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「えっとね、場所はね、練習室を予約してあるの。土浦くん、練習室のピアノ、音が綺麗で好きだ、って言ってたことあったでしょう?」
「ああ」
「── よかった。一緒に練習してくれて」
香穂は、踊るような足取りで、練習室に向かう。
俺は緩んでくる頬を、普段の場所に戻すのに必死だった。
……って、なんだよ。
俺と一緒に練習する、っていうだけで、そんなに喜んでくれるのか。
もちろん、俺にピアノを奏でるという技量が無ければ、俺と香穂は、ただ同じ高校に在学していただけ、というだけの、
顔も知らない存在のままの人間だっただろう。
香穂が、『俺』という人間ではなく、『ピアノを弾く俺』という人間に惹かれているのは分かる。
けれど、今日はどうしてか、その事実が、嬉しく感じられたりもする。
ピアノを弾ける俺は、音楽を通して、香穂の一番のポジションにいることができるんだ、ってな。
音楽棟を通って向かう練習室。
一年前は、別の学校のように違和感のある場所だった。
しかし今では、1日1度はこの場所に顔を出すせいか、音楽科の中にも顔見知りの連中も増えてきた。
時々は、目で挨拶をしたり。中には声を掛けてきてくれるヤツもいる。
年が改まった今、新しいウワサの中心となった香穂への注目度は俺以上だ。
「日野先輩! 俺、応援してるっす! コンミス、頑張ってください!」
「あ、茅野くん……。いつも、あの、ありがとうね?」
「お、俺も、茅野には負けないですよ! 応援してますよ〜」
「わ、白石くんも……。ん、ありがと。練習するね?」
女だけじゃない。男も。もうすぐ卒業の3年も。後輩の1年も、香穂に対してエールを送る。
それらは全て、これからの香穂の活躍を期待する賞賛の声ばかりだった。
って、まあ、香穂の背後を歩いている俺が怖くて、非難の声をあげたいヤツは、あげられなかったのかもしれないな。
「えっと、ここの部屋なの。土浦くん、入って?」
「おう」
と、香穂がドアノブに触れたとき、大きな声とともに、香穂の肩を叩く人間がいた。
「はい?」
「あ! 日野さん。今日も練習? お疲れ様!」
「えっと……。ごめんなさい。私、あなたのこと、知らなくて……」
突然、白い制服の女に話しかけられて、香穂は手にしていた楽譜を握りしめると、おろおろと俺の顔を見た。
きっと顔見知り程度の人間なのだろう。困ったように俺と女を見比べている。
女は俺と香穂の間に身体を滑り込ませると、に背を向けて話し始めた。
「あれ? 日野さん、私のこと知らなかったかな? 私、音楽科2年の吹谷涼子、って言います」
「あ、ごめんなさい。あの、初めまして。私、日野です」
「今更 名乗ってもらわなくても、日野さんの活躍はみんな知ってるって。
私、ずっと応援してるんだ〜。日野さんのこと。普通科なのにすごいよね。今度はコンミスだって!」
白い制服の表情は分からない。心持ち力の入った肩が、妙に威圧感を感じる。
女の肩越しに見える香穂の頬は、嬉しさで朱く染まり出した。
「あ、ありがとう……。どうなるかわからないけど、頑張ります」
「そうそう。その調子だよ!」
……この女、って確か……。吹谷、って……。
俺は記憶の糸を辿る。
大体女なんてどれも同じに見えてくる俺としては、白い制服は白い制服で一括りだ。
でも、この声にはどこか聞き覚えがある。
忘れられないほどの刷り込み。……俺は、こいつの声を聞くのは初めてじゃない。
不快感が身体中を締め付ける。この声……。この、音は。
「えっと、吹谷さんは、んー。フルート、かな?」
「あ、そうなの。わかっちゃった? って、楽器持ってればわかるよね?」
「ん。銀色ですごく綺麗だから……」
女は目の前で手にしていた楽器をちらつかせた。
音楽科に入学してくるヤツは、みんなそれぞれ自分の楽器に執着とも言える愛着を持っている。
高校生ともなれば、バイトなり、親が調達するなりで、みんな学院からのお仕着せじゃない、自分用の楽器を持つ。
この、フルートの色。……フォルムにも見覚えがある。── こいつ、は。
── 屋上で、香穂のことを、これ以上なく貶めた、ヤツ……?
吹谷は全く俺を無視して、香穂に笑いかけた。
「日野さん。頑張ってね。私、あなたのこと応援してるんだ。
いろいろ悪く言う人もいるけど、そんな人ばっかりじゃないからね。とにかく頑張ってね!」
「わ……。ありがとう。すごく嬉しい!
あの、吹谷さん……。私、いろいろ足りないところがあると思うの。どうぞ教えてやってね」
目の前で下らなすぎる芝居を見ているようで、俺は思わず大声を上げた。
「おい、香穂!」
「え? どうしたの? 土浦くん」
吹谷は俺の声に驚くことなくにっこり笑うと、ようやく俺の方に視線を向けた。
「とにかくそういうことだから。じゃあね、日野さん」
ずっと睨み付けていた俺を、少しでも怖がる素振りでも見せればまだ女らしいとさえ思えたが。
銀色の笛吹は、何もかもお見通し、とでもいいたげな、人を小馬鹿にしたような目で俺を見た。
(あのウワサ、日野さんに教えてあげたら? ── あなたにできるならね)
微笑んだままの口元を責めることもできず。
かといって香穂の前で問いただすことともできないまま、俺はぼんやりと後ろ姿を目で追った。
── まったく。大したヤツだぜ。
あんな女の1000分の1のふてぶてしさでも香穂にあれば、俺もこれほど心配しないんだがな。
香穂は練習室に入ると、椅子の上にヴァイオリンケースを置いて、嬉しそうに振り返った。
「んー。今日はラッキーデーだよ。土浦くんも練習オーケーしてくれるし、
吹谷さん? って人や、他の音楽科の後輩くんからも、応援してるってメッセージがもらえたし。
きっといい音が出ると思う……。よーし。今日も練習、頑張るぞ!」
「香穂……」
本当に、素直なヤツ。
俺は、こいつのこういう素直なところが好きで。
こんなヤツだからこそ、こいつの音色もまた、素直で、伸びやかで、人の気持ちを魅了するのだろう、とは思う。
だけど、なんなんだろう。
いつものこいつの美点が、今の俺には、腹立たしく映って仕方ない。
「お前、そりゃちょっと単純すぎやしないか?」
「え? どうして? 単純……? 嬉しかった、じゃダメなの?」
香穂は、意外なモノでも見るような目で俺を見た。
── 俺は、こいつを今のこいつのまま、守ってやりたいと思う。
だけど、その思いと同じくらいの強さで、100パーセント守ってやることは無理だ、ということも分かっている。
大体、俺は、四六時中 香穂のそばにはいてやれない。
吹谷っていう あんな したたかな女にかかれば、香穂なんて赤ん坊みたいなもんだろう。
だから……。
お前がもう少し、人に揉まれて、いい意味で悪賢くならないと俺が困るんだよ。
「ったく。そんなんだから、お前、音楽科の連中から いいように言われるんだよ」
「どうしたの? 土浦くん。なに、怒ってるの?」
口に載せた言葉は、一旦、空気の中へ放り出されると、別の生き物のように、ぶつけた相手を傷つけていく。
さっきまで、嬉しさで朱色に染まっていた、香穂の頬が、透けたように白くなった。
── 止めなければ。
これ以上、俺の不安を、こいつにぶつけてどうするんだよ。
そう思っていながらも、俺の口は勝手に香穂を追いつめていく。
「お前さ、なんでも物事の良い面だけ、見ようとするところあるよな。みんな、好きです。頑張ります、ってさ。
いい加減、周りがみんないい人だって思いこむのは止めたらどうだ?」
「そ、そう思って、何がいけないの?」
今まで話を聞く一方だった香穂が俺の顔を睨みつける。
目が鋭く光っている。こいつのこんな顔を見たのは初めてかもしれない。
「香穂?」
「去年の春から、ずっと音楽に触れてて……。私、不安だった。音楽のこと、なにもわからなかったから」
「おい……」
光が一際大きく反射した、と思ったら、それはさらさらと頬を伝って床に落ちていく。
それを俺は妙に冷静な気持ちで受け止めていた。
── こんな風に、俺も今自分が思っていること、全てを吐き出せたなら。
少しは、苛立たしい気持ちも治まるのかもしれない。
そんな、妬ましさもあった。
香穂は泣き顔を隠そうともしないで、真っ直ぐに俺を見据えた。
「不安で なにもかも放り出したくなったとき、『頑張ってね』って言葉がどれだけ嬉しかったか、
きっと何でもできる土浦くんにはわからないんだ。ひどいよ!」
「わかった、わかった。お前にかかれば、きっとどんな人間も味方、なんだよな。あの吹谷ってヤツも」
「どうして? どうして『頑張ってね』って声を掛けてきてくれた、吹谷さんを悪く言うの?」
「ま、お前の勝手にしろよ。じゃあな」
── またしても。
練習をしないまま、俺は練習室から一人飛び出す。
この場の湿った雰囲気を振り払いたくて、俺は教室まで走り続けた。
香穂のヤツ、泣いてるかな?
案外芯の強いヤツだから、一人残って、練習してるだろうか。
今まで感じたことのないような痛みが、胸の中に広がっていく。
腹立たしさなのか、不甲斐なさなのか。
この感情は誰に向かおうとしている? 香穂か? あの吹谷って女か?
── それとも、香穂を泣かせた俺自身へ、か。
あいつ、俺が2人練習を承諾したとき、弾けるような笑顔で笑ってたっけ。
こうも言ってたな。
『あと、合わせてないのは、土浦くんのピアノ、だけなの』
ってことは、なんだ。
今日俺が練習をすっぽかしたことで、またあいつの仕上がりが遅くなるのか?
暮れかかった教室に辿り着く。
そこには、クラスメイトが一人残って、カバンの中に大事そうに参考書を入れているところだった。
「よぉ、土浦、どうした。怒り狂った顔して」
「実川……。開口一番、その言い草はないんじゃないか?」
「ははっ。さっき彼女さんと嬉しそうに教室出てったばっかりなのに、もう戻ってきたのか」
俺は返事をする気も失せて、代わりにため息をついた。
「どれ。俺に話してみ? 相談料は高くつくけど」
「やなこった」
「話せば楽になるってことも多少はあるぜ? ほら、以前、俺も土浦に女の話、聞いてもらったことあったろ?」
実川は、俺のただならない雰囲気を察すると、つかつかと俺の前の椅子に座った。
「……人のいい女ってのも苦労する、ってこと。それ以上でもそれ以下でもねえよ」
「は?」
実川は以前俺が相談に乗ってやったことが余程記憶にあるのか、俺の話を聞く体勢を作って、席から離れようとしない。
「ったく。いや、実は、さ……」
俺は、感情のまま、かいつまんで香穂の話をした。
屋上での、音楽科のヤツらの会話。
香穂はそんなヤツじゃないということ。
なんでも一生懸命で、明るくて。冬のコンサートも、あいつのおかげで成功したということ。
だが、逆に、香穂の人の良さが、今は、心配だということ── 。
実川は手持ちぶさたに手にしていたシャーペンで机の上を叩きながら話を聞き終えると、ぽつりとつぶやいた。
「ふーん。なるほどね。確かに、その音楽科のヤツら、ムカつくな」
「だろ?」
「女って怖いよなー。表と裏の顔がある、っていうか。お前の顔、覚えてても、それでも、そんなこと言えるってか」
「ホントだぜ。だから俺、女って苦手なんだ」
「日野は別にして、か?」
「なに?」
「つーか……」
そこで実川は、イタズラっぽい表情を浮かべて俺を見た。
「だけどさ、だからってお前と日野がそこでケンカする必要はないだろ?」
「そ、それは……っ」
練習室。ドアの隙間に消えていった、香穂の泣き顔を思い出す。
教室の壁時計を見る。
あいつ……。練習室の予約時間は、とうに過ぎた、か。
今は、あいつ、どこにいるんだろう。
雲が濃くなってきたから、今日は外での練習は止めて、音楽室にでも行ったか。
それとも……。
── 俺の馬鹿な一言のせいで、まだ、一人で泣いてたりするのだろうか?
傷つけたくない。守りたい。
そんなこと思いながら、から回ってるのは、俺の方。
── 全く。情けない、よな。
話の中から、実川は、俺の香穂への気持ちを察したのだろう。
頭の後ろで手を組むと、俺の朱くなった頬を見つめながら からかい続ける。
「さっさと本当のこと言って、仲直りしちまえよ。こじれると面倒だぜ?」
「う、うるさい」
「全く。カッコつけだからなー。お前って。日野も苦労するぜ、きっと」