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「コンミス? って、香穂、お前が?」

 昼休みの教室。
 今日は、冬休み明け初日ということも手伝って、いつも以上に教室内はざわめいている。
 早速、放課後の約束を取り付けてる級友。運動不足だと愚痴りながら、ジャージに着替えてるヤツ。
 時計を見て慌てて購買に走るヤツ、いろいろだ。
 俺は、おそるおそるといった様子で俺の顔を見上げてくる香穂の顔を覗き込んだ。

「い、一応……」
「って、お前、コンミスの言葉の意味、分かってるのか?」
「えっと、冬海ちゃんが大体説明してくれたかな?第一ヴァイオリンの第一奏者。オケで一番偉い人。
 指揮者さんとの橋渡し役」
「は? ── ま、理屈はそう、だけどな。それだけ、か?」
「ん……。あとは忘れちゃった」

 目の前の赤茶けた髪に目を遣る。俺はもう、何度この角度で、香穂のつむじを見つめただろう。
 っと、もう、去年のことになるのか。
 リリにそそのかされ、香穂が心配で、追いかけるように参加した春のコンクール。
 そして、冬のアンサンブル。

 その上、正月早々、またこんな話を聞くことになるとはな。
 ま、こいつといると飽きない、っていうのは事実だが。
 それに、リリに見初められたこいつが、このまま簡単に冬を越せるとは思わなかったが。
 なんだ? こいつ、また、何かに巻き込まれたって言ってるのか?

「とりあえず、1週間後の理事長就任式までに、アンサンブルを1曲成功させなくちゃいけないの。
 土浦くん、手伝って? お願いだから!」

 香穂は、目の前で両手を合わせると、俺の顔を見づらいのか、ぎゅっと目を閉じている。

「まあ、手伝うことには異論がないけどな。……大丈夫なのか? アンサンブルの選曲は?」
「あ、えっとね、『白鳥の湖』はどうかな、って考えてるの。総譜見てくれる?」

 俺は、香穂の開いた譜面を見据えた。
 そこにはいつの間に、譜面通しをしたのだろう、あちこちに香穂の覚え書きが書き添えてある。

 ── いつも香穂はこんな風だ。

 制服の上からも分かる細い肢体。頼りない音楽知識。
 だけどどういうわけか、香穂が奏でる音は、周囲の人間を魅了する。
 耳については絶対の自信さえ持っている加地は、これ以上ない賞賛の言葉を香穂に振りかけては喜んでる。

『香穂さんの音は、この世のモノじゃないね。天上の音楽というのを、生きてるうちに聴けるなんて。
 僕はきっと世界中で一番幸せな男だと思うよ』
『ってお前、よくしゃあしゃあとそんなセリフが出てくるよな』
『ふふっ。土浦だって、言葉にならないだけで、僕と同じ感想を持ってるくせに』

 なんでも知ってるんだよ、僕。とでも言いたげな加地の顔を思い出す。

 ってまあ、……その、なんだ。俺だって、香穂の音を聴くのは確かに好きだ。だが……。
 男ってもんはそんな風にぺらぺらとしゃべるもんじゃないだろうが。

「えっと、土浦くん、協力、してくれる……? もし、時間的に難しい、ってことだったら……」
「は? 俺が難しい、って言ったらどうするんだよ」
「ん……。火原先輩や柚木先輩は、受験の真っ最中だから……。無理、かな。
 月森くんも、留学の準備で忙しいよね? だから、志水くんか、加地くんに聞いてみようかなって思ってる」
「待った」
「はい?」
「誰も協力しないなんて言ってないだろ? いいよ。俺がやるよ」

 去年の冬。何度となくアンサンブルメンバーと音を合わせていて感じていたことがある。

 ── 誰もが香穂を気にしている。

 それは、単なる、アンサンブルメンバーとしての気に入りよう、ではなかった。
 加地や火原先輩なんかは、それこそあからさまに香穂への執着を隠そうとはしなかったし。
 月森や志水は、日増しに上達していく香穂を最初は、弦仲間として気にしていて。
 やがて、懸命に練習する姿を見守るにつれ、愛しさも増していったようだし。
 柚木先輩に至っては、何かと理由をつけて、香穂子を練習室に呼び出していたように思えた。

 香穂の周りには、男にはない、ふんわりとした優しい空気がある。
 触れるのを、許してくれるんじゃないか。俺のことを、甘やかしてくれるんじゃないか。
 一歩、入り込ませてくれるんじゃないか……。
 ── 思い切って抱いたら、どんな感じなんだろうか、とか。

 その空気は、香穂が作る音楽にも似ている。
 香穂の音楽を気に入ってる俺は、香穂の取り囲む空気も、ちゃんと傷つかないように、守らなきゃいけない、よな。
 ── って、そんなのはただの言い訳で。
 俺は、ただ単に、理屈をつけて、香穂の周りに俺以外の男が来ないようにしているだけなのかもしれない。

 香穂は、みんなの好意には鈍感だ。香穂からしてみたら、『みんないい人』、の一括り。
 もちろん俺もOne of them。たくさんいる、いい人の中の一人、なのだろう。

「本当? どうもありがとう! 土浦くんが一緒にやってくれて嬉しい!」
「そうか?」

 両手をぱちんと胸の前に合わせて、嬉しそうな目で見つめ返してくる香穂に、ふと嫉妬の気持ちが浮かんでくる。
 ── 俺じゃなくても。もしかして、加地でも、志水でも。
 3年生の2人や月森にも、今の俺に対する態度と同じような態度を見せるんじゃないか、とか。

「ん……。あのね、さっきね、吉羅理事長から紹介してもらった、都築さん、って人にも聞いたの。
 アンサンブルメンバー、ヴァイオリンにはピアノの人が一番よ、って。曲目が一番多いし、実際、相性もいいのよ、って」
「都築?」
「えーっと、附属大指揮科の女の人なの。すっごくきりっとして格好いい人……。いいな。憧れちゃうな」
「ま、お前とは正反対の人間、って感じだな」

『指揮科』という言葉を軽く頭にひっかけながら香穂をからかうと、香穂は朱い唇を尖らせてふくれっ面をして見せた。
*...*...*
『コンミス』か……。

 思ったより、今日は寒くない。
 午後からの教室は、正月気分も抜けきらない級友が大きなアクビをしていた。
 もうすぐ3年生になるというこの時期は、いよいよ来年の今頃は受験だ、と気を引き締める人間もいる一方で、
 まだまだ受験までに1年もある、と気を緩ませる輩もいるということだろう。

 放課後、俺は指揮法の本を手に屋上に上がった。
 こういう日は、却ってちょっと寒いくらいの屋外の方が、必要な情報をすっきりと頭の中にインプットできる気がする。

 指揮法。高校の音楽科の中に専科はない。
 俺のピアノは、おごり高ぶるのもどうかと思うが、とりあえずは、音楽科の連中と比べても、ひけを取らないレベルだと分かった。
 だったら、後は独学だろう。

 3年の音楽科転科までに、ピアノも含め、俺ができることは何か。
 それは、音楽科のヤツらに負けないだけの知識を付けて乗り込んでやることだろう。
 ── って、俺が転科するころには、月森はいない、ってか。
 いろいろ小うるさいヤツだったけど、月森のいない音楽科、っていうのも、なんかこう張り合いがない。

 同級生のピアノ専科のヤツに、俺が気を止めるほどの実力を持った人間は皆無だったし。
 敢えて気になると言えば、香穂の親友が付き合っているという内田くらいか。俺の気を惹くのは。
 って、あいつもヴァイオリン専科だったな。

「っと。今日はここまで、か」

 知らないうちに風が俺の体温を奪っていたらしい。
 俺は自分で決めていたページまで目を通すと、軽く伸びをしてベンチから立ち上がった。

 一旦、教室に戻るか。

 そういえば、あいつ、金やんに聞きたいことがあるって言って、教室を飛びだしていったから、
 もうそろそろ戻ってきてるかもしれない。なんだったら、今年初めての音合わせをしてもいいし。

「ん……? なんだ?」

 ドアの向こうから、甲高い声がする。男と、女、ってところか? 2人か。

「ねえねえ。知ってた? またあの子が、なにかやるらしいよ」
「なにかって、なんのことだ?」
「コ・ン・ミ・ス、だって。普通科のクセにどうしてこんなにしゃしゃり出てくるのかなあ。それほど上手ってワケでもないのに」

 普通科棟から少し距離がある音楽科棟。その音楽科棟の上にある屋上には普通科の人間は殆ど来ない。
 来ると言ったら、ヴァイオリンの練習をする香穂とそれに付き合う俺くらいなモノで。
 同士、というのか、誰にも聞かれることのない、という安心感が、彼らの声を高くしている。

「ああ、普通科のヴァイオリン弾きのことか」
「うん。大して上手くもないクセに、どうしてあんなに評価が高いのかなー。月森くんや内田くん、あの子のこと、絶賛してるじゃない」
「鷹野はそれほどでもなかったけどな」
「だから、音楽科の女子の中では評判だよ。あの子は、色仕掛けでいろんなことしてるんじゃないか、って」
「へえ」

 話が終わらないのか2人は、屋上へ向かうドア前の踊り場で話し続けてる。
 普通科のヴァイオリン弾き、といったらあいつしかいない。
 色仕掛け? 香穂が? 音楽科の連中と?

「さっきもさ、音楽室で、金やんとあれこれ話してたじゃん。金やんってば、目尻下げちゃってさー。
 あれも、日野さんに籠絡されてる、って感じ、そのままだよね」
「へえ。……まあな。日野って見た感じ可愛いじゃん。頼めば誰だってヤらせてくれるんじゃないか?
 で、あんまりいいから、みんな何も言えない、と。……俺も一度頼んでみるかなー」
「みんな、ねえ……」
「月森だって、あの1年の志水、ってヤツだって。3年のあの2人の先輩も、骨抜きだからなー。日野に。
 竹内や二階堂にも教えておくか。日野に頼めばヤラせてもらえる、ってさ」
「ふふ、そんなこと言ったら、ますます日野さんのファンが増えちゃったりして?」
「まあいい。それより吹谷、そろそろ練習を始めないか? 風も止んだみたいだし。これなら楽譜も飛ばないだろ?」
「オッケー」

 ドアが鈍い音を立てて開かれる。
 冬の日差しは、冬というイメージ以上の逆光だったのだろう。2人は一瞬目を細めて。
 やがて俺の姿を認めると、ぎょっとしたように後ずさった。

「……どうも。屋上に練習しに来たんだろ? 入れよ」
「いや、その……」

 吹谷と呼ばれていた女は、弾かれたように、白い制服の影に縮こまった。
 隠しきれない楽器の端が目に入る。ふうん。銀色の笛吹か。

「だったら。── 今の話の続き、してみろよ。観客がいた方が楽しめるだろ、お前たちも。
 ── 香穂が、どうしたって?」

 男はチェロを盾のように俺に向けると、顔色を変えている。── 俺の顔色も、こいつみたいに青ざめているのかもしれない。
 って、楽器をそんな風に扱う人間に、香穂を貶める資格なんて、あるはずもないけどな。
 握りしめた拳が、ギリギリと手の平を刺激する。

 日頃、長い爪は、ピアノに対する冒涜だと思っている俺は、いつも短く爪を切る。
 その爪が肉の中に入り込んでいく。不思議に痛みは感じないままで。

「き、君には関係ないだろう、なぜ……?」
「うるせえ」

 どうして、こんな気持ちが浮かんでくるのかわからない。
 自分の悪口を言われた方が、まだどれだけか気持ちが軽いとさえ思える。
 香穂の悪口。性の悪口。

『頼めば誰だってヤらせてくれる』

 香穂がそんな女じゃないってことくらい、知ってる。アンサンブルメンバーのみんなも分かってる。
 例え、自分だけが、香穂を抱く権利を得たいと思っていても、だ。
 不器用で、優しいヤツ。
 去年のクリスマスコンサートの直前、俺と対立した加地を、懸命にフォローしてた背中を思い出す。
 数日後、吹っ切れたような気持ちいい顔で練習に向かった加地も。

 ── あいつは、そんなヤツじゃないんだよ。

「お前の顔、覚えたぜ。今度、同じこと言ったら、どうなるかわかってんだろうな?」
「君に、何の権利が……」
「返事」

 俺が目に力を入れて再び男を睨み付けると、2人も縮み上がったように顔を強張らせた。

「は、はい……っ。じゃ、俺たちは練習があるんで。い、行こう? 吹谷」
「う、うん!」

 ふ、っと大きく息をつく。
 気がついたら手にしていた本に1本くっきりとした線が残っている。

「── やれやれ。行った、か」

 真剣な面持ちで譜面を見つめている香穂の横顔を思い出す。

 お前の周りには、悪とか、偽とか、暗い雰囲気は似合わない。
 できることなら俺が、片時もそばにいて、そういった汚いモノから守ってやりたい。

 だが……。
 女同士のウワサっていうのは、すごく厄介なモノだってことは、中学の頃、イヤってほど知ったしな。
 ── 薄汚いウワサがあいつの耳に入るのも時間の問題、ってことか。


 俺は本の折り目を撫でると、肩でため息をついた。
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