんが自分の視界いっぱいに映る。 被さってくる胸板を押し返す。吉羅さんは難なく2本の腕を握ると私の頭の上で固定した。
 
「や、……恥ずかしいの、やだ……」
「……可愛い」
 
 吉羅さんは巧みに唇を覆うと、少しずつ舌を忍び込ませた。唇を柔らかく舐め、歯列を舐める。 苦しくなって力が緩んだ瞬間、巧みな舌は私のそれを引っ張り出した。
 
「もっと舌を出して。私の中に入れてごらん」
「……こ、う、ですか……?」
「……甘い、な」
 
 ちろりと舌が吉羅さんの歯に当たる。いつも自分の歯は無意識に舐めているのに、自分以外の人の歯は不思議な感覚がする。慌てて引っ込めると、意地悪な舌が追いかけてくる。
 言葉のないやりとりを何度も繰り返したあと、吉羅さんはぽつりと口を開いた。
 
「今日会った霧島のことだが……。あの人には気をつけろ」
「気をつけろ、って……? あれ? 霧島さんって、えっと、吉羅さんの先輩にあたる人ですよね。どうして……?」
 
 くいっと快感に呼ばれる瞬間を縫って、私はぼんやりと返事をする。 霧島さん。吉羅さんとも違う、金澤先生とも違う。仕事に熱心な金澤先生、って言ったらいいのかな。ちょっと強引っぽい感じがしたけど、営業の人ってあんな感じなのかな。私のお父さんはあんな風によく話す人じゃないからよくわからない。少なくとも霧島さんは、すごく饒舌ですごく切れ者って感じがする。
 
「いい人なのだが、ときどき強引なことをする。目先のことだけに夢中になる。まあ、私も、人のことを言えた義理ではないが」
 
 吉羅さんは自分を納得させるかのようにそれだけ言うと、もう一度噛みつくようなキスをする。 甘いミントのような香りが口から鼻へと抜けていく。ときどき寄るコンビニで、ミントのガムを見て勝手にドキドキする女子高生って日本中で私だけじゃないか、って思えてくる。
 安心できて、好き。ううん。最近は不安になる。──── どれだけ吉羅さんとキスをしたら、私は満足できるのかな、って。底が見えない。私が、もうお腹いっぱい。ごちそうさま、って言えるまで、吉羅さんは私のそばにいてくれる?
 不安が快感を押し上げる。泣きたくなる。夢中になる。ひんやりとした吉羅さんの唇が私と同じ温度になるころ、吉羅さんは満足げに唇から離れていった。
 
「ようやく大人しくなったかな」
「……麻酔、みたい」
「麻酔?」
「……キス、してると、わけがわからなくなっちゃうんです。……こわい、かな」
「こわい?」
「……少し」
 
 さっき浮かんだ感情を言葉にしたくても出てこない。不安? 違う。これは貪欲な気持ち。もっと、ってねだってしまう、自分への恥ずかしさだ。
 吉羅さんは小さく笑うと、そっと私の手を取った。
 
 
 
「可愛い恋人にそんな顔をさせるとは、私は恋人失格かな?」
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