「はい! あのね。星奏の附属大学の書庫はね、高校の5倍はあるんですって。
初めてのときは1人で行くと、絶対迷うから、って、一緒についてきてくれることになったんです」
「── なるほどね」
*...*...* Voice 1 *...*...*
俺が大学へ、香穂子が高3へと進んだ春。高校生、と大学生という枠組みに属している俺たち。
別々の時間が流れる生活の中で、『2人の時間を作る』という行為が、自分たちが想像していた以上にが難しい。
その事実を知ったのは、お互いの新しい生活が始まって1ヶ月が過ぎようとしているころだった。
香穂子は市の音楽祭でコンミスを務めたことが、自分の励みになっているのだろう。
ますます音楽とヴァイオリンに夢中になっている。
一方俺の方は、新しい環境の中、時間的にゆとりのない日々を送っていた。
新入生のオリエンテーションや、サークルの勧誘。
高校時代ほどあからさまではないものの、黄色い声を上げて群がってくる女たち。
そういったものを、今までの俺らしくそつなく受け流しながらも、
ふと思うのは、香穂子と2人きりで演奏をしていたときの、穏やかでのびやかな空気で。
久しぶりに香穂子とゆっくり会った後、こぢんまりとした隠れ家のようなホテルについたのは、
春の華やかさが残った生暖かい春の休日のことだった。
香穂子は楽しそうに続きを話し出す。
「楽しみです! 一度ね、大学の書庫に入りたかったんです。
ちょっとした博物館みたいだぜ、って土浦くんがよく言っていたから」
香穂子は、この春開催された市の音楽祭の大役を無事に果たせた、という開放感からか、
以前にも増して明るい顔で俺を見上げる。
そのとき、香穂子は、都築さんの指導の元、何曲もなだらかで優しい音を奏でた。
普通科だ、音楽科だ、と香穂子を入れ物でしか評価していなかった理事たちも、
高校生のレベルを遙かに凌駕した演奏には、何一つ文句がいえなかったのだろう。
演奏が終わるころには、吉羅さんと一緒に惜しみない拍手を送っていた。
── ふぅん。火原と香穂子、ねえ。
なるほど。星奏の附属大学は、高校の近郊に併設されている。
俺と火原。同じ大学生とはいえ、附属大なら、今の俺ほど苦労しなくても、
会おうと思えば、簡単に会うことができる、ということか……。
備え付けの紅茶、といえども、このホテルは、どこか品の良いフレーバーティが置いてある。
香穂子は俺の好みのお茶を見つけると、嬉しそうにお湯を注いだ。
そう……。
こいつと2人でいるときに流れてくる空気は、ひどく俺を安心させる。
まるでこいつのヴァイオリンの音に、身体をゆだねているときと同じなんだ。
「── 会いたかったです。柚木先輩」
香穂子は俺と向かい合わせのソファに座ると、照れたような笑い顔を見せる。
と、そのとき、香穂子の白いカバンの中で、小さな電子音がした。
「あ、あれ? なんだろう。……メール、かな? ちょっと見てみます」
香穂子はカバンの中のかすかな震えに気がついたのだろう。
一言俺に断ると、ゆっくりと携帯を持ち上げた。
「誰かな……。あ、あれ、火原先輩から、ですね。
ん……。えっと、『香穂ちゃんの読みたい本、具体的に教えて』だって。
明日空いてる時間があるから、先にチェックしておくよ、って。
火原先輩、相変わらず優しいなあ……」
『音楽』とひとくくりに言っても、音楽の切り口は、人の数だけ存在する。
以前に一度、附属大の書庫に足を運んだことがあるが。
確かにあの書庫は国内でも有数の書物がそろっているという話もうなずけるほどの量だった。
ハイドンや、モーツアルトなどの著名な音楽家に対する文献は、それだけでも1フロアを占有するほどの勢いだ。
火原は、香穂子のことを思って、効率良く書庫を回ろうと考えているのだろう。
(── 火原らしい、か)
自分のことよりも、俺や後輩や、香穂子。
周囲の人間のことを先に考えて、行動していた火原のことを思い出す。
駆け引き、だとか、損得、だとか。
そういった下世話なことは、最初から火原の脳裏には存在しない類のものらしい。
「ごめんなさい。早めにお返事書いちゃいます。ちょっと待っててください」
香穂子は、華奢な指で滑らかに携帯を扱うとキーをたたいた。
「シューベルト、の……。影響を受けた、……音楽家を、知りたい、です、と。
よろしくお願いします……、これで、いいかな?」
香穂子はメールの内容を口ずさむと、嬉しそうに送信ボタンを押した。
── 音楽は、いい。
音楽は、俺と香穂子を結びつけ、俺に仲間を作り、俺自身の人生をも豊かにしてくれた。
だから、音楽に夢中になっている香穂子を見ているのは嬉しい。
ましてや、相手は俺の親友の火原だ。俺と香穂子のこともよくわかっている。
だけど。
── どこか、面白くない。
「送信、っと……。ごめんなさい。お待たせしました」
香穂子は俺の屈託に気づくことなく携帯を畳むと、ソファに座っている俺に紅茶を差し出した。
「さくらんぼの紅茶、ですって。なんだか春らしくていいですね」
「シューベルト?」
「あ、はい。最近、シューベルトの曲想と、ブラームスの曲想が、似通ってる部分があるなあ、って思ってて……。
星奏の書庫でなんとなく調べてみたら、この2人に親交があった、って話を読んだんです。
すごく面白いな、って思って」
「……そう」
「不思議ですね。テスト勉強だと、こういうのって全然覚えられないのに。
歴史、って続いてるんだ、って……。
人のつながりが音楽を作ったんだ、なんて思ったら急に感動しちゃって」
香穂子が真剣に音楽の道を歩もうと決めたとき、俺は歓迎した。
『呪われた者たちの世界へようこそ、だな』
『え? 私たちは、呪われた者たちなんでしょうか? なんだか怖いですね……』
『お前は何も心配する必要はないよ。俺がついているんだから』
それが今はどうだ。
香穂子は俺の支えもなしに、しっかりと自分の脚で立って。
豊かに根を張り始めているようだ。
「── ここにおいで。香穂子」
「は、はい……っ」
俺はソーサーをテーブルの上に置くと、自分の膝の間を指差した。
久しぶりに抱き寄せる身体から、微かにさくらんぼの香りがする。
心持ち朱くなった頬は、さくらんぼそのものの艶があった。
「まあ、音楽に夢中なのもいいけどね」
「はい?」
「この2週間、お前のことを欲しい、って思っていたのは、俺だけかな?」
「あ……」
頭を抱え込むようにして口づけを深くする。
甘い紅茶の香り。同じものを飲んでいるのに、香穂子の口内は甘く柔らかい。
下半身が、自分でも制御不能なくらい張りつめているのがわかる。
ソファとベッドまでの距離は、わずか数メートル。
移動をするのさえもどかしい。今日俺はここで香穂子を抱くのかもしれない。
「……ん?」
と、そこへ、またも、ぶしつけな音が響いてくる。
俺の携帯の着信音とは違う。
見ると、テーブルの上、ピンク色の携帯が、振動と点滅を繰り返している。
「……お前の、だぜ?」
「……いいの。出ない」
ふんわりと手触りのいい柔らかい素材のブラウス。その裾から手を差し込んで、ふっくらとした胸を持ち上げる。
冬から春になって、また香穂子の胸はしっとりとした重感を増してきているようだ。
やや強く握り締めてみれば、ぴくりと香穂子の腰が揺れた。
携帯は数度間隔を空けて、こちらの様子をうかがうかのように なおも執拗に音楽を撒き散らした。
「……いいよ。出ろよ。待っててやるから」
俺は背後から香穂子を抱きかかえたまま、テーブルの上にあった携帯を香穂子に持たせる。
香穂子はけだるそうな様子で、携帯を耳に当てた。
「も、もしもし……。日野、です」