*...*...* Question *...*...*
 星奏の図書室の蛍光灯って、優しい色をしている。
 色でいうなら今の季節のような、ちょっと落ち着きのある色。
 ノートの罫線が家で見てるときと違う、鉛筆書きのようなふんわりとしたストライプになってる。

 窓の外には、枯葉色の煉瓦の上、色とりどりの葉が舞っている。

 私は、ペンを止めると、おそるおそる目の前の人を盗み見た。
 ぱりぱりと音を立ててページがめくられていく感じ。
 速読、というのかな。柚木先輩は本を読むのがすごく早い気がする。
 こう、ページの右端から左端へ、つつーっと視線を走らせて、また次のページへ行く。
 私、写真がいいっぱいの雑誌を読むのだってこんなに早くは読めないと思う。
 ページをめくる手はどこかリズム的で、本の変わりに何か打楽器を持ったら、眠りを誘う音楽が始まりそうな気がする。

 ちらりと見えるページには、写真らしきモノは何一つない。── けど、こんなに早いんだ……。

「……何、見てるの?」
「は、ははい! え? どうして……?」

 先輩の目は、ずっとページの上に踊っている小さな字を見ていたはず。
 どうして私が見てるってことがわかったんだろう?

 柚木先輩は小さく口を歪ませると、ノートの上にあった私の左手を持ち上げた。
 そしてゆっくりと指を撫でていく。
 17年の間、右手に甘やかされてきたこの手は、この数ヶ月で少しだけ筋張った筋肉を持つようになってきている。

「俺にかまって欲しいの?」
「え? ううん。えっと、その……。あ、ごめんなさい。私も勉強します」

 目の前に広げられたままになっている数Uの教科書に目を落とす。
 音楽科に転科した今、数学が簡単なものになっているのは純粋に嬉しい。

『3年生になったら、数学もなくなるよ? だから香穂ちゃんも大丈夫』

 って火原先輩は小学生みたいな笑顔で言ってたっけ……。
 け、けど、音楽科とはいえ、2年生の間は、それなりのことはやらなきゃいけない。

「もう少しで読み終わるから、いい子で待っていて」

 柚木先輩は真剣な表情で、再び紙面に目を落とした。

 試験前、ということもあって、今週はヴァイオリンの練習もそこそこに、こうして放課後柚木先輩と図書館で過ごす。
 それは嬉しいんだけど……。
 そこで私はため息をつく。

 ── 多分、また。
 人当たりの良いこの人には、昨日と同じことが起きるような気がする。

 学院の中で、私が柚木先輩と付き合っているということは内緒になってて。
 コンクールが終わって、夏休みが終わった今になっても、

『ヴァイオリンに不慣れた日野さんの送迎をご親切にも買って出ている柚木先輩』

 っていう構図が親衛隊さんたちの中にある。
 こうして2人でいても、私の姿は親衛隊さんの目には映らないらしい。
 私を全く構うことなく……、というか、射るような目付きで牽制してその場をあとにすることも多い。

(どうか、今日はこのままの時間が過ぎますように)

 そうして10分。
 気を取り直して微積の問題を2つ解いたとき、急に周囲の雰囲気が華やかなモノに包まれたことに気付いた。

「あ! 柚木サマー。こちらにいらっしゃったんですか?」
「明日の試験範囲の音楽史なんですけど。どこが一番出題されやすいかご存じかしら?」
「やあ。君たちも試験勉強?」

 図書館、ということで声は小さいけれど、嬉しさを押さえきれない、って感じの声が柚木先輩の周囲を囲む。
 私は気づかないふりをして、教科書をめくった。
 う、ここまでは、昨日と一緒の流れ、だよね。ってことは、次は、私にくるかも!

「……あら、日野さん。今日もこちらに?」

 ── きた!
 わ、投げかけてくる言葉も、同じ。目付きの鋭さも同じだ……。デジャブ、みたい。

「は、はい!」
「もしかしてあなた、ヴァイオリンのお世話だけじゃなくて、試験勉強も柚木サマのお手を煩わせてるのかしら?」

 座ってる私に対して、柚木先輩の両脇に親衛隊さんの2人は立ってる。そのせいかな、すごく威圧感がある。
 2人ともキレイな人。高校の1年ってこんなに差があるのかな。
 大人っぽい2人に囲まれた柚木先輩は、私といるときよりもずっと大人っぽく綺麗に見える。

「あら……。席が空いてないわね。どうしましょう、柚木サマ。場所を替えましょうか?」
「試験前ってことで、今日も混んでますわね」
「あ、あの。良かったら、この席使ってください。私、もう、行きますから」
「日野さん?」

 パタパタとノートを閉じると、カバンの中に滑り込ませて席を立つ。
 柚木先輩は一瞬だけ鋭く目を細めると、なにか言いたげに口を開く。

「あ、柚木先輩、私、もう行きます。今日はありがとうございました!」

 私は3人に小さく会釈すると、そのまま図書館をあとにした。
*...*...*
「……っ」

 ヴァイオリンケースを持って、屋上への階段を駆け上がる。
 ドアを開けたそこは、ひんやりとした空気で私を迎えてくれる。

 ── そうだよね。
 高ぶる気持ちを落ち着かせるための、大好きな場所。それとヴァイオリン。
 この2つは、コンクールの間も、そして今も、私を励ましてくれたっけ。春の頃と変わることなく。
 あごと肩にヴァイオリンを挟むと、私はペグを思い切りきつく捲いた。

 昔の遊女は、雅楽と舞。この2つを生涯の習得科目として大切にしたという。

 真剣な恋。逃れられない運命。
 考え出したら、それこそ身が2つに裂けそうな人生を、芸事でつなぎ止めてた、って。
 つなぎとめるために、と、始めた芸の道が、いつしか、その人の主軸になっていくこともある、って。
 最初聞いたときにはどうして芸事にそんな力があるのか、不思議だった。
 お酒の席で、人とのお付き合いの関係で、その……、オカネの関係とかでそうせざるを得ないのかなあ、ってぼんやり思ってた。

「なに弾こうかな……」

 でもこういう状態になって、少しだけ分かることもある。

 ── 芸事。ヴァイオリンは、絶対、私から離れていかない。
 ちゃんと応えてくれる。どんなときも、私のそばにいてくれる。

 ヴァイオリンは私の気持ちを心得たように、孤高な音を鳴らし始める。
 数学だとか親衛隊さんだとか。
 どうでもいい感情は指を伝って音になる。全てふるい落とされて、消えていく。
 奏でるたびに響く音は一瞬にして空に吸い込まれて、何もなかったような静寂がやってくる。
 こんな時は、土浦くん好みの切なげな音が、自分に合うかな、と あてもなく思ったりする。

「……ふぅ、っと」

 弾きたい曲を一通りかき鳴らしてヴァイオリンを肩から降ろすと、パンパンと乾いた拍手が聞こえてきた。

「柚木先輩……」
「……やっぱりここにいたのか」
「はい。いっぱい弾いていたら、すっきりしました!」

 うん。なんか、自己完結かも。
 明後日から始まる試験。
 もし明日図書館でまた今日みたいなことがあったら、今度は。
 ── 悲しい感情、ウェルカム! な気分でヴァイオリン、練習しよう。

 柚木先輩は眉を顰めると、かつりと靴の音を立てながら近づいてくる。

「全く。お前を引き留める理由を考えている間に、勝手に出ていくなよ」
「えへへ。親衛隊さんの視線に負けました。迫力、あります」
「意地っ張りだな。泣いてたクセに」

 冷たい風に吹かれて、私の眦に小さな川ができていたのだろう。
 頬にすんなりとした男の人の指が辿っていく。
 自分が思っている以上に身体が冷え込んでいたらしい。暖かな指の感触が気持ち良かった。
 ちり、と、炎の前の氷のように、自分の抑えていた気持ちが溶けていく。

 ── もっと、言えたらいいのに……。

 この人の頑なな性格とか。そのままじゃ、苦しいでしょう? とか。
 親衛隊さんのこと、このまま、どうするんですか? とか。

『彼女たちは、俺自身の評価を高める道具なんだよ。
 彼女たちは俺を学院内の話題の1つにしてるんだろ? 俺も彼女たちを利用して何が悪いの?』

 以前、そう言ってたことを思い出す。その考えは、今も変わりがないんだろう、と思う。

「香穂子?」

 いろいろ思うことはある。けど。
 そんなこんなを全部好きになったんだもの。だから、── これでいいんだもん。このままでいい。
 私は柚木先輩の手をそっと剥がすと、笑って言い返した。

「泣いたのは私の勝手です。先輩は関係ないの」
「へぇ。生意気だね、その言い草」

 一緒になって笑ってくれるかと思ったのに、先輩は真面目な面持ちで再び私の頬に手をあてた。

「お前を泣かしていいのは俺だけだ、ってわかってて そういうこと言うの?」
「はい……?」
「悪いのは俺だけどな。……そんなの、理屈じゃないんだよ」

 先輩の香りが近づいてくる。
 重なった唇が熱い。
 学院内で人知れず求め合うキスは、いつも優しい。
 けど、今日のそれは、だんだん求める前の本気のモノに変わる。

「……ま、って……っ」

 私は溺れる人のように先輩の胸を掴んだ。
 こんなんじゃ、私、抱かれる前に壊れちゃう。立てなくなる。
 でも、心の片隅に浮かんでくる感情はとても素直で。


 ── 余計なことを考える余裕もないくらい、壊して欲しいと願ったりするんだ。


 ようやく唇が離れた時、私は息を切らして尋ねた。

「ど、どうして……?」
「お前が本気で愛しく思えたから、こうしたんだけど」

 柚木先輩は、冗談とも本気ともつかないような表情を浮かべて聞いてくる。


「さて。……今、ここでお前を抱きたい、って言ったら、お前はどうするかな?」
↑Top
→Next