*...*...* Dandelion 3 *...*...*
「よし。香穂、今日イチバンの出来なんじゃないか? よくやったぜ」
「本当? やった!」

 休日の駅前のスタジオ。
 窓の外に見えるイチョウ並木は、昨日今日の寒さで一気に色づき始めたらしい。
 夕暮れの中、黄色というよりも金色に近い葉っぱがハラハラと風に舞って落ちていく。

「ったくお前、根性だけはあるオンナだよな。これでなんとか勝機が見えてきたってところか」
「えへへ。土浦くんの指導がいいからだよ? 本当に、ありがとね」

 土浦くんっておおざっぱそうに見えて、人のことをよく見てる、って思う。
 私に対するピアノの教え方だってそうだ。
 普通、ピアノのレッスンといえば、先生がくださる楽譜に目を通して、自分なりに解釈をつけて、次のレッスンに持っていく。
 そしてその解釈に先生が解釈をつけ、それをまた生徒が咀嚼していく。
 その繰り返し、と言っても過言じゃないのに。
 土浦くんは、私に譜読みの力がないことを知ってから、ガラリと教え方を変えた。

 まず土浦くんが楽譜に目を通す。
 そして何通りかの解釈を私に聴かせてくれる。
 強弱の付け方、テンポの違い。各楽団の解釈。また、別の楽器で弾いたらどうなるのか。
 香穂はヴァイオリニストなんだ。
 もし香穂がこの曲をヴァイオリンで弾くなら、どう歌わせるんだ、って。

 そうして私と土浦くんの意見を摺り合わせて、今度は私が鍵盤に指を置く。

 ファータたちの加護が、まだ私の中に残っているのかな。
 思いを膨らませた曲は、私が思ってもみないような豊かな音色を紡ぎ出す。

 音楽科に進む、と決めてから、大学入試にピアノの実技があることはわかっていたから、
 私は週に1回、土浦くんに師事して練習を重ねてきた。
 ヴァイオリン専攻ということで、ピアノの配点よりもヴァイオリンの配点を重要視してくれる、とは聞いていたけれど、
 やっぱり私のピアノは心許ない。

 12月に入ってから1度、月森くんに相談メールは送ったけれど、
 彼も今年は2つのコンクールの予選を通過したとかで、なかなか返事は届かなかった。

(月森くんも、ウィーンで頑張ってるのかな?)

 日本でも今週、急に寒波が押し寄せてきたって、ニュースでは何度も同じことを言っている。
 月森くんが住んでるウィーンも、かなり冷え込んで来たのかな。
 1人きりで海外にいるんだもの。体調、崩してないといい。

『君が音楽の道に進む限り、僕は、君を求め、音楽を求め続ける』

 ときどき、ふと心が折れそうになると、信じられないほど鮮明に月森くんの声が聞こえることがある。
 そう。私の今の第一関門は、ちゃんと高校を卒業すること。そして第一希望の音大に合格すること。
 私が音楽を求め続けたその先に、月森くんの影があるかもしれないんだもの。


 私は、メシでも食いに行こうぜ、という土浦くんと一緒にスタジオを出た。
 スタジオ内の無機質な色合いとは裏腹に、街はクリスマス色に染まっている。
 私は土浦くんと歩きながら、新しくできた雑貨屋さんの前で足が止まる。
 ウィンドウの中には、真っ白なクリスマスツリーに、やや大降りのオーナメントがぶら下がっている。
 よく見ると、ツリー以外は、全部お菓子だ。

 ……いいなあ。可愛い。

 クリスマスに、お菓子の国で有名な『ヘンゼルとグレーテル』のコラボ、っていうのもおかしいかな。
 でも、クッキーのオーナメントっていいかも。
 クリスマス中楽しくて。終わってからも美味しくて。
 わ、ゼリーも、金平糖もある。
 金平糖って、食べたとき、すごく美味しい、ってワケでもないのに。
 どうしてこんな可愛い名前と可愛い形をしてるんだろう。

「った!」
「お前、危ないぜ? 前見て歩け」
「う……。見とれてたの、知ってたの?」
「バレバレ」

 土浦くんは私の額をつついて豪快に笑うと、どれが欲しかったんだ? と一緒にショーウィンドウを覗き込んだ。

「ほら、あの、スノーマン、可愛い」
「ってお前の場合、食い気先行な気がするが」
「い、いいの!」
「まあ、今日お前頑張ったからな。……ちょっと待ってろ」

 土浦くんはスタスタとお店の中に入ると、雪だるまのクッキーと、それに星の形のチョコレートを手に戻ってくる。
 うう……、なんか、悪いこと言っちゃったかな。
 そうだ、受験が終わったら、私、ちゃんと土浦くんにお礼しなきゃ!

「ほらよ」
「ありがとう! ちょっと早いクリスマスプレゼントもらったみたいだよ」
「ははっ。食いモンでいいなんて、お前、俺の弟と精神年齢、あまり変わらないぜ」

 私は土浦くんの言葉を素通りして、手にした紙袋を抱きしめる。
 ──── うん、これでまた、私、ピアノの練習、頑張れるもん。

 土浦くんは、ふとピアノを弾いているときのような真面目な顔で聞いてくる。

「そうだ、お前。今年のクリスマスはどうしてる?」
「クリスマス? いいなあ……。そっか、もうすぐクリスマスだよね」
「香穂?」
「ううう、今年は受験一色だよ」

 私はクリスマス、という響きの明るさとは裏腹に大きなため息をついた。
 そうだ。クリスマス、なのに。そのすぐ後にはお正月もあるのに。
 合格圏内にひっかかってるかどうかの瀬戸際にいる私は、年末年始の心躍る行事とはまるで無縁の生活だ。
 
「あ! ごめんね。そうだ、土浦くんはどうしてるの? 土浦くんは受験勉強、余裕だし、どこか遊びに行く予定とかあるの?」

 明るい声をあげて振り返ると、そこには真剣な表情のままの土浦くんが立っていた。
 街の喧噪から少し外れた場所。人の通りも少なくて急に周囲が真空になる。

「1度、ちゃんと言っておかなきゃいけないと思ってな」
「はい? なにを……?」
「まあ、気づいてないのはお前だけだったと思うが」

 土浦くんは、真っ直ぐな目をして私を見つめる。
 2人で音楽科に転科したこともあって、私は、音楽科の生活の中には、いつも土浦くんが近くにいた。
 男の子、というよりも、お互い、見えない敵に立ち向かっていく同士のような感じがしていたし、
 見つめられても、だから、どう、っていう感じもなかったのに。
 今日の土浦くんは違う。
 感情を押し殺したような、熱っぽい目をしている。

 不思議に思って、土浦くんの肩に目を当て、その先の手を見つめた。
 夏に私が贈った手袋は、土浦くんの指にあつらえたかのようにぴったりと彼を包んでいる。

「今、お前が忙しい時期だってのは分かってる。だから、返事は受験が終わってからでいいんだ」
「ん……。ごめんね。わかんないかも。なんの話?」
「──── 俺、お前が好きなんだよ。だから、お前の気持ちが聞きたい」
「……はい?」



*...*...*



「わ、私、その、なんて言っていいか……っ」
「言ったろ? 返事はまだ先でいいって」
「だ、だけど!」

 混乱する。混乱って、確か英語で、confuse。
 どっちも「コン」がつくなんて、人間みんな混乱すると、似たような音を思い浮かべるのかな。
 ……って、そうじゃなくて!

 土浦くんが、私のことを……?

 どうしよう。全然気が付かなかった。
 ううん、気づかないどころか、私、何度も月森くんの話、土浦くんに聞いてもらってたよね。
 もし、土浦くんの言うことが本当なら、私、土浦くんにどれだけ失礼なことをしてきたの??

 えっと、確か転科したばかりの頃、月森くんを思い出して泣いてる顔、見られた。
 今、土浦くんが着けててくれる手袋も、私、月森くんのこと言って渡したような気がする。
 ジワジワと顔が熱くなる。
 あああ、もう、情けなくて、申し訳なくて。それだけで頭が沸騰しそう。

「ん……? 香穂、危ない!」

 突然二の腕を強く掴まれ、私は土浦くんの胸に押しつけられる。
 口を開く前に、もう一度風を切る音がした。
 ハラリと髪の毛が落ちてくる、と思ったら、それは切り取られた私の髪だった。

「逃げろ!」

 何が起きたのか分からないまま、気が付けば私は土浦くんに思い切り押され、数メートル後ろに突き飛ばされていた。
 土浦くんと、黒い影。
 2人の影が絡み合い、取っ組み合っている。
 銀色に光る細いモノが、土浦くんを手を掠めていく。
 本当に恐ろしくなると、声って出なくなるんだ。
 助けを呼ぼうにも、ノドが乾いて声が出ない。

「俺のことは気にするな。お前はお前の手を守れ!」

 立ち上がろうにも、腰が震えて動けない。
 どうしたら……。どうしたらいいの?

 黒い影は土浦くんが手強いと察したのか、手にしていたナイフを投げ捨てると、そのまま細い路地を走っていく。



「香穂、お前、ケガないな?」

 土浦くんは忌々しげに黒い影を目で追いながら、私の方に駆け寄ってくる。

 ──── それは時間にしたらほんの1分にも満たないことだったんだろう。
 だけど、1年経っても分からなかったことが、たった1分でわかることもある。

『こうなったら普通科からのよしみだ』
『俺がお前の音楽をフォローしてやる』

 土浦くんのしなやかな指を思い出す。

『ね、見て? ちょうど私より第一関節分、大きいね』

 驚いた声を上げる私に、土浦くんは確か、こう言ったっけ。

『お前、ヴァイオリンは問題ないのか?』

 ずっと、気にかけててくれたの?
 月森くんが好きで。
 ヴァイオリンの先には月森くんがいるから、って理由で練習を頑張っていた私を。

 私はそんな風に気を遣ってもらえる存在じゃないのに。

『お前はお前の手を守れ』

 どうして、そんな風に言ってくれるの?

「……っ」

 土浦くんは私にケガがないことにほっとしたのか、顔をしかめた。
 見ると、モスグリーンの手袋はすっぱりと切られ、中から鮮血が溢れている。
 事実を認めたくなくて、私は土浦君の手を握り締める。
 なのに血はそんな私の行動をあざ笑うかのように止まらない。

「わ、私、救急車、呼んでくる! 待ってて」
「馬鹿。こんな怪我で救急車なんか呼んでたら、ホントに困ってるヤツらが困るだろ?」

 土浦くんは痛みがあるのか、低い声でそう言うと手を肩より高く挙げた。
 その頃になって、ようやく周囲の人たちが不安そうに集まり始めていた。

「君、出血がひどいけど本当に大丈夫?」
「はい。心配をおかけしました。すみません」

 会社帰りなのかな。
 颯爽とグレーのスーツを身につけた女の人が、痛ましそうに土浦くんを見つめ、私を見つめて、ハンカチを手渡す。
 その行為で、私はようやく私が土浦くんの指をそのまま握りしめていたことに気づいた。

 ──── 怖かった。

 土浦くんの指がどうかなってしまう、って思ったことが。
 もう、2度と土浦くんがピアノ、弾けなくなっちゃう?
 こんなに、まっすぐ音楽に向かってた人が、こんなことで、諦めなくてはいけないの?
 そんなのは、イヤ。

『お前はお前の手を守れ!』

 違う。
 私の指なんかより土浦くんの指の方がずっとずっと、大事なのに。
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