私は月森くんの音楽に夢中になった。
*...*...* Steady 2 *...*...*
「ごめんね。月森くん。今日も、月森君の演奏、聴かせてもらってもいいかな?」「……ああ、君か。構わない、君さえ良ければ」
月森くんらしいと言えば、そうなのかな。
月森くんは帰国してから1週間。片時もヴァイオリンを離さない。
いつも彼を守るかのように、ぴったりと彼のそばに寄り添っているヴァイオリン。
生まれたときからこうだったんだ、と言いたげに、月森くんとヴァイオリンが作る影は、1つに溶け合っている。
「月森くん、高校の時と全然変わってないね」
「そうだろうか? これでも一応、昔より料理ができるようになった」
「本当?」
「ああ。下宿先の叔母さんはいい人なのだが……。
夜中に空腹を感じたときなどに起こすのは申し訳ないから、たまに自分で作ったりはする」
「ふふ。そうなんだ」
改めて月森くんを見上げる。
高校の頃。そう、月森くんが留学する前が1番自分を持て余していた冬を思い出す。
あのときは、月森くんのことが好きで、意識ばかりしていて。
彼の顔をまじまじと見つめることなんて、とてもできなかったっけ。
──── 不思議。
だけど今の私は、真っ直ぐに月森くんを見つめることができる。
私には、土浦くんという大事な人がいて。月森くんは、私が進むべきずっと先の、憧れみたいなもの。
あと少し頑張れば、月森くんの正確さに。
この曲想を理解できれば、月森くんの豊かさに繋げることができる。
けして楽しいことばかり練習の日々の中で、そう思えることは幸せだった。
帰国した月森くんの唯一変わったところ、と言ったら、淡いブルーのサングラスを掛けていること、くらいかな。
なんでもヨーロッパよりも日本の日差しは強いらしい。
元々華奢で細い人だったけれど。
ますます白くなった顔を見ていると、月森くんは日本人というよりも、むしろハーフのような儚げな美しさを醸し出していた。
「……失礼。練習室のドアを開けておいてもいいだろうか?」
月森くんは、羽織っていた上着を脱いでピアノの椅子にかけると、ドアの方に脚を向けた。
「はい? ……うん、いいよ? どうして?」
高校生の頃、練習室のドアなんて開けたことがなかったのに。
疑問に思って尋ねると、月森くんはサングラスを取り外しながら微笑んだ。
「ドアを開けておくことは、女性と2人きりになるときのマナーだと聞いた」
「そう、なんだ」
分かったような、分からないような、気がする。
私と月森くん、今まで2人きりで練習したことも何度かあったのに、こんなことは初めて、だよね。
それは高2の私がまだ、女性ではなかった、ということなのかな。
……それもまた、寂しいような……?
私の考えが顔に出たのだろう。
月森くんは、胸ポケットにサングラス苦笑を浮かべた。
「……しばらく見ないうちに、君は綺麗になった」
「え? い、いきなり、なに言って……」
「俺が日本を飛び出した高2の頃は、まだ『あどけない』という言葉がぴったりだったが。
今の君は……。落ち着いた女の人になった」
「あ、ありがとう……。自分じゃ、全然自覚がないんだけど」
長い時間 外国に行くと、人はその国の風土に大きな影響を受けるという。
月森くんの容姿が、ハーフみたいに変わってしまったように。
実は私が気づいていないだけで、月森くんの中身も変わってしまったのかな。
女の人を気持ちよくする話し方を覚えたのかな……。
きっとそうだよね。だから、私にもこんな優しいことを言ってくれるんだ。
「──── 君は土浦といて幸せなんだな」
「え? その……、知ってたの?」
「ああ。いつだったか。……確か、王崎先輩から聞いた気がする」
別に隠すつもりはなかったけれど、ウィーンと日本に離れている間は、なかなか伝えるタイミングがなかった。
月森くんが帰国してからは、月森くんの音楽に圧倒されて、あまり話もしていなかったっけ。
そういえば、まだ土浦くんと月森くんは顔を合わせていない気がする。
私は、デートの誘いのように少しだけ緊張しながら口を開いた。
「そうだ。……あの、今度、土浦くんと私と月森くんの3人で会わない?
土浦くんは指揮科に進んだの。彼、きっと、月森くんの話も聞きたいと思う。
その、ウィーンフィルの話とか、市内で活動しているオケの話も」
「……もう1度、高2の冬に戻ったとしても、俺は音楽を選ぶのだろうか」
「はい?」
月森くんの言っていることがわからなくて、ぽかんと彼の顔を見上げると、そこには真剣な目をした月森くんがいた。
「俺の答えはYesだ。
だが……。ときどき、自分の周囲の音が消え去って世界が真空になった瞬間に考えることはある。
高2の冬、俺は、音楽ではなく君を選んで。
そしてもし、君も俺を選んでくれたなら、どんな世界が待っていたのだろうかと」
「その……。そんな風に言ってくれてありがとうね」
私は止めていた息を少しずつ吐き出すように話し終えると、笑顔を作って月森くんに笑いかけた。
「土浦くんにはずっと良くしてもらったの。高3のときも、大学受験も、今も。だから……」
「……君の音楽を聴けば大体のことはわかる」
月森くんは少しぶっきらぼうに話を切り上げると、ヴァイオリンを取り出した。
*...*...*
先週からの約束で、私はその日、ちょっとしたおつまみと飲み物を持って、土浦くんのマンションへ向かった。高校の時とは違う新しい付き合い方に、知らないうちに頬が熱くなる。
──── 土浦くんと同じ大学の、大学生になれたこと。
この前自宅に土浦くんを連れて行って、お父さんに紹介したことがよかったのかもしれない。
月に1回、こうして土浦くんの家に遊びに行くことを、お母さんはシブシブ許してくれるようになった。
『私は古いかも知れないけれど、女の子が外泊するのは本当は反対なのよ?』
『お母さん……』
『だけど、どうしても、って言うなら、ちゃんと行き先と帰る時間を告げて行きなさい。
あと、あんまりしょっちゅうっていうのは好きじゃないから。頻度を考えなさいね』
ちょっとした背徳心。それを上回る楽しさ。
お母さんには申し訳ないな、って思うけれど、1日中、土浦くんに夢中になれるのはすごく幸せなことだと思う。
「土浦くん、おジャマします。あれ? 明かり、つけないの? 暗いよ?」
午後8時。
以前から関心があったのかな。
土浦くんは『これで堂々と解禁だな』と笑って、この夏はビールを飲むようになった。
私はお姉ちゃんに勧められてもどうしてもあの苦い液体が好きになれなくて、土浦くんが飲むのを眺めていることが多い。
私の手にはよく冷えたドイツのビールが2本引っかかってる。
こんなに暑い日は、ビールが特別美味しいかも。
「……香穂」
「わ! な、なに?」
そろそろと壁際にある明かりのスイッチに手を伸ばそうとしたとき、覆い被さるように伸びてきた土浦くんの手にぶつかる。
引っ込めようとすると、巻き取られるように握られた。
土浦くん、だよね……?
顔が見えない。
「やっ。土浦くん、どうしたの……?」
薄暗がりの中で、土浦くんの目だけが獲物を狙う肉食獣のようにギラギラしている。
「今日、見たんだよ。練習室で月森がお前を口説いてるのを」
「え?」
「って月森も相変わらず要領悪いな。どうして女に告白するのに、ドアを開けておくんだよ」
忌々しそうに月森くんの悪口を言う土浦くんに、私は思わず反論する。
「そんな……。月森くんのことを悪く言わないで。あれは、その、異性と2人きりになるときのマナーだ、って」
「へぇ。お前、月森の肩を持つのか?」
「か、肩なんて持ってない。……んんっ」
土浦くんの大きな手が私の胸を覆い、そのまま強引に握りしめる。
むしろ暴力に近い愛撫に、私は顔をしかめた。
拒絶にも似た声が腹立たしかったのだろう。
土浦くんは私を床に押し倒すと、息もつかせない勢いで口づけてくる。
「待って……。苦しいよ。私」
「月森だったら、お前のこと、どうやって抱くんだろうな?」
「いや……っ。やめて、土浦くん!」
……いつもの顔。いつもの匂い。
この廊下だって。間取りだって。
左に曲がれば、土浦くんのピアノ室。真っ直ぐ行けば日当たりの良いリビングがある。
どこだって私が知ってる土浦くんの部屋。
だけど、どうしてだろう……。
土浦くんは、私の意志をどこかに置き忘れたみたいに、自分の意志だけで動き続ける。
「土浦くん!」
反抗する両手を頭の上でひとまとめにされる。
腰を捩らせて拒否しても、土浦くんにはなんの効果もないのだろう。
長い指はなんなく私の下着まで辿り着くと、強引に滑り込んできた。
「あ……っ」
「濡れてるぜ? 指がほら……、すんなり入る」
「やめて、土浦くん。怖いの、イヤ」
「ここ、好きなんだろ? 弄るとお前、腰が揺れるからわかるぜ?」
1本だった指が2本になり。
真っ直ぐ進んできていた指が、バラバラと思い思いの場所で動き出す。
強引なのに、繊細な指の動きは、土浦くんのピアノの上を踊る動きにも似ている。
「土浦、くん……っ」
「──── 誰にも渡さない。月森にも、他のヤツにも」
耳元でカチャリとベルトを外す音がする。
私はなにかの宣告を聞いたかのように、身体中の力を抜いた。