*...*...* Dandelion 2 *...*...*
 俺が香穂の存在を意識するようになってから、2回目の夏が来た。

 ……が。

 俺と香穂の関係は、1年前と何も変わらない不思議な均衡を保っている。
 普通科から一緒に音楽科へ転科してきた腐れ縁。
 だから、高3から一緒になった他のクラスメイトよりは親しい。
 だが、香穂の中には確実にある男が存在してて、俺を足止めさせる。
 こういう白とも黒とも付かない膠着状態ってのは、俺が最も嫌いとするところだ。

 香穂の様子を見ていれば、今、こいつの中を1番に占めている男は、俺じゃないってことくらい、わかる。
 だから余計タチが悪い。腹が立つ。
 1番嫌いなのは、他のオトコのことを思っている香穂を諦めきれない自分なんだろう。

 音楽科に転科したら、俺の生活は月森のように音楽一辺倒になるかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 意外にもピアノに集中したあとには、音楽史を。
 ヴァイオリンに打ち込んだときには、楽典の知識を。
 そんな風に目先を変えて勉強する方が、俺には性に合っているらしい。

 音楽全般で煮詰まった日なんかは、飛び入りでサッカーの練習試合に入れてもらったりもする。
 どこのポジションでもそれなりに使い回しが効く俺は、メンバーが足りないときなんかは重宝らしい。
 今年晴れてサッカー部の主将になった佐々木は、3日に1度はふざけたメールを俺に寄こす。

『なあ、土浦。オレと、音楽、どっちが好き?  な、今日はオレのこと、好きになって。お願い!!』

 オンナみたいにたくさんの絵文字が踊る画面。
 ったくDLに無駄な時間がかかるって何度も言ってるのに、あいつのスタイルは変わらないらしい。
 だが、そんなメールが嬉しかったりもするんだ。
 こいつの言う、『オレ』とはすなわち『サッカー』のこと。
 なんか、何年経っても憎めないヤツなんだよな。

「おっつかれ〜。今日もサンキュ! 土浦、助かったよ」

 佐々木の誘いに乗った放課後。
 お互いゼッケンを脱ぎながら話していると、また、今夜から音楽を頑張ろうと思えてくるから、面白い。

「土浦、ナイスアシストだな〜。相変わらずキレがいいな」
「いや、俺もちょうどに詰まってたから助かったぜ」
「……土浦。オレはいつまでも待ってるよ。お前が音楽に飽きて戻ってくる日を100年先まで待ってる」
「ははっ。その頃、生きてたらな」

 佐々木はひょうきんな顔立ちをワザとシリアスに作って、笑いを誘う。
 佐々木が主将になったって聞いたときは、こいつに部員のみんなを取りまとめることができるのかと思ったものだが。
 佐々木はその役割をなんてことなくこなしてる。大したものだよな。

 佐々木は俺の横にどかっと腰を下ろすと、下がってきた前髪をかき上げた。

「で? どうよ、最近の土浦くんは?」
「は?」
「土浦のその後って言ったら、1つしかないだろ?」
「なに曖昧な言い方してるんだよ。何言ってるか、それじゃわからないだろ?」
「って、オレも少しだけ大人に近づいたからさ。ちょっとは配慮してるワケよ、土浦に」
「配慮? いったい何の配慮なんだよ?」

 悪友は、やれやれといった風に伸びやかに笑った。
 なんなんだ? この余裕に満ちた顔は。

「いや、一緒に音楽科に転科した あ い つ とは、ちょっとは進んだ話が聞けるのかと思ってさ」
「……ああ。って、お前、なに回りくどい言い方してるんだよ!」

 俺は手にしているゼッケンをたたむと、軽く脱力して座り込んだ。
 佐々木も話したくて仕方なかったのだろう、座り込んだままタオルで顔の汗を拭き取っている。

「ってかさ、オレも最近、彼女ができてさ。……これが、すごく可愛いの」
「そりゃ良かったじゃねえか」
「女の子ってさ、……なんつーか、こんなに柔らかいんだなあ、とか。こんなにいい匂いがするんだ、とか。
 なんか、すごく、いいよ。だからお前も、やっぱり好きなヤツと上手くいってほしい、っていうか」

 ややもすれば露骨な言葉に、思わずつばを飲み込む。
 ごくりと鳴る音が恥ずかしくて、俺は大げさにTシャツの裾を持ち上げて風を送った。
 なんだよ、いったい。

「あ! 来てくれたんだ!」
「は?」

 突然佐々木が機嫌の良い声を上げる。
 何かと思って目の先を追えば、フェンスを挟んだ向こうでオンナ2人が手を振っている。
 オンナのウチの1人が俺に気づくと、ぺこりと大げさな会釈をする。
 そして一緒にいたオンナの袖を引っ張り、校舎の方へ走っていった。

「誰?」
「普通科、2年の子。……まあ、主将なんかやってると、とりあえず声は掛かるみたいだね」

 佐々木は謙遜したようにさらりと言うと、オレのことよりさ! と俺の顔をじっと見つめて、
 やがて、今の俺と香穂の状況を察したのだろう、ガックリと肩を落とした。

「……まあ、日野はニブそうだもんなー。土浦も苦労するよな」
*...*...*
 結局この日は、人が足りないということも手伝って、俺は2ゲームの試合に参加して、自宅に帰った。
 今日は母さんのピアノ教室の日なのだろう。
 玄関からすぐの部屋で、たどたどしいピアノの音と、小さな子どもの声がする。
 親父と姉貴は仕事。
 そして、脳みその8割がサッカーでできてるに違いない、と家族中から断言されている弟は、
 日が暮れるまで、近所の公園でサッカー三昧だ。

 この季節は、日が長いこともあって、夕方7時頃まで帰らないに違いない。
 汚れて帰ってくるだろうから、風呂でも準備しておいてやるか。

「って俺も、あいつと変わらないくらい汗かいてるよな」

 俺はさっさと制服を脱ぐと、まっすぐにバスルームに向かった。
 正直身体はヘトヘトだが、どうにも、身体の中の芯のような部分が尖っている。
 汗も、身体の汚れもすっきりすれば、少しは頭も落ち着くかもしれない。

 俺はぬるめのシャワーを豪快に出して、ガシガシと頭から洗い始める。
 白い泡が肩からひじ、ひじから指に流れていく。
 俺は17年間、自分の身体しか知らないし、自分の身体というのにあまりも慣れているからか、
 この身体を特にどう、と思ったことはないが。
 香穂は、時折、俺の指を見て羨ましそうな顔をする。

『いいなあ、土浦くん、指が長くて』
『は? お前だって、短いワケじゃないだろう?』
『ん……。短い、って思ったことはないけど、ピアノの練習をしてるときは、長い方がいいなあ、って思うよ』
『比べてみるか?』
『はい? ……う、うん』

 俺の誘いに香穂は照れたように微笑むと、そっと手を差し出してきた。
 細い指。その先には切りそろえられたピンク色の爪がある。
 しっとりとした手の感触に、勝手に胸が熱くなる。
 触れたことで、俺の思いがそっくりそのまま香穂に伝わってしまう気がした。

 ──── もし、このまま握りしめて、離さなかったら?
 こいつは、俺の想いに気づくのか? それとも暢気に笑うのか。どっちだ。

 香穂は何度か俺の指に触れ、改めてまた手のひらを合わせた。

『土浦くんの、大きい。……見て? 土浦くん、ちょうど第一関節分、違うね!』
『お前、小さい。ヴァイオリンは問題ないのか?』
『ヴァイオリン? うん、そうだね……。ピアノほど、小さくて困った、って思うことはあまりないかな』

 ときには激しい曲想の曲を選ぶとき、香穂は、かなり頻繁にピチカートを入れる。
 あんな強い音が、こんな細い指から生まれること自体、不思議だ。

『こんなにも柔らかいんだなあ、とか』

 佐々木の声が耳朶に残る。
 確かに柔らかかった。しっとりと冷たくて、手の甲は透けるように白かった。

『いい匂いがするんだ』

 まあな。最近のこの暑さじゃ、何時間も一緒に練習してると、あいつの香りを感じることはある。
 男といると決して感じることのない、甘い香りだ。
 俺の1番近くに居るオンナっていうと、姉貴か母親、だが。
 もちろんあいつらにそんな香りを感じたことはなかった。

「香穂……」

 いきり立った下半身は、これ以上なく高く直立している。
 これは1度出した方が後がラク、ってか。

 俺は自分のモノに手を添えながら香穂の指を思い出していた。
 あの細い指で俺のに触れる。
 触れて、擦るだけじゃ、まだ足りない。
 本当は、あいつの服すべてを剥ぎ取って、真ん中に自分自身をぶち込みたい。
 腰を押しつけるように出し入れを繰り返して、あいつが乱れる姿が見たい。
 ──── 乱れて、俺にしがみつくさまを。

 何度か最奥を突くように腰を揺すると、妄想の中の香穂も乱れる。

『やめて……っ。お願い、もうっ、土浦くん……!』
「くっ……」

 浴槽の壁に向かって、白い液体が放物線を描いて落ちていく。

 ……と、ここで終わればいいモノを。
 荒い息を繰り返す俺の頭は、見たくない幻影まで細やかに映し出すから、余計に参る。

 想像の中の香穂は、いつも最後に俺を責める。

『私、月森くんが好きなのに。……土浦くん、どうして、こんなことするの?』

 ──── まったく。やってられないぜ。
*...*...*
「土浦くん、誕生日おめでとう! これ、小さいけど、お祝い」
「お。サンキュー。なんだ?」

 週末、臨海公園で2人練習をしたあと。
 香穂は嬉しそうに俺に小さな包みを差し出してくる。
 俺は、こそばゆさと嬉しさを押しとどめながらそれを受け取る。
 ノートくらいの大きさの紙袋。だけど少しだけ厚みがある。

 香穂は曲を弾き終えたときのようにちょっと誇らしげだ。

「これって……」

 出てきたのはモスグリーンの手袋だった。

「えへへ。革の手袋なんだ。この時期に、このプレゼント探すの、少し大変だったんだよ?」

 この冬も俺に合いそうだから、と似たような色合いのマフラーをくれたこともあったが。
 なるほど、あのマフラーとの取り合わせも良さそうな気がする。

 だが……。

 俺はギラギラと背中に照りつける太陽を背に出てきた手袋を見つめる。
 香穂が俺を気にかけてくれる、ってことだったら、どんなことでも嬉しいが。
 この7月の、これから夏本番、って時期に手袋をもらうとは思わなかったぜ。

 香穂は楽しそうに話し続ける。

「私、土浦くんが今は指揮科を目指して頑張ってるのを知ってる。
 だけど私、土浦くんのピアノもすごく好きなの。だから、指を大事にして欲しいなあ、って」
「香穂……」
「土浦くんの指、って長くてカッコいいよね。ピアノの鍵盤もラクに届くし、ヴァイオリンの弦だって」

 俺は手袋を改めて見つめる。
 深緑色のそれは、しなやかな光沢を放って俺を見返してきた。

「で、でも、これ、ちょっと小さくないか? 俺の手、結構デカいんだぜ?」

 俺は手袋の上に手を当てて、早口でつぶやく。
 ダメだな。
 香穂の好意を素直に受け取ることさえできずに、俺は、言わなくていいことばかり口にしている気がする。

「ううん? あのね、革って伸びるんだって。あ、そうだ、ちょっと付けてみる?」

 香穂子は、ごめんね、と小さな声で断ると、大切なモノを持ち上げるかのように、そっと手袋を手に取る。
 そして、手袋の中に俺の手をゆっくりと入れていった。

「ほら、な? この手袋、やっぱり小さいぜ?」
「多分、大丈夫……。ほら、入った!」

 多少窮屈ではあったものの、手袋はなんとか俺の手の形に収まる。
 だが、軽く指を握ると、悲鳴のような革の音がする。
 大丈夫か? これ……。縫い目がほつれたりするんじゃないか?

 ──── だが、嬉しいことには変わりない。
 香穂が、選んでくれたこと。
 俺の、誕生日プレゼント。
 これって、好きじゃないヤツにはやっぱり贈らないよな。
 1学期の間中、香穂のことを見てたけど、俺ほどしゃべるヤツもいないみたいだし。

 香穂は満面の笑みで俺を見上げてくる。

「あのね、革の手袋はね、だんだんその人の指の形に馴染むんだって。月森くんが言ってた!」
「は?」

 一瞬香穂が何を言っているのかわからなくなって、俺はまじまじと香穂の顔を見つめた。
 ……こんなときに、月森の話を聞くとは思ってなかったぜ。

 黙っているのもヘンかと思い、俺はかすれた声で問いかける。

「お前……。まだ、月森と連絡、取ってるのか?」
「え? うん……。たまにね、その、メールで」

 香穂は聞いて欲しかったのか、ますます声を弾ませた。

「でもね、笑っちゃうの。メールの内容はね、なんだろ、先生と生徒、っていうのかな。
 えっと、10行文章があったらね、9行くらいはヴァイオリンの話なの」
「へぇ……」
「私としたら、その、ね……。もっと、ウィーンの話とか、月森くん自身の話が聞きたい、って思うのに」
「だったら、そう言ったらいいじゃねえか」
「ううん……。ムリだよ、私には」




 半分ヤケになってそう言うと、香穂は恥ずかしそうに首を振った。
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