「香穂子、あなたお風呂は?」
「ん……。シャワーにする」
「あら? 今日もシャワーなの? 疲れてるときはゆっくりお風呂に入るといいのよ。
 シャワーばかりですませていると、残暑が乗り越えられないわよ?」

 階下で、お母さんのお小言が聞こえる。
 私は夏休み中に出されたレポートの課題リストを指で弾くと、パタンとベッドに横になった。

 星奏学院の音楽科に進んで初めての夏。
 音楽科に進んだからって、実技ばかりしている、ってわけじゃないだろう、ってことは想像がついていたけれど、
 このレポート量の多さは想定外、だったかもしれない。

 夏休みが終わるまであと1週間。
 なんとか題材だけでも決めておかないと、もしかしてもしかすると、留年っていう心配をしなくてはならなくなる。

 私はそっとTシャツの袖を肩までまくり上げ、ある存在を確認すると、その部位をおそるおそる撫でた。

 ──── お風呂、は、苦手。
 特にこの1週間は、苦手。
 身体を見るたび、洗うたび、土浦くんが私に付けた痕が目に入る、から。

 あんな、土浦くん、怖かった。見たくなかった。
 私の指だけは気を遣ってくれたのか、大きな傷はなかったけれど。
 思い切り手首を握られていたからだろう。
 2、3日、自分が思うような柔らかい音が出なくて困った。
 どんなにヴァイオリンを構えても。抱かれているときと違う体勢を取っても。
 どんなときも、私の手首は土浦くんの大きな手に握られているような気がする。

「香穂子。お風呂空いたわよ。早く入りなさい〜」
「はーい!」

 これ以上お母さんを困らせても、と私はすかさずベッドから立ち上がると、浴室に向かう。
 この季節、家にいるならキャミソールにホットパンツ、という格好が多いのに。
 今日は、ヒジまである5分丈のTシャツにジーンズを着込んでいる私に、お母さんは不審そうな目を向けた。

「ごめんね。今から入るね」

 そして浴室のカギを掛けると、ゆっくりと服を脱いでいく。
 胸の頂の部分。脇腹。二の腕。
 土浦くんの付けた朱い痕は、今は紫色になって、あちこちと散っている。
 私の身体に散っている痕の数は、土浦くんの悲しさにも比例しているような気がして、私はまたため息をついた。  
*...*...* Steady 3 *...*...*
 夏休み中に出されているレポートの目処を付けようと、私はこの日、大学の図書館に来ていた。
 何を書くにしても、まず基本がわかってないことには書きようがない。
 ましてや、私には、その基本の基礎となる音楽的知識に欠けていると思うことも、多い。
 まずは調べて。なにが分かって、何が分からないのか。
 分からないことが分かるようにならなきゃ、どうしようもないもん。

「まずは私でもできそうなレポートから、っと……。音楽史は、『クライスラーは笑う』事件について、か。これなら私でもできそう!」

 『フリッツ・クライスラー』ユダヤ系のヴァイオリニスト。
 クライスラーを語るとき、人は、彼のヴァイオリンの才能や実力に触れることはほとんどない。
 それよりもむしろ人の作品をリライトして自分のモノとして発表した、盗作のクライスラーとして語られることが多い。
 だけど、私は他の人が言うほど、クライスラーのことが嫌いじゃないような気がする。
 お金のない仲間たちに気持ちよく楽器を分け与えたり、陽気な性格だったいうフレーズを見ると、気持ちが温かくなる。
 人の心は、時期によっても、また見る人によっても、丸にも四角にも形を変えたりするんじゃないかな、って。

(土浦くん……)

 私は、今まで、土浦くんのなにを見てきたつもりだったのかな。
 どうして、土浦くんはあんな行動を取ったんだろう。
 ──── 私は、どうしたら良かったのかな。

「あれぇ? 香穂子?」
「へ? あ、……真奈美ちゃん?」
「うわあ、香穂子、元気だった!? 夏休みともなるとなかなか会えないよね〜」

 図書館、ということも忘れて、私たちの声は少しだけ高くなる。
 森真奈美ちゃん。ピアノ科専攻。
 まだ私がこんな風に音楽の道へと進むなんて想像もしていなかった頃からの友だち。

 ひとしきり話しても、全然話題が尽きることがない。
 でも図書館で話し続けるのも、と思っていると、真奈美ちゃんがパチンと指を鳴らす。

「そうだ、香穂子。お昼も近いし、一緒にランチしようよ」
「うん! あれ? 夏休み中ってカフェテリア、やってたっけ?」
「縮小営業って聞いたことがあるよ。パンかパスタでも大丈夫よね?」
「ありがとう。全然問題ないよ〜。大好物」

 私は机の上に広げていた資料を端っこに寄せると、真奈美ちゃんと肩を並べて図書館を出た。

「土浦くんもピアノ頑張ってるの? マンションを借りてから、あまり見かけなくなったけど。
 いいよね〜。自分の城に自分だけのピアノがあるって」
「そう、だね」
「私なんて、いまだに自宅で妹と弟と共用なんだよ? 早く自分用のピアノが欲しいわ……、って香穂?」
「は、はい?」
「……なんか、元気、ないことない?」

 自分の状態が親しい人にすぐ分かってしまう。
 私のこの性格、というか、性分は、良いときもあれば悪いときもある。
 気分が高揚しているときは、自分の想像以上の豊かな音が出る。
 問題は、そうじゃないとき。
 そんなときは、聴いている人を不愉快にさせるほど覇気のない音が出る。
 この前、私のヴァイオリンを見てくれている大学の教官にも言われたっけ。

『今日の香穂子さんの音は、terrible! terrible以外の何者でもないよ』
 って。あのときは思い切りヘコんだっけ。

 多分、今の私の音は、あのときの terribleが3乗分、くらい、かな?
 どんなときも音符に忠実な音を出す、月森くんや志水くんが羨ましい。

 真奈美ちゃんは心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

「熱はないみたいね?」

 頬の熱さを確かめる、真奈美ちゃんの指はすべすべしてて気持ちいい。
 私はパスタの載ったトレーを手に、真奈美ちゃんの真向かいに座ると、しゅんと肩を落とした。

「……ん。ちょっと、土浦くんとケンカ? かな。ケンカ、みたいになっちゃって」
「は? ……なにそれ、一体どういうこと?」

 私は口ごもりながら、月森くんが帰国してきてからのことを話し始めた。
 彼の音にどんどん惹かれていったこと。毎日のように彼の練習を聴いたこと。

「だけどね、その……。月森くんが好き、っていうんじゃなくて、その、月森くんのヴァイオリンに惹かれて。
 その、私が月森くんのヴァイオリンに憧れているの、土浦くんはよく知ってて、だから」
「……よく知っていたから、でしょう?」

 真奈美ちゃんは、駄々っ子をなだめるように優しい声で相づちを打った。

「……はい?」
「一言で言えば、やきもち? 香穂子って控えめすぎるところがあるからさ?」
「そ、そんなことない! 私、控えめなんかじゃないよ。図々しいところ、いっぱいあるし!」
「そう? 土浦くん、不安になっちゃったんじゃないかな?」
「不安……?」
「香穂子、土浦くんにも気持ち、伝えてる? ちゃんと好きだって」

 伝えてる? どうなんだろう。……わからない。
 聞かれたら、ちゃんと答えてる。……答えるまで離してくれないから。
 この前も、上り詰める直前に何度も聞かれて。答えた瞬間に大きな土浦くんが入ってきたっけ。

 お昼を少し過ぎた、夏休みのカフェテラスはきらきらと空気を照らす。
 私、こんな明るいところで何考えてたんだろ!

 真奈美ちゃんは私の恥ずかしい考えに気づかないような様子で、キャベツとアンチョビのパスタを口に運んでいる。
*...*...*
「はぁ。真奈美ちゃんの方が、土浦くんのことをよく分かってるって、私って……」

 ぺしゃんこになった気持ちをどうにかしたくて、私は大学からほど近い港の見える丘公園まで足を伸ばした。
 目の前で空いたベンチに腰掛ける。
 残暑は相変わらず厳しい。
 とはいえ、海辺のせいか、夕方は涼しい風が吹いてくる。

 こんな気持ちいい風に吹かれるといつも考えることがある。
 ずっと、一晩中こういう風に吹かれていたら、自分の中のウツウツとした感情とか、悩みとか。
 全部、風が持っていってくれちゃうんじゃないか、って。
 そうしたら、悲しい気持ちを持つことなく、私は生きていけるのかな、って。
 そう考えて首を振る。
 もしも悲しいことを忘れるのと同時に幸せな記憶も無くしてしまうのなら、私は、どちらも引き受けてやる、って。

「あら? 日野さんじゃないかしら?」
「はい? あ……、都築さん! お久しぶりです」
「隣り、いいかしら?」

 指揮科の都築さんは残暑の厳しさの中、涼しげなスーツを身につけている。
 どんなときも冷静沈着な彼女の指揮を思い出す。
 今、この場で指揮台に立つことになったとしても、彼女には驚くことはないだろう。
 むしろ、女王のような立ち振る舞いで舞台に立つに違いない。

「ねえ、日野さん。土浦くんとケンカでもしたの?」
「はい!? え、っと……」
「そうなのね?」
「ど、どうして知ってるんですか?」
「簡単よ。土浦くんの行動が簡単に答えを導き出してくれるのだもの」

 私の答えに、都築さんは軽く頷くと目の前に広がる海辺を見ている。
 って、バカバカ。私、どうして、『どうして知ってるんですか?』なんて言っちゃうんだろう?
 これじゃ、土浦くんとケンカしていること、都築さんに教えているのも同じだよ。

「日野さん?」
「えーっと、えっと、『土浦くんの行動が』ってことは、都築さんは土浦くんとよく会ってるんですよね。彼、元気、ですか?」

 土浦くん、というフレーズに心が慌てる。痛くなる。
 もう、これで1週間連絡を取ってない。
 1週間連絡を取らないことが、普通のカップルにとって長いことなのか短いことなのか、私にはよく分からないけれど。
 土浦くんを近くに感じるようになってから、もうすぐ1年。
 こんなに顔を合わせなかったことも、連絡を取らなかったことも私にとっては初めて、で。

 じわり、と視界がぼやけたことを隠すために、私は自分の横顔に注がれる都築さんの視線に知らないフリをして、浜辺を見続ける。
 海の浅瀬は緑が濃くなって、これでもか、というくらい、豊かな養分を蓄えている。


(会いたい)


 浮かんでくる感情に、胸の中がコトコト悲しい音を立てる。
 私、土浦くんに伝えてなかったのかな。
 すごく好きで、大好きで。
 ずっとそばにいたくて。

 ──── 苦しいほど、好きだ、ってことを。


 エメラルド。ううん、それよりも深い緑が風でさわさわと波及を起こす。
 夏らしい緑色は、土浦くんにピッタリだ。
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