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*...*...* Destiny 6 *...*...*
 暮れも押し迫った年末。
 こんな時期にまで学院に来るのも私くらいなものか。 セキュリティカードで職員用の通行門を開けながら、 私は来年以降、各生徒の入退をデータ化し管理することで、 どんな宣伝効果が生まれるかを考えてみる。 すでにこの手法を導入している学校法人もあるようだが、費用対効果はどれほどなのだろう。 まあ少なくとも、このシステムが入学理由の1つにはなりそうにないだろうが、 あんがい女生徒の親からの評判はいいかもしれない。
 情けないことに昨夜から私はまるで正気をなくしていると言っていい。 強引に煽ったワインは私を頭痛の海に引きずり込んでは我が物顔に居座り続けている。
 挙げ句に明け方に見た夢の中では、姉が恨めしげな目をして私を責め立てた。
 
『黙っててって言ったのに……。暁彦ったらしょうがないわね』
『そうは言っても、昨日の事案は明らかに霧島さんに非がありますが』
『……霧島くん、辛そうだったわね』
『その件についてはまったく以て同意します』
『香穂子さんは、大丈夫かしら……』
 
 こういうのは、まったくやり切れない。 私の中にある 過去の残存記憶のようなものが、私を平常に動かしているのが唯一の救いか。 愛車を走らせようかとも思ったが、遠出をしては香穂子から連絡があったとき、 戻るのに時間がかかるのは良策ではない。 そうこうしているうちに私はやりかけの仕事があるのを思い出し、学院に出向いた……というわけだ。
 立っては座り、座っては立って、今度は自分でコーヒーを淹れる。 お湯を沸かしながら、豆を出し、豆を挽く。フィルターを用意し、 カップを用意しながら、私は自分で淹れることが久しぶりなことに気づく。 もともと香穂子にコーヒーの淹れ方を教えてのは自分だというのに、 どうにも自分で淹れるコーヒーは味気ない気がしてならない。
 
(香穂子……)
 
 彼女を待つこと。彼女から待って欲しいと言われればどれだけでも待つ自信はあるというのに、 どうしたことだろう。 コーヒーの苦さとともに浮かんでくるのは、彼女の可憐な後ろ姿だ。
 
『吉羅さん、コーヒー はいりました!』
『今日はチョコレートはどうかなと思って持ってきました』
『和菓子も合うんだぜ? って金澤先生からもらったの。一緒に……』
 
 女生徒と学院の経営者。元々スキャンダルな関係だということはわかっていた。 ただ、最近は彼女といる時間があまりに自然で、他人からどう見えるか、という配慮に欠けていた という事実は否めない。
 別れる? まさか。あの子を他の男に渡す気はない。私の気持ちは変わることはない。 だが、自信と同じ大きさの不安が胸の中に満ちてくる。 私と同じ大きさで、あの子が別れたいと願っていたら……。 そのとき私は彼女を解放してあげられるだろうか?
 
「……やれやれ。まいったな」
 
 私は飲みかけのコーヒーを机に置くと窓の外に目をやった。 自分が今どうしたいのかわからない。 香穂子が離れていくことを悲しんでいるのか。それとも、 悲しむほどあの子にのめり込んでいる自分を滑稽だと嗤いたいのか。 『あの子、キスが上手いな』……霧島さんの言うとおり、あの子はあの男に唇を許したのか。 なにをおかしなことを。かつて人一人に執着する人間のことを、嘲笑していたのは私だったのに。
 こういうときは、淡々と雑用を片付けるに限るとばかりに、私は引き出しを引っ張り出すと書類の整理を 始める。だが、日頃几帳面に片付けているそこには3枚くらいの紙しか横たわっていない。 日付を書き込み、ファイリングをして息をつく。他になにかやることは……。 確かキャビネットの奥に、中学校創立のための勉強会資料が、と考えていると ふいに頭上が金箔の粉をまぶしたように輝き出した。 ……あれ、か。
 
「吉羅暁彦! 吉羅暁彦なのだ!! あまりにしょぼくれた様子がかわいそうで我輩、飛び出してきたのだ!」
「……招かれざる客とはこのことだな」
「しょぼくれていても日野香穂子は来ないのだー! 元気を出すのだ!!」
「なるほど。ファータという生き物には、『遠慮』やら『気遣い』だという配慮がないということ よくわかった。 ……出て行ってくれないか?」
 
 このような人ならざる生き物に対して腹を立てるのも大人げない、とばかりに私は冷静に言い返す。 だが、このようなたゆたいはアルジェントにはまるで伝わらなかったらしい。 せわしなく、羽をばたつかせながら私の頭上を飛び交っている。
 思い出してみれば、たしかアルジェントは、去年の誕生日はこうして部屋にやってきた。 『おめでとうなーーのだーーー』とうるさいこの生き物を私は理事長室から追い出し……。 それでもなおアルジェントは校内放送を使って『おめでとう』と言い続けた。 うるさくて、しつこくて、迷惑で。だけど最後に残る感情は嬉しさだけなのに気づく。
 
「吉羅、暁彦……。それでも我輩はお前が落ち込んでいるのを見るのは切ないのだ」
「切ない?」
「そうなのだ。今聴いてきた日野香穂子の音も、どこか愁情が勝っていて、我輩胸が痛くなったのだ」
「香穂子の? 香穂子は、今どこに?」
 
 私は思わず椅子から立ち上がるとアルジェントの口元を見つめた。 相棒はこくりと頷くと、杖を天井に向ける。
 
「そうなのだ。切々とこう、訴えているような、だけど訴えることさえ諦めているような。不思議な音色だったのだ。 吉羅暁彦も聴きに行くといいのだ」
「……私は、行けない」
 
 まったく私はいつからこんなcoward(臆病者)になったのか。 私は一旦立ち上がった身体を椅子に押し戻すと、息をついた。 なるほど。いつも私に抱かれるとき、『怖い』とつぶやいていた香穂子の気持ちが少しだけわかる気がする。 怖い。……そう。私は彼女に否定されるのが怖いのだ。 別れて欲しい、と告げられるかもしれないことが不安なのだ。
 
「な、なにを言うのだ! 吉羅明彦! 行け、行くのだ! 何をしているのだ−!!」
「……怖いのだよ。あの子に否定されるのが」
「お?」
「まったく。いい歳をして情けない。アルジェント。笑うなら今のうちだと思うが」
 
 半ば投げやりになりながらアルジェントを見上げると、 そこにはアルジェントとアルジェントの背後に、頭から湯気が立ちそうな勢いのファータたちが私を睨みつけていた。
 
「アルジェント、これは……?」
「我輩の怒りが、フェッロとラーメを全員集合させたのだ! お前は日野香穂子の音楽を聴く義務があるのだ!!」
 
 目を細めたくなるような閃光が広がる。
 ──── 気が付くと私は屋上への階段の前にいた。
*...*...*
 屋上へと続く鉄製のドアを音を立てないように静かに開ける。 向かって右の壁に目をあてるとそこには、小さな文字が見え隠れしている。
 
「1番は俺だ」
「優勝するのは俺だ」

 学生のころ、金澤さんと姉と私で書いたメッセージ。ちょうどこの場に居合わせなかった霧島さんは 一緒に書けなかったことを子どものように悔しがっていたのを思い出す。 ……いつから私は『私』などという人称を使って自分を隠すことを覚えたのか。
 
(……見つけた)
 
 私の求める女の子は、朝日の中、透けるような美しさで静かに『愛の挨拶』を奏でている。 背中を覆う朱い髪。細い肩。弦を押さえる細い指は寒さで紅く色づいて、 ふと私は人の末端というのはどんな場所でも同じ色に染まるのだろうかと考えたりする。 彼女の指も、なにもかもただ温めてあげたい。
 
『『ヴァイオリンロマンス』とは、星奏学院の伝説なのだ!』
『まったく。伝説などまるで科学的根拠のないただの作り話だ。もしくは、 人が『かくありたい』という理想のおとぎ話と言ったらいいか』
『吉羅暁彦は夢がないのだ! だが我輩は楽しみなのだ!』
『は?』
『そんな堅物が恋に落ちた瞬間を見るのが、楽しみなのだーーー』
 
 学生時代だったか。セレクションメンバーが選ばれたころ、 1番最初にアルジェントから聞いた話。『この学院には音楽の神様がいる。 2人の気持ちが通じ合ったとき、『愛の挨拶』が聞こえてくる』
 その話を聞いたときはそんな非文明的なことがあるはずないと思っていたし、 事実私の在学中もそのようなロマンスは聞いたことがなかった。 そして、香穂子の時代にもそんなことは起こらなかったと聞いている。
 ──── それが、今。香穂子の作る優しげな旋律は、私の中に静かに確実に忍び込んでくる。
 
(香穂子)
 
 香穂子。私が今、君の背をどんな思いで見つめているかなど、君が理解できる日は来ないだろう。  だけど、それでいい。君の目はたえず未来を見続け、音楽を求め続ける。 私は君のサポートができればそれでいい。
 直接告げたことはなかったが、これでも私は君に感謝の念を持っているんだ。 私のような堅物を再び音楽の世界に呼び戻してくれたこと。 音楽は、悪くない。いや、音楽はいいものだ。そう教えてくれたこと。
 君を見ていると、もう一度、混じりけのない真っ直ぐな気持ちで信じてみたくなる。 こんなことで、私と君の仲が壊れることがないことを。 長い時を超え、私と霧島さんはふたたび笑って向かい合えることを。
 『愛の挨拶』は可憐な旋律を続けている。
 夢の中で泣いていた姉は、今は嬉しそうに微笑んでいる。
 
『暁彦。ちゃんと伝えなきゃ』
『……姉さんは、姉さんでよかった、って思ってる?  もう一度生まれ変わったら、また音楽と生きていきたい?』
 
 ヴァイオリンと音楽ばかりの人生で、姉は恋というものを知らなかった。 少なくとも私はそう思っていたし、実際、恋人と呼べる間柄の人はいなかった。 これ以上ないほど美しく恋の歌を奏でながら、恋も知らずに死んでいった。 頑なにそう信じ込んでいた私の執念のようなもの。それが少しずつ、壊れていく。もろく風化したように、崩れていく。
 
『どうしたの? 暁彦。子どもみたい』
『いいから、答えて』
『……私は私でよかったな。もう一度生まれ変わってもまた同じ生き方を選びたい』
『そう……』
『あ、だけど』
 
 姉は軽やかに話し続ける。日頃それほど口数が多い人ではなかったのに。 これももしかしてアルジェントの魔法だろうか。私は姉の言葉を待った。
 
『生まれ変わったら、ちゃんと好きだったこと、霧島くんに伝えたいと思うわ』
『姉さん』
『──── そうしたら私も恋を始められたかもしれない。今の暁彦のように』
 
 思い出の中の姉は恥ずかしそうに笑うと姿を消した。 やれやれ。こんな非科学的なことを1番信じていなかったのは私だというのに。 アルジェントの力か、私の妄想か。最近は他の人が目に見えないものを見、聞こえないものが聞こえてくる。 それをおかしいと思うよりも、今の自分は受け入れようと思っているところが我ながら可笑しい。 ──── もっとも、その事実を人に告げて笑い者になる気はさらさらないが。
 
「香穂子!」
 
 空を舞うように全速力で私は香穂子へと近づく。 上腕の動きに絶えきれなくなったスーツの上着が苦しそうに軋んでいる。 そんなことはどうでもいい。今の私が求めているのは彼女一人だ。
 『愛の挨拶』。以前コンクールに参加したとき、ヴァイオリンロマンスの話を聞いた。 入学したときから語り継がれていた話だったが、それを聞いた金澤さんは大盛り上がりだった。私の姉に言い寄ってはたしなめられいたのを思い出す。それをさりげなく牽制していた霧島さんの姿も。みんなの制服姿が蘇る。そうだ。よく、私は霧島さんのピアノとともにヴァイオリンを弾いていた。
 
『まったく、吉羅って鼻持ちならない性格なクセに音だけは優しいよな』
『今の言葉をそっくりそのまま霧島さんにお返しします。あなたもですよ』
『ははっ! 違いない。……なあ、吉羅?』
『はい?』
『……俺たちの力で、未来を変えていこうな』
 
 霧島さんの問いかけに私はなんと答えたのか。強く頷いたのか? そもそも変えようと願う未来はなんだったのか。共有する想いに熱い返事をしたのか。仲の良い姉弟だった私は、きっとこの話を姉にしたに違いない。そのとき姉はなんと言ったのか。たかが十数年前のことなのに、靄がかかったかのように思い出せない。感情が思い出すことを阻止しているのかもしれない。
 香穂子。今この瞬間を生きている君に、過ぎ去ったころの戯れ言を伝えても、 君は戸惑うだけかもしれない。だけど伝えたい。 私は君のそばにいたい。そばにいて、私が、そして霧島さんが成し遂げられなかった、 音楽とともに生きる楽しさを享受して欲しい。
 
「香穂子!」
 
 旋律が突然不協和音となって停止する。声は聞こえているはずなのに、彼女の身体は空を見つめたまま動かない。 朝日に負けて、彼女は太陽の中に吸い込まれていくのではないかという錯覚さえ浮かんでくる。 私はヴァイオリンごと香穂子を腕に抱きかかえると、頭に口づける。ひんやりとした髪からは冬の匂いがする。
 
「吉羅さん……。ダメです。一緒にいたら、いろいろ言われるかもしれない。……吉羅さんの未来が、狭くなるかもしれない」

 霧島から言われたことが頭から離れないのだろう。香穂子の身体は小さく固いまま、 私の腕に馴染まない。私は香穂子をさらに強く抱きかかえるといつものように説明する。
 
「人生は選択の繰り返しだ。Aを選ぶ。Bを選ぶ。それぞれに喜びもあり苦労もある」
「はい……」
「どうせする苦労なら、君と一緒にした方がいい。それが私の答えなんだが」
 
 でも、と話し続ける香穂子の唇を封じる。冷たさを感じるそこは、彼女が無心にヴァイオリンを弾き続けていたことを物語っている。 それがまた愛しくて私は口づけを深くする。私と同じ温度にしてしまいたくなる。
 
「そばにいても、いいですか?」
「なにを言うかと思えば。……いや、私こそ、ちゃんと君への好意を口にしたことがなかった」
 
 すまかった、とか。悪い、とか。どうして私はこの子のように自分の気持ちが素直に言えないのか?  我ながら歯がゆく悔しくなる。自分自身に腹が立つ。今、どうしたら、彼女に私の気持ちを伝えられるだろうか。
   
 香穂子は美しい目を瞠って私の口元を見つめている。
 
「……このまま少し時間が取れるだろうか?」
*...*...*
「手伝おうか?」
「ううん。私、自分でちゃんと、するの」
 
 私は理事長室までどのようにして帰ったのか記憶がない。 気づくと理事長室のソファで、私と香穂子は身に付けているものを取り去り、 お互いの体温を確かめ合っていた。 部屋のカギさえかけた覚えがない。それよりも私は目の前の身体に夢中になる。 彼女は私の胸の中で深く息を吸い込む。
 
「吉羅さんの匂いが、好きです」
「香穂子?」
「……吉羅さんが、いい……。吉羅さんじゃなきゃ、イヤ」
 
 いつもと違う反応に、一瞬頬が引きつる。
 キスをしたときは、特にこれといって反応に変化はなかった。だが……。
 私の匂いが好き。……これは他の男、霧島さんの匂いを知っているからで。私じゃなきゃイヤというのも、 他の男ではイヤだということで。 考えれば考えるほど苦しい。『あの子はキスが上手い』霧島さんが言っていたセリフ。 私は、それを100%信じることも疑うこともできないでいる。
 
「香穂子。教えてくれないか? あの人になにをされた?」
「……はい……?」
「霧島さんに、なにをされた?」
 
 こんなときに別の男の名を呼ぶのは不本意だが仕方ない。 案の定、香穂子はピクリと身体を強張らせている。
 
「手首を握られて……」
「それから?」
「私、ヴァイオリンを持ってて、放せなくて」
「それから?」
「あまり思い出せないです。怖かったから」
「思い出してごらん? 私の身体を使って消毒すればいい」
 
 私は彼女の片足を肩に載せると、いつも自分を受け入れてくれるところにゆっくりと指を差し込んだ。
彼女の中は温かく濡れて何度も伸縮を繰り返している。
 
「ここも、弄られた?」
「い、いじられて、ない、です! や、やだ……。そんなこと言わないで」
「可愛い。……もっと乱れて」
 
 ぬちゃりと、水音が部屋中に広がる。 私は指をもう1本増やすと彼女の身体の再奥の固くなっているところを指先で突いた。 金澤さんが『服を着ていた』というなら多分、触れられたのは服から出ている部分。唇から、頬、鼻、耳と愛撫の範囲を広げる。 やがて指の動きに合わせて腰がピクピクと動き出す。
 私の舌が白い首を這っていったとき、彼女の反応が大きく変わる一点があった。
 
「ここか? どうされた?」
「……わ、わからないです……。でも、なにか当たったのが気持ち悪くて」
「これで、忘れるんだ。いいね?」
 
 私は丹念に彼女の首筋に舌を這わす。白くて、細くて。 彼女の首筋は、そこから続く身体がどれだけ美味しいかを示すバロメーターのようにすんなりと美しい。 それと一緒に下半身にも快楽を与える。溢れ出た蜜の1つが、ソファの脚を伝っていった。
 
「いや、もう……吉羅さん」
「香穂子?」
「……もう、指は、いや……。吉羅さん」
 
 何度も何度も私の名前を呼ぶこの子が、たとえようもなく愛しい。 私はそっと彼女の中から指を抜き取ると、彼女の口の中に入れる。 ちろりと動く舌の感覚はますます私を追い詰めていく。
 
 
 
 彼女の中に入ろうとしたとき、彼女は私の耳元で歌うようにささやく。
 
「おかしい、私……。知らないころはなんにも知らなかったのに」
「香穂子?」
「今は……。生まれる前からこうすることを知っていた気がする。吉羅さんのことを知っていた気がするの」
 
 
 
 私は香穂子の身体に自身を埋め込むと、彼女の目を覗き込んで笑った。
 
 
「……もしそうなら、私たちはアルジェントのいう伝説の生まれ変わりなのかもしれないな」
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