*...*...* Trees 1 *...*...*
 窓の外。

 夏には鬱陶しいほどの蝉の声と、涼しい木陰を作っていた木々は、思いもかけないスマートな姿をさらけ出してる。
 時折吹く風が、ほんの数枚残っている枯葉を、情け容赦なく揺らしていく。
 冬海ちゃんは、細い指に息を吹きかけながら私の顔を見上げた。

「なんだか指が強張ってるような気がします……。香穂先輩は大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう。平気、かな? 一応ね、12月に入ってから、教室を出るときに手袋をするようになったの」
「そうなんですか……。これから私もそうしようかな」

 オケ部の練習に向かう日、私は冬海ちゃんと一緒に音楽室へと向かっていた。
 来月には新年のオケ部恒例の定期演奏会がある。

 オケ部は『音楽が好きな子』っていうのが入部資格。
 だけど、こうして、実際入部してみると、普通科の子は私1人だ。
 去年、みんなとやったアンサンブルがすごく楽しくて、私の中には音楽科に転科しようかな、という気持ちが生まれた。
 でも、

『そっかー。結局決めるのは香穂ちゃんだけどさ。おれは、転科、とかあまりこだわらなくてもいいと思うよ。
 音楽が好き、っていうなら、音楽科だって普通科だって関係ないもんね』

 という火原先輩の助言もあって、それに、今まで馴染んできた普通科の友達と別れるのも寂しいような気がして、私は普通科に在籍したまま、3年の冬を迎えている。

 私もすっかり火原先輩に感化されてるのかもしれない。
 音楽を通して知り合った、冬海ちゃんや志水くん、音楽科に転科しちゃった土浦くんともなんとなく繋がりを持っていたい。
 だったら、オケ部に入って、ずっと楽器に触れていたらどうだろう、って、冬海ちゃんの紹介を得て、オケ部に入部してもう1年になる。
 オケ部のみんなは、音楽が好き、とか、定演で頑張る、とか、目標を共にしてるからか、最初からすごく親しくしてくれていたっけ。
 オケ部で出会えた仲間は、今となっては、乃亜ちゃんや須弥ちゃんみたいな大事な友達だと思えるようになった。

「こんにちはー」
「あ、日野先輩、こんにちは。やった、今日は弦が勢揃いだ」

 チェロの後輩くんがそう言って、隣の席を空けてくれる。

「あ、そうなの? えっと、よろしくお願いします。じゃあ、冬海ちゃん、またあとでね」
「はい。あの、私も頑張ってきます」

 音楽室に入ると、私と冬海ちゃんはパートごとに二手に分かれた。
 管は、結構大きな音が出る楽器もあるってことで、音楽室の最奥が指定席なんだよね。

 管と弦の間、ちょうど中間のスペースで、秋に入ってきた後輩のミホちゃんたち1年生が、楽しそうに話をしている。

「ね、今日は火原先輩が来てくれるんだって!」
「火原先輩って、すっごく可愛いよねー」
「うんうん。わかる〜。けどさ、みんなに指示を出すときは、ビシっとしてて、カッコいいよね。
 トランペット吹く格好も、すごくカッコいいし」
「あー。ダメモトでクリスマス、誘ってみようかなー。どこか行きませんか?って。火原先輩となら、楽しい夜が過ごせそう」

 私は聞こえないフリをしながら、首の下にヴァイオリンを挟んで調弦を始めた。
 けど……。

 なんとなく状況を知っている2、3年の子は、苦笑を交えて私の方に視線を送ってくるのが分かった。
 冬海ちゃんも、ぴくりと肩を揺らして足を止めると、申し訳なさそうに私の顔を振り返ってくる。
 えっと、その……。な、なにも、冬海ちゃんがそんなに落ち込まなくても!

 私は、ふるふると首を横に振る。
 唇だけで告げる、『大丈夫』 それを見ると冬海ちゃんもようやく笑って、自分のパートの場所へ向かう。

 私と火原先輩はオケ部の先輩後輩、ってこともあって、オケ部で活動しているときには、あまり『付き合ってます』っていうのを全面には出さないようにしている。
 けど、私たちが、仲が良いことは周囲も知っていて、火原先輩と私が付き合っているということは、暗黙の了解になっているような雰囲気だった。

 私が私が、って言いふらすよりも、自然にのんびり。
 そういう関係が、すごく気に入っていた、けど……。
 こんな風に、はっきりと火原先輩への決意表明をする子、って、どうしたらいいんだろう……。

「よし! 私、当たって砕けてみる!」
「いいよ、ミホ。やってみなよ。応援する!」
 ミホちゃんは、すくっと立ち上がると、周囲のお友達に宣言した。
 周りの1年生の子たちも、満足げにうんうんと頷いている。……う、私、どうしたら……。

「ちーっす。みんな、揃ってる? 遊びに来たよ!」
「わ!! 火原先輩!」
「ってミホちゃん、なに驚いてるの? さ、始めるよー。来年初めの定演ももうすぐだしね」

 と、そこへ、火原先輩は屈託のない笑顔を浮かべて音楽室へ入ってきた。

 こう、なんていうんだろ。
 元々親しみやすい、っていうか、年下の私から見ても、気楽に話せる先輩だった。
 それが、紅茶のCMに出てから。

 あのすっきりした容姿がいい、って騒ぐ人が増えて。
 加地くんは、『オーラがある』って、壮大なことを言い出してる。

 いろいろな葛藤を経て、自分の意志でコンクールに出よう、と決めて。
 初めて出たコンクールで、火原先輩はさらりと優勝を飾った。
 それ以来、火原先輩に注がれていた視線の大きさは一気に加速した、ような気がする。

 どれだけ自分が魅力的か、って。自分の笑顔がどれだけ後輩を魅了してるかって、全然分かってない人なんだろうな、って思う。
 そこが火原先輩のいいところでもあるけど。
 ── 嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気持ちは抑えきれない。

 火原先輩はぐるりと後輩たちを見回すと、私の顔を見つけてぱっと顔を綻ばせた。

「あ、香穂ちゃん。今日も頑張ろうね」
「はい」

 私も笑い返して返事をする。
 オーボエのAが鳴り始めると、ざわついていた雰囲気はしんと静まり返る。
 やがてみんなの調弦の音が聞こえ始めた。
*...*...*
「よっし。イイ感じ? もう少し、最終楽章揃うといいね。今日はここまでー!」

 威勢の良い火原先輩の声のあと、お疲れさまでした、ってざわめきとともに、ほっとした雰囲気が流れる。
 私も、もう少しヴァイオリンを鳴らしておかないと、今度の定演までに満足いく弾き方ができないかもしれない。
 このところ、ずっと入試のためのピアノの練習ばかりだったもの。

「あれ? 天羽ちゃん……?」

 ふう、っとため息をつきながら、ヴァイオリンを片付けていると、天羽ちゃんが音楽室に入ってくるのが見えた。
 すっきりとした足が、冬の空気の中、寒そうではなくてどこか清々しく見えるのは、天羽ちゃんのきりりとした歩き方のせいかもしれない。
 天羽ちゃんは、私に笑いかけてから、目的の人を見つけ出したのか、大きく手を振った。
 火原先輩がそれに応える。
 あ、あれ? 天羽ちゃん、火原先輩に用事なのかな?

 火原先輩はなだらかな音楽室の階段を1段飛ばしに走っていく。

「あ、天羽ちゃん。ごめんね。今日はわざわざ足を運んでくれて」
「いえいえ。火原先輩の頼みということなら、この天羽菜美、どこだって駆けつけちゃいますよ。
 はい、これ。約束のお品です。どうぞ」

 天羽ちゃんは大きい声でそう言うと、手にしていた紙袋を火原先輩に渡した。
 2人の間には、まるで秘密めいた雰囲気はない。
 けど、さっきまでクリスマスに火原先輩をデートに誘うって、豪語していたミホちゃんはすごく気になるみたいで、片付ける手を止めて、じっと天羽ちゃんを見つめている。

「おれ、すっごく嬉しい。使い方とか教えてね」
「はい。では今日早速、って言いたいところなんですけど、
 なーんか、今日は、記事の神様が降りてきそうな気配なんですよ。
 また、日を改めて、詳しくレクチャーいたします。ということでよろしいでしょうか?」
「うん。それで十分だよ。ありがとう。天羽ちゃん」

 天羽ちゃんは、顔を上げると、私を見つけて長い手をぶんぶんと振っている。

「あ! 香穂。香穂も練習お疲れ! ごめんね、また明日ね」
「あ、うん。また、明日ね!」

 時計はもう6時を過ぎてる。
 早く楽譜台を片付けてないとね、と私は小走りで準備室へ向かう。
 ずっと停電したままの部屋は、薄暗く、雰囲気がこわい。早く、金澤先生、電灯付け替えてくれないかな……。

 だいたいの片づけが済んだころ、トランペットを片付け終わった火原先輩が声を掛けてきた。

「香穂ちゃん。ちょっと来て?」
「はい?」

 そう言うと、火原先輩は紙袋の中に手を入れる。

「へへーん。見て見て香穂ちゃん。出すよ? ……じゃーん!」

 まるで、小動物でも入ってるんじゃないかと思うほどの、優しそうな手つきに、私は首をかしげて様子を見つめていた。

「なんですか? あれ? カメラ? あ、でもこのカメラ……?」
「あ、香穂ちゃん。鋭い! これね、天羽ちゃんから譲ってもらったんだよ?」
「そうだったんですか」

 火原先輩の手は、すごく大事そうにカメラを抱きしめている。
 天羽ちゃんと火原先輩がなんか紙袋を渡してたのはこれだったのか…、なんて納得する。
 袋の中に入っていた取扱説明書をぱらっと見ただけで、大体のことがわかったのか、火原先輩は、カチカチとカメラのボタンをさわり始めた。
 んー。でも火原先輩、このカメラでなにを写すんだろう?

 火原先輩は私の表情を見ると、恥ずかしそうに笑いかけてきた。

「うん。── なんかさ、おれ、ケータイのカメラやシール写真だけじゃ足りなくなって」
「はい?」
「えーっと。いきなりそんなこと言われても困るよね」
「はい……」

 さっきまでたくさんの楽器が作っていた喧噪がウソのように静まりかえっている音楽室。
 下校時間をとっくに過ぎたからか、オケ部のみんなはクモの子を散らしたみたいに早々に帰宅したみたい。
 ミホちゃんも、友達に誘われるまま、ちらっと興味深そうに私の様子を見て一礼すると音楽室を後にした。

「ねね、香穂ちゃん、こっちきて?」

 火原先輩は、トロンボーンやティンパニーが置いてある壁際に私を立たせると、デジカメのレンズの中から私を覗き込んだ。

「ふーん。こんな風に見えるんだね。香穂ちゃんが」
「な、なんだか、恥ずかしいです」

 どういう顔をして立っていればいいのかわからなくて、頬がだんだん熱くなってくるのを感じる。

「んー。あのね。話の続き。
 おれね、毎日会う香穂ちゃんをずっと覚えていたくて。── 焼き付けていたくて」
「火原先輩……」
「なんだか、もっときみの写真が欲しくなって。
 で、この前、天羽ちゃんに相談したら、ちょうどカメラ買い換えるところだから、って言って、これ譲ってもらったんだ」
「そうだったんですか」

 去年の12月。
 火原先輩が屋上で撮ってくれた写真は、今も、私の部屋の一番見晴らしの良い場所に飾ってある。
 それは演奏しているときの写真じゃなくて、弾き終えて、弓を降ろす前。
 火原先輩の拍手に、照れたように笑っている写真だった。

 写真の中の女の子は、自分のどこにこんな優しい表情が隠されているんだろうと思えるほど、可愛らしく撮れていた。
 そのときは何も言ってくれなかったけど、付き合いだしてから、火原先輩が教えてくれたことを思い出す。

『こう、香穂ちゃんてね、演奏してるときは堂々としてるのに、弾き終わったあと、すっごく恥ずかしそうに笑うんだよ。
 それが、可愛くてさ。つい、ね。あの時、学校のいろんな場所撮ってるってウソ言って、香穂ちゃんの写真、撮らせてもらったんだ』

 今になってみれば、私がどうしてそんなに可愛く写っていたのかわかるような気がする。
 ── あれは、私が火原先輩を好きだと意識した瞬間。始まりの予感だったんだ。

 好きな人にキレイだと思ってもらいたい。
 そんな気持ちが、私の表情を、甘く優しげに捉えてたんだって。

「あ、そうだ。これからちょっとだけ時間取れる? お茶でもして帰ろっか」

 火原先輩はそう言うと、私が手にしているカバンを取り上げて笑った。
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