*...*...* Request 4 *...*...*
 休日の昼下がり。
 先日母さんと姉貴の意見を取り入れてリフォームしたばかりのキッチンには、暖かな日が差し込んでいる。

「ほら、姉貴。できたぞ」
「サンキュー。助かる! 私、あんたのチャーハン、結構気に入ってるんだ〜。って、あれ? あんたのは?」
「ああ。後で食べる」

 一体、俺はどうしちまった、っていうんだろう。

 今まで生きてきて食欲が落ちるなんてこと、一度もなかったのに。
 ましてや、料理の勘が鈍る、ということも。

「こ、この味! 梁、一体どうしちゃったの? 古今東西、こんな辛いチャーハン、ってありえないかも」

 姉貴は俺の作ったチャーハンを口に含むと、一瞬 目を白黒させると、勢いよくグラスに注がれている水を飲み干した。

「って、姉貴。作ってもらって何エラそうなこと言ってんだよ」
「そういうなら梁も食べてごらん?」
「おう……。……!! って、姉貴、水、水!!!」
「はい。あ、私もさっき飲み干しちゃったんだ。ちょっと待って」
「早く!!」

 姉貴が持ってきてくれた水1杯を飲み干しても、まだ飲み足りず、俺はその後2杯立て続けに飲んで息をついた。
 って砂糖水を飲んでも、今なら辛く感じるかもしれない。

「って……どうも、ケチャップと豆板醤を間違えたみたい、だな……」
「あんたねー。目が悪いってわけじゃないのに、どうしてそんなもん、間違えるの?」
「色、だろう。多分」
「は? 色?? あんたには鼻っていうモンがないの?」

 姉貴は、ぽんぽんと威勢がいい。ともすれば、クラスメイトの天羽と話しているような錯覚が浮かんでくる。
 俺は勢いよくフライパンに水を流した。前の料理の味が残っていると、次に作る料理の味はどうしても落ちるしな。

「どうする? なんならもう一度作り直してやるぜ?
 メシの量を増やすか、タマゴを入れるか。ホワイトソースを掛ければ、案外イケるかもしれない」
「ま、いいわ。それよりも、梁。あんたこの頃、ピアノを弾いてないって話じゃない」
「な、なんだよ、突然」

 姉貴は食べかけの皿を俺の前に突き出すと、まじまじとエプロン姿の俺を見た。
 口では遠慮しながらも、行動から察するに、なんだ? やっぱり作り直せ、ってことか。
 俺は、皿の中のチャーハン受け取ると、再び換気扇をつけた。

「私はあんたと一緒で、さっぱりした性格だからねー。隠しごとは嫌いなの。
 はっきり言うと、母さんから偵察頼まれたの。それだけ。で、どうなの?」
「ど、どうなの、ってさ……」
「あんた、今年の4月から音楽科に進むって、張り切ってたじゃない。
 ま、あんたの実力だったら、このままのレベルでも音大に合格は出来そうだけど。
 やっぱり、今までやってたことを急にやらなくなるって、親として心配なんじゃない?」

 姉貴の視線から顔を背けながらも、俺は母さんの心配そうな目つきを思い出していた。

 ── 確かに。
 あれから……。
 そう。香穂にキツく当たった日から、ぱったり俺の練習量は減った。

 もちろん全く練習をしていないというわけじゃない。
 丸1日練習をしないことによって、発生するデメリットは口では言い表せないからだ。
 1日のロスは3日のリカバリ時間が必要になり、3日分の上達がそこで滞る。
 指の動きが自分の指じゃないように、おぼつかなくなる。

 ── 出来ていたモノが出来なくなる。
 そういう、効率の悪いことは好きじゃない。

「で、実際のところはどうなの? ん?」

 って、こんなこと、姉貴に言えやしない。
 鍵盤を見るたび、香穂の泣き顔を思い出す、なんて。

 俺が練習室を飛びだして以来、香穂はもう廊下で会っても笑うことはしなくなった。購買でも、カフェテリアでも。
 そもそもあまり会わなくもなった。
 香穂なりに考えて、俺と顔を合わせるのを避けているような様子で。
 ── 俺が見る香穂の姿は、いつも背中ばかりだ。

(香穂……)

 心持ち痩せたような身体のラインが気になる。白すぎる頬も。
 ── 春を迎えて、また香穂は綺麗になったような気がする。
 って、音楽科のヤツらの下らなすぎるウワサ……。

『あいつの身体がすごく良い』

 なんてのに一番振り回されてるのは俺自身かもしれない。
 守ってやりたい。あいつを取り巻く、汚いものに。
 そう思いながらの俺の行動は、真逆の方向に進んでいる。

「梁? そこで浸らないの! 私は、母さんに報告義務があるんだけど? なんかコメントはないの?」

 手っ取り早くできる方法をと、牛乳を入れたスクランブルエッグを作り、さっきの豆板醤味のチャーハンに乗せる。
 姉貴は、ハフハフと息を吹きかけながら、美味しそうにスプーンを動かし出した。

「ほれ、梁。言ってごらん? 楽になるよ〜」
「……姉貴。茶化すなよ」

 今じゃ男と女、ということもあって、俺の体力は完全に姉貴の上を行っている。それはわかってる。
 だけど、なんていうんだろうな。
 幼い頃、体力に歴然とした差がある頃に刷り込まれた優位関係は、今も俺たちの間に横たわっている。
 こう、姉貴の詰問を受け流せない俺がいるんだよな。

 俺は勢いよくフライパンに水を流した。勢いよく湯気が溢れる。
 ── ヤバい。このままじゃ、今の俺はこのフライパン並みに口から想いが吐き出してしまいそうだ。

「梁? ほらほら」
「……ずらい」
「は? なに?」
「だから。恋わずらい、って言ってるだろ? 好きなヤツを泣かしちまって、自己嫌悪中ってとこだ」
「は? あんたが??」
「うるさい。あ、電話みたいだな。俺が出るよ!」

 俺は、気忙しそうに肩を揺らしている子機を肩に挟むと、見えない相手に大声で話しかけた。
*...*...*
「……っ! どこだ。あいつ!」

 Tシャツの上に革ジャンを羽織って、寒空へ飛び出す。

『香穂がケガしたの! 足が捻って歩けないみたい。助けて土浦くん!』

 さっきの電話を思い出す。天羽のせっぱ詰まった声が、耳にこびりついている。
 って、コンサート本番までもうあまり時間がない。
 どの楽器を演奏するにしたって火原先輩じゃないけど、健康な身体が一番の武器だ。

 百歩譲って、ケガをするなら手より足だ。だけど、それはピアノに限った話で。
 立奏がメインのヴァイオリンが、足をケガしたらそれこそ命取りだ。

『どこだ? どこにいる?』
『駅前なの。あそこの階段、掃除したばっかりで濡れてたのさ。香穂、足を滑らせたみたいで……。
 私じゃさすがに香穂の身体、抱きかかえられないし。土浦くん、来て!』
『すぐ行く。待ってろよ』

 まったく……。
 俺は駅に向かう道々、つぶやき続けた。

 香穂は、大事なヤツだ。アンサンブルメンバーとしても。音楽を志す人間としても。
 だが、それだけじゃないことに、俺は最近気付き始めていた。
 もしも、俺が、音楽の道の向こうにだけ、香穂の存在を感じているのなら。
『性』としての香穂のウワサを聞いたとき、そんなに腹は立たなかっただろう。

 どうしてこれほどまでに不愉快だったのか。
 今の俺なら分かる気がする。
 俺の中で敏感に反応したのは、香穂の女の部分に対する、俺の男の部分だったのだ。

 できれば……。いや、絶対。香穂を誰にも渡したくない。

 香穂の存在を、性的なおもちゃにされたくない。例え妄想の中であっても。
 俺も子どもだったんだろう。ウワサを聞いたとき、どうしようもなく身体が疼いて。
 やり切れない思いが、怒りへと変化して、香穂へとぶつかっていった。

 ── あいつは何一つ悪くないのに。

 ヴァレンタインが近い、赤とピンクの甘い街並みが続く駅前で、俺は、香穂と天羽の姿を捜した。
 あいつがケガをしたと聞くだけで、こんなにも慌てる俺がいる。

『さっさと本当のこと言って、仲直りしちまえよ』

 実川の言葉が浮かんでくる。って本当にそうだよな。
 ── 今なら、全部、あいつに告げて。全部、素直に謝れるような気がする。

「あ、あれ? 土浦くん?」
「香穂!? お前、足は?」
「え? 足? なんのこと……?」

 目的の場所について、周囲を見渡すと、そこには、この寒いのにブーツを履いて、膝をむき出しにしている香穂が立っていた。

「見せてみろ」
「な、なに……? わっ!」

 俺は屈んで香穂の脚をそっと撫でた。
 つるりとした膝にケガはない。なにより、香穂は至っておっとりとした顔をしている。

「ってことはなんだ? 俺は、天羽に謀られた、ってことか」
「ご、ごめんなさい! 私……っ」
「香穂?」
「あ、あの……。天羽ちゃんが私に任せておいて、って言ってくれて、時間と場所だけ決めてて。
 私てっきり天羽ちゃんと冬海ちゃんが来てくれると思ってたの。3人で遊びに行くのかな、って……」

 申し訳なさそうな顔をして謝る香穂の声。こいつの声を聞いたのは何日ぶりだろう。
 香穂と会ったのが外だったからか。それとも、ケガをしたと聞いたときの動揺がまだ俺の中で納まってないからか。
 俺は知らないうちに香穂の手を握って歩き出していた。

「まあいい。別にお前が謝る必要はないだろ? ま、立ち話もなんだし、とりあえずどっか入ろうぜ?」
「ん……」
「昼飯まだなんだ、俺」

 細い指。こんな指にかかったら、俺の自室のピアノは鍵が重すぎて、まともに弾けないかもしれない。
 俺の手の平にすっぽり納まった香穂の指は、一瞬だけ硬くなったものの、やがて安心したように俺の手を握り返してきた。
*...*...*
「さて、と。どこから話すか」

 香穂の薦めもあって、俺たちは、開店したばかりのカフェテリアの一角に落ち着いた。
 自家製のパンがウリということもあって、注文してすぐに、大きなクラブハウスサンドとコーヒーがテーブルに載せられた。
 皿の上には良い位置にクレソンが置いてある。
 キツネ色のパンに、クレソンの青が映えている。こんな一手間、って姉貴も母さんも喜ぶんだよな。
 今度、家で作るときの参考にするか。

 香穂は、すっかり冷えた身体を温めるかのように、両手でカフェオレのカップを包んだ。

「あのさ」
「はい?」
「誤解してると思うから言っておくが。別にお前に腹を立てていたワケじゃないんだぜ」
「……そうなの? そうは思えなかったの。私、なにか自分で気付かないうちに、土浦くんに嫌われることをしちゃったんだ、って。
 本当にごめんね」
「馬鹿。お前が謝るなって」

 俺のあの態度を見ていれば、香穂がそう思うのも当たり前だろう。
 涙目で下を向いている香穂の手を握りしめる。
 間にあるテーブルがもどかしい。これさえなければ、香穂の身体を抱きしめてやれるのに。

 さて。どうする。

 俺の事情を話すということは、音楽科のヤツらの陰口も、伝えなきゃ伝わらない。
 だけど、できれば、あの中傷は、香穂の耳には入れたくない。

「土浦くん?」

 しかし……。
 俺の本当の気持ち、それは。
 ── 守ってやりたい。
 そればかりを考えて、目の前の香穂の気持ちを受け止められなかった自分への嫌悪だ。

「音楽科のヤツら、お前の陰口を叩いていたんだよ。
 いかにも真実です、って感じで他の奴らにあることないこと吹き込んで。あいつには腹が立った」
「そんなことがあったの? あ……。あの、いつかの、屋上の話?」
「まあ、な。でもそんなことは今は問題じゃない。……俺、自分にもっと腹を立てていたんだ」
「土浦くん?」
「そう……。なにあんなこと言わせてるんだよ……。ってさ」

 俺は香穂の手を握って、話し続ける。
 こうでもしてなきゃ、また言葉足らずな俺のことだ。
 ちょっとした行き違いで、また香穂が遠くに行ってしまいそうな気がする。

 いつも香穂のことを守れているつもりだったのに、守ってやることができなかったこと。
 いつかそのウワサはお前の耳にも入って。お前が傷つくのがイヤだったということ。
 手をこまねいているしかなかった自分に嫌気がさしていたことも。

「お前は何も悪くないんだよ。ごめんな」
「そうだったんだ……。私、なんにも知らなくて。ごめんね。でも……」
「なんだ?」
「── ありがとう」

 香穂はようやく皿の上のサンドイッチに手を伸ばした。
 
「いや、礼を言われるようなことじゃないんだって。結局、俺が一人でから回ってただけなんだからさ」
「ううん? ……でもね、私、知ってるよ?」
「なに?」
「よくね、練習してるとき、声を掛けられた。
 応援メッセージも多かったけど、どうしてあんただけ、みたいな 冷たいメッセージも、たくさんあったの」
「そうなのか?」
「大して実力もないクセに。って。エラそうにするな、とも言われたかな?
 柚木先輩の親衛隊さんにも言われたことがある。図々しく近づかないで、って」

 初めて聞く話に耳を疑う。
 なんだ。こいつ。そんな中傷を受けても、それでも、練習してるときはいつも笑顔で。
 毎日生き生きと取り組んでるように見えたよな。
 そう、こいつの周りには賞賛しかないような、とびきりの笑顔で。

「でもね、開き直ったの」
「香穂?」
「1つや2つ、嫌味言われても、いい。って。私のことをちゃんと知ってくれている人がいる、って。
 目一杯落ち込んでるときに限ってね、いつも、一緒にコンクールやコンサートに出た仲間の言葉が私を守ってくれたから。
 みんなとは、ずっと縁が続いていくんだよ、って言ってた、リリの言葉は正しい、って思ったの。
 みんな、応援してくれたから」
「香穂」
「いつも、泣きそうになってるとき、ガツンとメッセージくれるの。加地くんも、冬海ちゃんも。
 ── どれだけ心強かったかなあ……」

 俺が強く力を入れすぎたせいだろう。
 香穂の指がぴくりと震えたのがわかった。
 って俺、こんな人目がある場所で、何やってたんだ?

 俺は慌てて香穂の指を離した。

「あ、悪い。とにかく俺の方はそういうつもりだから。
 うっとうしければそう言ってくれてかまわないぜ。ああ。もう、何いってだろうな。俺」

 場をごまかすために、とすっかり冷え切ったコーヒーを喉の奥に流し込む。
 香穂もどう相槌を打てばいいのか分からないのか、直ぐ近くにおいてある店内の緑に目を遣っている。

「そろそろ行くか?」
「うん」

 俺はレシートを持って立ち上がると、香穂と肩を並べて街中を歩き始めた。

 香穂と2人、肩を並べて歩く。
 今まで、そんなとりとめのないことを当然のこととして受け止めてきたけど。
 数日ぶりに感じる香穂の存在は、俺にとっては特別の時間に感じられた。

「香穂。一つ約束してくれないか?」
「はい? ん……。なあに?」
「これからも、……そうだな。コンサートが終わって。3年になってからも。いや卒業してからも……」
「土浦くん?」
「── 俺を頼ってくれないか?」

 香穂は俺が何を言ってるのか分かりかねてるのか、首をかしげたまま、俺の顔を見上げている。

 そうだよな。いきなり約束。いきなり頼れ、って言われても、こいつも困る、か。
 ちらりと脳裏に音楽科の吹谷、だっけ? あいつの顔が浮かんでくる。
 ああいうタイプの人間なら打てば響くように、男の言葉に適当な言葉を返せるのだろうか。
 だけど……。いい。

 俺が好きになったのは、今、目の前にいる、この不器用な女なんだ。

「俺はいつも、お前に頼られる存在でありたいと思ってるんだ。その、音楽の面だだけじゃない。男としても。
 ── ま、これからもよろしく頼むぜ」
「ん……。なんだかよくわからないけど、また土浦くんと一緒に練習できるのは嬉しいな。
 早速だけど、練習しない?」

 香穂は嬉しそうに俺は見上げると、指に息を吹きかけて、早速ヴァイオリンケースを広げた。
 俺は、その後ろ姿を見つめる。
 ギグシャクしていた頃とは違ってみえる香穂の背中。
 練習する前に抱きかかえたら、また練習ができなくなるかもしれない。
 そう思って、俺は香穂に向かって動き出そうとした腕を止めた。

 ── いつも。そう。これからも。
 俺がこいつと、こいつの音楽を守り続ける。


 ヴァイオリンの調べが、冷え込んだ街に広がる。
 俺は、香穂の音を追いかけるようにと鍵盤の上、指を滑らせた。
↑Top
←Back