第一報は、香穂から、だったと思う。
 日差しがTシャツから出た肌をジリジリと焦がす夏の日。
 香穂は、ミュールっていうのか? かかとの細いサンダルでちょこちょこと近づいてくると、俺の腕を取って微笑んだ。

「お前、危ない。ヴァイオリンを持ってるときは気をつけろよ」
「うん! 1番に話したくて走って来ちゃった。土浦くん、あのね……っ!」
「落ち着けって、俺はどこにも行かないから」
「あのね、来週、月森くんがウィーンから戻ってくるんだって!!」  
*...*...* Steady 1 *...*...*
「って、それにしても突然だな? 月森があっちに行ったのって確か…」
「ん…。私たちが高2の3月だったから…、えっと、1年半ぶり、ってことかな?」
「なんだ、もうそんなに経つのか」
「なんでも、月森くんのお祖父さんの具合が良くないから、お見舞いをかねて一時帰国する、って話みたい」

 心なしか、香穂はウキウキと話し続ける。
 月森の祖父が今年80歳を越え、めっきり弱ってきたこと。
 帰国するタイミングで、恩師にも会うこと。
 その恩師と、王崎先輩の繋がりで帰国前に弦楽四重奏を組むこと。

「月森くんから、良かったらその演奏会、聴きに来て欲しいって言われてるの。すごく楽しみ!」
「香穂、弦楽四重奏っていうなら、お前もそのカルテットに参加するのか?」

 弦楽四重奏は、2本のヴァイオリン、あとは、ヴィオラ、チェロから構成される合奏だ。
 曲によって、チェロがバロックチェロになったり、コントラバスになったりすることはあるが、ヴァイオリン2本というのはほぼ固定。
 だったら、月森と香穂で、ちょうと頭数は合う、か。

「そうか、お前もその四重奏に一枚絡むってことか」

 香穂は俺の問いに驚いたように首を振った。

「え? 私が? ううん、そんな!」
「は?」
「私も頑張ってるつもりだけど……。そんな、月森くんと一緒に演奏するなんてまだまだ、だよ。。
 それに、ヴァイオリン奏者は、王崎先輩の知り合いの方みたい」
「なるほどな」
「その人、月森くんと一緒に帰国するんだって」

 俺が大学の近くにマンションを借りて、そろそろ1ヶ月。
 人目がなければ、すぐさま香穂の身体に触れている俺にとって、香穂との距離を縮められない大学の構内、というのは、逆に気持ちが高ぶる。
 楽しそうに話し続ける艶やかな唇。
 すぐ下にある、すっきりと細い首。
 タンクトップの上に、冷房対策、と言って、羽織っている白いカーディガン。
 白く広がる胸元は、無意識のうちに俺の下半身を張り詰めさせた。

「香穂」
「ん? あ、ごめん。私ばっかり話してたよね。なんだった?」
「今日、お前、夜はどうしてる?」
「う、ん……」

 『夜』というのが気になったのだろう。
 香穂はポッと頬を赤らめると、ちらりと俺を仰ぎ見る。

「授業がすんだら、俺の部屋に来ないか? なんならお前が先に行って、待っててくれてもいいし」

 前に香穂を抱いたのはいつだったか。
 その気になれば、365日いつでもオッケーな男と違い、女の香穂はいろいろ差し障りがある。
 終わった直後は貧血がヒドいのか、先週は青い顔をしていたが……。

 改めて香穂の顔を見つめる。
 今日なら、香穂を思い切り抱いても、大丈夫なような気がする。

「うーん。ごめんね。今日はちょっと目を通しておきたい楽譜があって、帰りが分からないから……」
「そう、か」

 俺の気も知らないで、香穂は朗らかに告げた。

「今度帰国したときね、月森くん、バッハのフーガを弾くんだって。私、ヴァイオリン譜だけでも見ておきたいなあって思って」
「じゃあ帰る時間が決まったら連絡くれよ。そのときどうするか決めようぜ?」

 授業の始まりが近いのだろう。
 大学でよく口を利くようになった悪友が、腕時計を指さしながら通り過ぎていく。

 普段の俺ならこんなにも食い下がることはないんだが、下半身が疼くのはどうしようもない。
 香穂は俺の様子に不思議そうに首を傾げると、小さく頷いた。

「ん……。じゃあ、なるべく早く終わらせてくるね」
*...*...*
 夜9時を過ぎた頃、香穂から電話が鳴った。
 元々強引に誘ったのは俺だが……。
 あいつは出会った頃から、約束をきちんと守る。
 そんな律儀なところも、俺が気に入っているところの1つだったりする。

『ごめんね、土浦くん、こんな時間になっちゃったから、今日は帰るよ』
「って大学からこのマンションまですぐだろ? 待ってるから、来いよ」
『ん……。1時間もいられないと思うよ?』

 ケータイから、小走りに階段を下りる音がする。
 これは、多分大学の練習室。
 9時を過ぎると大学の練習室は一斉に明かりを落とす。
 以前暗闇が怖いと言っていたことがあったから、あいつ、走ってるのかな。
 こんなことなら学校まで迎えにいってやれば良かった。

「待ってる。お前の好きなコーヒー淹れておいてやるから」
『う、ん……、じゃあ、少しだけ』

 俺はケータイを片手に軽く腰を上げると、さっそくフィルターにコーヒーの用意を始めた。

 女って、男みたいな性欲ってないんだろうか?
 香穂を抱くようになってからかれこれ5ヶ月。
 最初に訴えていた痛みみたいなモノは、とうに無くなって、今は『イク』という感覚も覚え始めたようなのに。
 香穂から俺の身体を求める、ってことは今までに1度もない。

 ──── いつも、俺ばかりが求めている気がする。

「お? 来たか」

 コン、小さくドアをノックする音がする。
 最初は、玄関のチャイムを鳴らすようにしていたけれど、最近はこっちの秘密めいたやり方が俺と香穂のルールだったりする。
 ピアノを弾いているときは音に集中して聞こえないんじゃないかと思ったものだが、不思議とそういうことはない。
 香穂が作る音はどんなものだって、俺の耳に飛び込んでくる。
 先日抱いているとき、真面目にそう告げたら、予想外にも火が付いたように朱くなった。
 あとで気づいた。
 香穂はあのとき、俺を受け入れるときの水音を思い浮かべていたんだ、って。

「土浦くん、ごめんね。遅くなっちゃった」
「ああ、俺も強引に誘って悪かったな」
「ううん? 土浦くんの淹れてくれたコーヒー、美味しいから。期待してきちゃったの」
「ははっ。お前の予想どおりだぜ?」

 きん、と脳みそが切れそうなほど冷房の効いた部屋で、これ以上ない熱いコーヒーを飲む。
 身体に茶色の液体が染み込んでいく感覚は、心酔しているオケを聴く瞬間にも似ている。
 俺は冷蔵庫で冷やしておいたチョコとナッツ、それに、チーズを載せた皿を香穂の前に出す。

『コーヒーにはたくさんのお菓子は必要ないの。甘いモノと辛いモノ。量よりも品数、ってこと覚えておくのよ〜』

 なんてエラそうに姉貴がウンチク垂れていたのを思い出す。
 って、この皿を見た途端、パッと目を輝かせている香穂を見てると、姉貴の助言も悪くない、ってことか。

「土浦くん、手際がいいね。それに、すごく美味しそう」
「そうか? 今日は俺、ヒマだったしな」
「ね、まだ先過ぎて、全然想像がつかないんだけど」
「は?」

 香穂はブラックのままコーヒーを口にすると、楽しそうに話し続けた。

「いつかね、ずっと遠い先のいつか、私たちがやりたいことを全部やり尽くして、おじいちゃんとおばあちゃんになったとき、ね。
 こんな感じの喫茶店があったら素敵だね」
「ははっ、喫茶店か」
「そう。美味しいコーヒーと、美味しいお菓子。それに、小さくクラッシックが流れてるの。
 何時間でも、そのお店にいることができるの。そうだ、リクエストも受け入れてくれるの。
 今日は、シューマンが聴きたいなあ、って言ったり、できるの」

 大きなマグカップを手に、香穂はいろいろ想像しているのだろう。
 柔らかく動き続ける唇は、別の生き物のように開けたり閉じたりを繰り返す。

「土浦くんは、マスターさんで、私はウェイトレス、っていうのもいいかなあ」
「って、おばあさんのウェイトレスか?」
「うん! 『おばあちゃん』じゃなくて、『マダム』って呼んでもらえるような、素敵なおばあさんになりたいなあ」

 首をすくめながら笑う香穂は、惚れた欲目を差し引いても、可愛くて。
 俺はコーヒーを飲むのも忘れて、香穂を腕の中に抱え込んだ。




「……ずっと一緒にいような。香穂」
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