「……もう、行かなくては。それじゃあ、……元気で」
「うん。……月森くんも元気でね」

 黒い革のコート。右の肩にはヴァイオリンケース。
 もともと男の子って女の子ほど荷物が必要ないのかな?
 月森くんは、もしかしたら、学院に行くときの方がたくさんの荷物を持っているんじゃないかと思えるほどの軽装で、
 タラップの奥へと小さくなった

 ──── 私、笑えてるよね。ちゃんと、月森くんの目を見て笑えてる。

『……ただ、君のことを忘れない。俺にはそれしか言えない』

 苦しげにつぶやく月森くんに、私は私の気持ちを押しつけちゃいけないの、わかってるもん。  
*...*...* Dandelion 1 *...*...*
「お。お前さんたちも3年から音楽科サマになったのか〜。結構結構!」
「金やん」
「あ、金澤先生!」

 春休みが終わったばかりの新学期、金澤先生はこの季節には寒いくらいの薄着で、私と土浦くんがいる柊館までやってきた。
 無造作に結んだ髪が、また少し伸びている。
 金澤先生って、素材っていうのかな、元々の容姿はすごく格好いい、って思うのに。
 どうしてあまり自分のことにかまわないんだろう。
 剃り残し? ところどろこに残っている無精ヒゲが、なんだか、新学期とは違う、気だるい空気を作っている。

「なあ、土浦。今のお前さんは、十分音楽科サマと渡り合えるだけの力量があるだろ? こいつの世話、頼んだぜ?」

 金澤先生はあごで私を指さすと、これで俺の仕事も1つ減ったぜ、と言って笑っている。

 そそれって、つまり、その……。

 私には、その、音楽科サマと渡り合えるだけの力量がない、ってハッキリ言ってる、ってことだよね?
 そりゃ、自分でそんな実力があるなんて、全然思ってないけど。
 私の実力をとても良く知っている人から告げられる言葉って、おまじないみたいに強烈なインパクトがあるって思う。

 月森くんに近づきたい。

 そんな不純な気持ちで音楽科に転科したことを、本当は金澤先生、呆れてるのかな。
 ちらりと土浦くんに目をやる。
 もしかしたら、土浦くんも、私の本当の理由を知っていたりするのかな?

 土浦くんは腕組みをしながら金澤先生に応酬している。

「とは言っても、限度があるぜ? 金やん。俺はピアノ、香穂は弦だからな。専科になったら、授業もバラバラだろ?」
「ふふーん。なにを言うかと思えば」

 金澤先生は笑みを深くすると、私たちにしか聞こえないよう声を落とした。

「指揮科を目指す土浦なら、弦だって管だって何でも出来なきゃ、困るだろうが」
「って、金やん!?」
「今のお前ならピアノに関して言えば、学科も実技も申し分ないだろう?
 だったら、日野と一緒にヴァイオリンを極めるってのも悪くないと思うぜ?」
「やれやれ。金やん、やけにほっとした顔してるなー」
「まあな。俺の仕事を1つ、恭しく土浦に委譲、ってなもんだ」
「でも、俺はまだこいつに弦を教えられるレベルじゃありませんよ。まだ始めたばかりなんで」

 まっとうな土浦くんの意見に、金澤先生の顔色も曇る。

「まあ、なあ……。こういうときに、月森がいてくれたら、俺ももう少し気がラクだった、とは思うけどなー。
 っと、SHRが始まるな。じゃあ、頑張れよ。2人とも」

 言いたいことだけ言うと、金澤先生はもうすぐ授業が始まる時間だというのに、のんびりとした足取りで楓館へと向かう。
 普通科と音楽科、って、すごく距離あるのに。間に合うのかな?
 私は改めて目の前にいる土浦くんを見上げた。

「ふふ、金澤先生、相変わらずだね?」
「ははっ。でも、ま、そんなこんなで、これからもよろしくな、香穂。
 お互い、生粋の音楽科サマたちに負けないよう、頑張ろうぜ?」

 真っ白な音楽科の制服を身につけた土浦くんは、そう言って豪快に笑う。
 うーん……。ずっと普通科の制服を見慣れてたせいかな。
 やっぱりこういうお坊ちゃん、なイメージの音楽科の制服は、土浦くんにとってとても窮屈そうだ、って思ってしまう。
 エンジ色のタイも結ぶのが大変なのかな、少し歪んでる。

「土浦くんはいいなあ。金澤先生のお墨付きだ」
「は?」
「音楽の力量」
「って、お前も何を言うかと思えば」

 土浦くんは私の横の席の椅子に座ると、理路整然と話し始めた。
 机上の知識なんて誰だってそれなりに覚えられること。
 お前のヴァイオリンの才能を、あの小うるさい理事長が認めたんだ。
 認められたからこそ、こんな半端な時期に、転科ができたこと。
 もっと、自分を信じろ、ということ。

「うん……。そっか。最初から落ち込んでるのも私らしくないよね」

 土浦くんの勢いに釣られるように私は笑顔を作った。

 不思議だ。顔の表情を緩ませるだけで、人は元気になれるのかな。
 ちょっと引っかかりを感じていた金澤先生の言葉も、その上に土浦くんの言葉が乗っかったことで、少し心が柔らかくなる。

 そうだ。私、タラップに吸い込まれていく月森くんを見て思ったんだ。
 私が音楽の道を進んだら。ずっとずっと進んだら。
 今は見えないその先に、月森くんの影があるかもしれない。
 そして、その影を見つけたあとも、もっともっと頑張ったら。
 私、月森くんの隣りを一緒に歩けるかもしれない。
 そう思ったから、私、転科を決めたんだもの。

「よし。それでこそ香穂だよな。こうなったら普通科からのよしみだ。俺がお前の音楽をフォローしてやる」

 土浦くんは満足げに頷くと、ベルの音に背を押されるようにして席を立った。

 教室の中を改めて見る。
 するとそこには、この冬、一緒にやったコンサートのおかげか、見知った顔があちこちに見える。
 自席に戻った土浦くんは、早速ピアノ専科の男の子たちから取り囲まれてる。

「日野さん、音楽科にようこそだね。話は上条さんから聞いてた」
「わ、内田くん? あ、あの、この冬は一緒にオケに出てくれてありがとう」

 私の隣の席は、須弥ちゃんと仲良くしている内田くんだったらしい。
 彼は隣の席に座ると穏やかな表情をして私を見てくれた。

『俺のクラスメイト。……内田、というんだが。あいつは、誠実な人間だと思うことがよくある』

 月森くんは内田くんと特に仲良くしていたのかな。
 月森くんの話の中に、内田くんはよく登場してた。
 月森くんが、認めていたクラスメイトの近くにいられる私は、すごくツイてるのかもしれない。
 気がつけば私は席から飛び上がるようにして直立すると、内田くんに『よろしくお願いします』と頭を下げていた。
*...*...*
(よっし。天気もいいし、今日は久しぶりに屋上に行ってみよう)

 私は予約でいっぱいになっている練習室に見切りをつけると、自分を元気づけるために、心の中でエールをつぶやく。
 新学期が始まって初日。
 今日中に行けば、練習室だってまだ空きがあるだろう。なんてそう思ってた自分が甘かった。
 2週間先まで予約が可能な練習室は、見事に真っ黒になっている。
 昼休みの真奈美ちゃんの声が響いてくる。

『あー。新学期はねえ……。まだ、やる気イッパイの1年生たちが我先にと予約するのよね』
『こ、これって、キャンセル待ち、とか、できるの?』
『んー。聞いたこと、ないなあ……。だけどこのご時世に、紙ベースの予約表ってなんか効率が悪いよね。
 星奏の練習室も、ケータイで予約、とかできるといいよね。
 それで、香穂子ちゃんの言うとおり、キャンセル待ちもシステム化できるといいのに』

 そうだ、なんとなく、新しいことが好きそうな吉羅さんに、練習室予約システムのこと、ちょっと話してみようかな。
 効率、とか、要領、とか、すごく大事にする人って気がするから、案外、すぐ乗り気になってくれるかもしれない。

「う……、ちょっと寒い、かも」

 4月になったとは言え、屋上は、風が吹くとすごく寒い。
 私は風見鶏が立っているすぐ近くに譜面台を置くと、ヴァイオリンを取り出した。
 春休みの間に庭師さんが入ったのか、正門前の花壇はどれも、ブルーのパンジーが花盛りだ。
 一角だけ黄色い色がある、と思ったら、それはタンポポの花だった。
 凜と咲いている様は清々しくて、庭師さんも雑草だからと取り去ってしまうのが惜しくなったのかもしれない。

「あ、あれ? ……ここ、どうやって弾くんだっけ?」

 今日の授業でもらった楽譜が、初めから分からない。
 あれ? これって、A dur だから、転調して、それで……?
 小さい頃、ピアノをやっていたことは、ほんの少しだけ、2年生だった頃の私を助けてくれた。
 4回のコンクールも、4回のコンサートも。

 だけど。

 少しでも月森くんに近づきたくて、音楽科に転科した今、
 私が今までやってきたことは、音楽の中のほんの上の上澄みの部分だった、って思えてくる。
 ──── 授業で出された楽譜が全然わからない。

「どうしよう……」

『……俺がいなくなったあと』
「は、はい……?」

 ふいに耳元に優しい声がする。
 風の冷たさが、冬をともに過ごした人のそばに連れて行ってくれているのかな。
 そんなの、おかしい。

『……僕以外の誰かが、君のヴァイオリンのことを気に掛けてくれればいいのだが』
「月森くん!?」

 あわてて辺りを振り返ってみる。
 だけど、春の放課後は静かな時間が砂のようにこぼれていくみたい。
 さっき見とれたタンポポが、風の中、泳ぐように頭を揺らし続けている。

『君への想いに、もっと早く気づけばよかった』
『いや、気づかなくてよかった。気づいていたら、僕は1人で旅立てなかっただろう』
『ウィーンに着いたら、君に葉書を送ると約束する』

 月森くんの言葉がよみがえる。
 そうだ。キレイなウィーンの街並みが水彩画タッチで描かれている月森くんの葉書は、昨日私に届いてた。
 ウィーンに着いて最初に書く葉書がこれであること。
 まだ荷物の整理がついていなくて、段ボールの上で書いていること。
 ウィーンはとても寒いこと。
 そして、転科した先でも頑張るように、とメッセージが添えられていたっけ。

 こうやって音楽のことで分からないことに直面すると、私はいかに今まで月森くんに甘えていたのかを思い知る。
 今日は3年生音楽科としての初日だったからかな。
 すごく気が張っていて、学院に月森くんがいないことを感じる余裕はなかったけれど。
 1人、練習をする放課後は淋しい。
 月森くんがいないことを、否が応でも感じてしまう。
 パタパタと床に落ちる涙が自分のモノじゃないみたいで、私はぼんやりと感情のままに任せていた。

「……って、香穂、こんなところにいたのか?」
「って、あれ? 土浦くん? どうしたの、こんなところに」

 リズミカルに階段を昇る音に気づいて、慌てて目尻を押さえる。
 ドアを開けて飛び出してきたのは、土浦くんだった。
 暑かったのかな。白い上着を脱いで、黒いベストを着けている。

「って、多分、お前と一緒の理由。空いてないもんだなー、練習室」
「うん……」
「香穂、お前」

 私の顔を見とがめたのか、土浦くんは食い入るように私の顔を見つめたあと、ため息をついた。

「ごめんなさい。ちょっと……」

 こんなベソベソしてる私なんて、きっと土浦くんは好きじゃないはず。
 淋しいって思ってる上に、さらに、情けないヤツ、とか言われたりしたら、ダブルの効果で余計落ち込んじゃう。
 でもどうしよう。なかなか涙が引っ込まないよ。

「え……?」

 どんなこと言われるんだろう、って身構えていた私の頭にぽん、と大きな手が乗っかる。
 おそるおそる目を開けると、そこにはやれやれといった風に笑っている土浦くんがいた。



「いいぜ? 香穂、練習しよう。とことん付き合ってやる」
「土浦くん?」
「言っただろ? 俺がお前の音楽をフォローしてやるって」
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