*...*...* Request 2 *...*...*
「あ、土浦くん。お帰り〜。待ってたんだ」
「香穂」

 すっきりしない頭で自分の教室に戻ると、人待ち顔の香穂が、俺の席から立ち上がった。
 机の上には、昼休みに見た楽譜が広げられている。
 太くて赤いマーカーの吹き出しは、金やんのコメントか。

「あのね、今度のアンサンブル曲の『白鳥の湖』ね、とりあえず、こんな風に曲想を考えたの。
 土浦くんなら、どうやって組み立てる? 教えて?」
「お前……」
「土浦くんと話すとね、目からね、なにか落ちるような気がするんだー。
 あれ、なにか、ってなんだっけ? ……えっと、涙?」
「バカ。『目からウロコ』だろうが」
「あはは。そう、『ウロコ』だよね? えっと、じゃあお願いします」

 香穂のこの様子を見る限り、さっきのウワサはまだこいつの耳には入ってない、らしい。
 俺は安堵の息をつくと、隣りの椅子を引いた。

 香穂はさっそく机いっぱいに譜面を広げると、青いペンを取り出して、楽譜を追っている。
 楽譜を見つめている香穂は、真剣そのもので。
 その真剣さは、真剣に音楽に向かってる人間のどこかを震わせて、共鳴させる。
 だから、金やんだって。月森だって。去年のコンクール参加者だって。
 それに、コンクールに参加してないヤツらだって。
 音楽に立ち向かってる人間は、誰でも自覚のないまま、香穂のやることに協力したくなってくるんだ。

 音楽なんてほんの手遊び、って思ってる人間にはそれが分からない。
 だから、もっと低俗でわかりやすい定義を作る。たとえば、『性』だとか。『誰でも寝る』だとか。
 ── 全く。許せないよな。

「……だよ? ここは、フェルマータを長めに取ろうかな、って……」
「ああ」

 伏し目がちの睫が作る長い影が、白い艶を持った頬に陰影を作っている。
 ── こいつが、『性』の対象として見られてる。

『誰でもヤラせてもらえる女』
『日野は良すぎるから』

 香穂のことをそんな風に捉えてるなんて。
 考えるだけで、胸がムカついてくる。

「ね、土浦くん、聞いてる?」

 俺の様子がいつもと違っているのに、ようやく気がついたらしい。
 香穂はじっと俺の顔を見つめた後、持っていたペンにふたをすると、俺の顔を覗き込んだ。

「……なにか、あったの?」
「いや。なんでもない」
「ん……。あ、もしかして音楽科の人とケンカしちゃった、とか?」

 香穂と俺との間に横たわる、重い空気を払いのけたかったのだろう。
 香穂は、おどけたような口調でそう言った。
 俺は思わずぎょっとして香穂を睨み付ける。
 って、なんだ、それ。こいつ、もしかして聞いてたのか?
 俺とあいつらのやりとりを……?

「は? お前、あそこにいたのかよ?」
「……え? もしかして本当にケンカしたの? 音楽科の人と?」

 ── しまった。

 これって、もしかして、自分で墓穴堀った、とか?
 って、なにやってるんだ、俺。
 香穂以外のことなら、なんでもそつなくやりこなせるのに。
 こいつが、あの馬鹿な音楽科の連中が言ってたことを聞いていたのか、聞いていなかったのか。
 それだけがすごく気になる。

「聞いてたのか? どうなんだよ?」

 俺は香穂の肩に手を当てて揺すった。
 制服の上からでもわかる華奢な細い肩。
 もう少し力を入れたら、俺の手の中であっさり壊れそうな気がする。

「えっと……。さっき、屋上に土浦くんを探しにいって……。誰かと話してたみたいだったから、教室に戻ったの。
 誰と話してたかは知らなかった。音楽科の人だったの?」
「話の内容は?」
「ん……。土浦くんの声しか聞こえなかった。本当だよ?」

 俺のあまりの剣幕に、香穂は怯えたような表情を浮かべると、何度も首を横に振っている。
 多分、不本意とはいえ、立ち聞きするような格好になった自分を責めているのだろう。

「香穂……」

 目の前のことになんでも一生懸命になって。優しすぎるほど優しいこいつが、あのウワサを聞いたら。
 そして実際、そのウワサを信じた誰かに連れ出されて。
 そして、俺の今、想像しているようなことがそのまま起きたら……。

 ── ダメだ。頭がガンガンする。

 元々、自宅で使うピアノは、わざと鍵盤を重くしてあることもあって、俺の指の力は他のどんなピアノ科のヤツより強い。
 無意識のうちに力を込めていたのだろう、香穂の顔が痛みで歪んだ。

「土浦くん……。痛いよ」
「あ、っと。……悪い」

 涙目になった香穂を見て、俺はようやく手を放した。

 ほっと、ため息が出る。

 香穂が、あの馬鹿なウワサを聞いて流す心の涙と。今、俺の指の痛みから出る身体の涙と。
 どちらがより香穂を傷つけるだろうと考えたとき、後者の方が確実に少ないだろう。

 そう思った俺は香穂に謝ることもせずに、そっぽを向いて窓の外を見た。
 それを香穂は、俺がふてくされてると思ったのだろう。
 改まった顔で俺を見つめると、一言一言諭すようにつぶやいた。

「土浦くんは、指揮者志望なんだよね」
「な、なんだよ、突然」
「3年からは、今度の4月からは、音楽科に転科するんだよね?」
「ああ」
「だったら……。どのパートの人とも、その……。仲良くしなきゃいけないと思うの。
 あの、媚びへつらう、っていうんじゃないよ? できれば、みんなと、円満に……」
「ああ。お前のそのセリフはもう聞き飽きたよ。続き、言ってやろうか?
『音楽科とも仲良くしろ』ってんだろ? 肝に銘じておくよ。じゃあな」
「あ、土浦くん!」
「今日の譜読みはもう終わろうぜ? こんなんじゃ、気分も乗らないしさ」

 俺は香穂の返事を聞く前に、自分のカバンを持って立ち上がると教室を後にした。
*...*...*
 あの日以来。

 香穂は俺の顔を廊下で見かけても笑わなくなった。
 でも俺を無視するほどの気の強さは、持ち合わせていないのだろう。
 小さく頭を下げると、すぐ教室へ帰っていく。その繰り返しだった。

 クラスは違うとはいえ、普通科同士。それにお互い、相手のクラスに友人は多い。
 元々、香穂はそれほど積極的な性格ってワケではない。
 そういう性格だから、逆にああいう口から生まれたようなハキハキした気性の天羽とはウマが合うのかもしれない。

「土浦くーーん! あんた、この頃どうしたのさ」
「って、何がだよ、天羽」

 天気の悪い放課後、天羽は、先生がドアから出るのを見計らったように俺の席へやってきた。
 こいつも多少は気を遣うところがあるらしい。いつもよりやや声を潜めて香穂の名前を挙げた。

「香穂のこと。あんたたち、最近、お互いの教室、行き来してないような感じ?」
「べ、別に。大した理由なんてない。あいつも今度のアンサンブルのことで頭がいっぱいなんだろ?」
「だーかーら。余計気になるんじゃない。香穂、いつも土浦くんのこと、一番に頼ってたじゃん」

 確かに、そうだ……。
 数いるアンサンブルメンバーの中でも。
 香穂は、相談事があると何でも一番に俺に声を掛けてきた。
 クリスマスコンサートでも。
 まあ、ピアノっていうのはいろんな曲に使われることのある、柔軟性のある楽器だから、と言えばそれまでだが、
 思えば全ての曲に、俺のピアノが入っていた、よな。

 それが、今は……。
 あんな別れ方をしたから、っていうのが理由なんだろう。
 香穂は何かの弾みで俺を見つけても、そそくさとその場を後にする。
 俺は俺で、あのウワサが香穂の耳に入らないように、と、放課後は、香穂の周りにいたりもする。

 ── 近くにいながら、話さない。

 それは、ずっと俺たちのことを見ていた天羽からしてみたら、かなり違和感のある風景なのだろう。
 天羽はわざとらしく、ハァ、と息を吐き出すと、頭の後ろを引っ掻いている。

「んー。スッポンの天羽としてはいろいろ気になるところではあるんだけどねえ。
 や、私は香穂の親友だから、その、取材根性を抜き、にしてもね」
「って、お前も人の心配してないで、自分の心配でもしたらどうだ?」
「うわ、きっつ。機嫌、相変わらず悪し、ってところか。……って、あれ? 香穂!?」
「香穂?」

 突然、天羽が素っ頓狂な声を上げた、かと思ったら、ドアのところに、香穂がヴァイオリンを持って立っていた。

「土浦くん。あ、天羽ちゃんもいたんだ。……あのね、えっと。
 今日時間があったら、土浦くんと2人練習したいなって思って、お願いにきたの」
「俺と、か?」

 珍しいこともある。思えば、あの日以来か。香穂が俺に話しかけてきたのは。

「ん……。他のメンバーとはね、何度か音合わせして、大体の感じは掴めたの。
 あと、合わせてないのは、土浦くんのピアノ、だけで」
「香穂」
「……どうかな? 都合、悪いかな?」

 香穂は、この場に天羽がいてくれるのが救いになっているのか、何度か声を詰まらせながらも、縋るように俺を見ている。
 理事長の就任式まで、もう間がない。
 今、ピアノを合わせておかないことには、かなり、マズいことになるのは明白だ。
 俺は、香穂から口を利いてくれたことが嬉しくて、香穂の方に体を向けた。

「了解。分かったぜ。お前と音を合わせるのは久しぶりだな。よろしく頼むぜ」
「本当? いいの? やった! どうもありがとう!!」

 香穂は俺の言葉を理解した途端、弾けるような笑顔を見せる。

 ── そう。この笑顔を、曇らせたくない。
 できれば、香穂の周りは音楽だけで満たしてやりたい。

 加地はいつも言う。

『泣きたくなるほどの音色を奏でる香穂さんには、綺麗なモノだけが目に入るような環境を用意してあげたいよ。
 あの音を、誰にも汚されたくない、っていうか、ね?』

 聞いたときは、あまりのセリフに、呆れてモノも言えなかったもんだが。
 せめて、今、こいつが抱えている荷物を降ろすときまでは、あんな汚いウワサなど、こいつの耳に入れたくない、と思ってしまう。
 俺は数日間、取り出すことのなかった楽譜を鞄から出すと、椅子から立ち上がった。

 視界の端で天羽が満足そうに笑っているのが分かる。
 ってなんだよ。その勝ち誇った顔は。
 どこか照れくさくて、忌々しくて、俺はわざと天羽を無視して、香穂に話しかけた。


「よし。じゃあ行こうぜ、香穂。場所は決めてあるのか?」
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