*...*...* Trees 2 *...*...*
 肌が切れそうなほど寒い空気の中、大きな白い息が見たくて、おれはわざと空に息を吹き付けた。

 おれが呼吸をする。隣りの香穂ちゃんも呼吸をする。
 そのたびに浮かぶ白いかたまりは、積もり積もって、明日の雪になるのかも知れない。

 香穂ちゃんは、おれがプレゼントした明るめのマフラーをぐるぐると首に巻き付けて、おれの隣りを歩いている。

「香穂ちゃん……」

 なんて言うんだろ。未だに、おれ、信じられないよ。

 香穂ちゃんみたいな素敵な子がおれの彼女になってくれて。
 しかも、あれ、今、12月だっけ? だったらもうつきあい始めて1年になるわけで。
 恋いこがれてた時間が長かったからかもしれない。

 それに── 。おれ、知ってるんだ。
 冬のアンサンブルメンバーの中で、みんなが香穂ちゃんのこと、狙っていたこと。

 そんな中で、香穂ちゃん、おれを選んでくれたんだよね。
 だったら、おれも、精一杯、香穂ちゃんのこと、大事にしなきゃって、そう思うよ。
 好きって気持ちが大きすぎて、付き合いだして1年が経とうとしている今でも、香穂ちゃんの前ではむやみに はしゃいでしまうおれがいる。

 おれはたたっと、2、3歩、香穂ちゃんの前を走り抜けると、突然カメラを構えた。

「あ、そうだ。香穂ちゃん、笑って? ほら」
「は、はい? どうしたんですか? いきなり」
「えいっと。激写、その1、かな? あとでまた撮ろうね」
「わ、いきなりはズルいです。髪の毛もぐちゃぐちゃだし、その、北風にあたって、頬、真っ赤です、きっと!」
「ううん。そんなことない。可愛いよ?」

 俺は、デジカメの表示画面を香穂ちゃんに見せる。
 さっきの瞬間。一瞬だけを切り取ったフレームの中の香穂ちゃんは、驚いたように、大きな目を見張っている。

 あ、あれ……? なんだろ、この感じ。
 ふいに、同じような光景がよみがえってくる。

 あれ、おれ、去年、香穂ちゃんに同じこと、してなかった?
 冬の屋上。香穂ちゃんは、懸命にヴァイオリンを鳴らしてる。
 流れてくる曲は『諸人こぞりて』 ああ、だから、これはクリスマスコンサートの前の出来事だったんだ。

 ── あの時のおれは、ずっと香穂ちゃんを見ていたくて。そばにいて欲しくて。

 香穂ちゃんの写真を撮ることで、そばにいてくれたという事実を再確認したくて。
 香穂ちゃんには内緒だけど、屋上で撮った香穂ちゃんの写真は、今もおれの部屋の机の上に飾ってある。
 飾ったときは、兄貴が嬉しそうに冷やかしてきたけど。
 今はもう、おれ、堂々としてる。
 なんていってもおれの自慢の彼女だもんね。
 好きな子の写真を飾るのって、当たり前だよな。

 香穂ちゃんは、突然写真を撮られたのが恥ずかしかったのか、朱い顔をしたまま、俺に手を伸ばしてくる。

「じゃあ、今度は私に貸してください。私も火原先輩を激写します」
「え? なに言ってるの香穂ちゃん。男の写真、撮ったってしょうがないでしょ?」
「ダメです。……えっと、このボタンを押せばいいのかな?」
「えーっと、この黒いボタンだよ。っと、なんだか恥ずかしいよ、おれ」

 ポーズを取るっていっても、どうやって取ったらいいのかも分からなくて、おれは、道路の端っこに立つとまっすぐに香穂ちゃんを見つめた。
 香穂ちゃんの視線を独り占めしてるおれ。
 ── どきどき、する。
 ねえ、ファインダー越しに見るおれって、香穂ちゃんからはどう映ってるんだろう。

「はい、っと……。えへへ。格好いい火原先輩が撮れましたよ〜」

 香穂ちゃんはそう言うと、たった今撮った写真を見せてくれる。
 わ、なんか、すっごく幼い。
 ってか、おれ、香穂ちゃんと並んだら、香穂ちゃんの方がオトナっぽく、可愛くみえるような、いや、見える、じゃなくて、オトナっぽいよ!

「なんかおれ、ガキだなー。高校の時と全然変わってないよ」

 肩を落としていうおれに、香穂ちゃんは、笑って首を振る。

「オケ部にいるときの火原先輩、すっごくオトナっぽいです。ちゃんとみんなに的確に指示、出してくれるでしょう?
 トランペットもすごく上手だし。火原先輩に憧れてる、っていう後輩も多いんですよ?」
「香穂ちゃん……」
「そういうお話が出るたびに、冬海ちゃん、おろおろして私の顔、見るんです。私も……」
「私も? 私も……、なに?」
「── ちょっと、複雑です!」

 おどけたように口を尖らせて香穂ちゃんは言う。
 香穂ちゃんの頬の朱さが、寒空の下、周りの空気も、俺の体温も上げていくような気がする。
 それって、さ……。
 香穂ちゃん、おれにヤキモチ焼いてくれてるって、思ってもいいのかな?

「だから、あの……。さっき私が撮った写真、現像してもいいですか? 私も、持っていたいです。火原先輩の写真」
「うん! もちろんだよ。あ、でもさ」
「はい?」

 確かに、好きな人の写真って嬉しいし楽しい。
 でも思ったんだよね。
 去年、屋上で撮った香穂ちゃんの写真。それはすごく大事な1枚だし、撮るよー、ってポーズつけてもらったから、それなりにいい出来なのもわかる。
 だけど、おれの中で香穂ちゃんの一番の写真っていうと、まだ付き合うなんて言葉もほど遠い頃に撮ったシール写真の香穂ちゃんだったりするんだ。

 驚いたように、カメラを指差してる香穂ちゃん。
 その隣りに半分だけ切れた、おれの顔。
 やっぱりさ、2人で撮るって大事だよね。そのとき、その時間、おれたちは確実に2人でこの世に存在してたってことだから。

「ねえ、どうせなら、2人で一緒に撮ろう? ほら香穂ちゃん、こっちおいで?」
「え? え?」

 おれは、逆光にならない位置に立つと、香穂ちゃんの肩を引き寄せる。
 そして、思い切り腕を伸ばして、おれと香穂ちゃんの一瞬を切り取った。
*...*...*
「火原、久しぶりだね。元気でやってる?」
「ああ、柚木も! って、柚木変わってないなー。相変わらずモテそう」
「そんなことないよ」

 おれは1ヶ月ぶりに会う親友を見上げて言った。
 新年早々に上演するオケ部の定演のチケットを渡す、というのが表向きの理由だったけど。
 おれは単純に、柚木に会いたいな、と思って、柚木の大学の近くのファミレスで、柚木の授業が終わるのを待っていた、りした。

 おれ1人で、フリードリンクを飲んでたときには感じなかったのに。
 なに? 柚木が来たとたん、周囲の女の子たちの視線がさーーっとおれたちのテーブルに集まってきたのがわかった。
 視線を集めながら生きてきた人間って、そういうあしらいも慣れてるのかな。
 しかも、おれだったら、めちゃくちゃ窮屈に感じるだろう空気も、なんの重圧にもならないんだろう。
 柚木は伏し目がちにメニューを一瞥すると、興味がなさそうに、開いたページをすぐ閉じた。
 そしておれと同じドリンクバーを、お姉さんに注文した。
 お姉さんはさっきとはうってかわったような態度で、うっとりと柚木のオーダーを聞いている。

 ってか、目立つんだよなー。柚木って。
 小さな顔。その中にはスッキリとした目鼻が配置良く整ってる。
 長い髪と相まって、そこらへんの女の子よりもキレイな感じがする。
 って、おれにとって香穂ちゃんだけは別格だけど。
 なにより、醸し出す雰囲気が、おれの周りのムサい友達とは違って、存在自体から、高級感が漂ってくる感じ。

 おれはナップサックから、封筒を取り出した。

「先に忘れないように、オケ部の定演チケット渡しておくね。柚木が来るかもって言ったら、後輩たち、張り切ってたよ」
「ふふ。そう? じゃあ、なんとか僕も都合をつけるよ。火原はどう? 最近」
「あ、うん、えっとね、そういえば……」

 最近会っていない高校時代のクラスメイトの話で盛り上がる。
 星奏の音楽科って3年間クラスが替わらないこともあって、口の端に級友の名字が上るたび、あっという間に会わなかった時間が縮まる。
 一通り話が終わった後、柚木は不思議そうにおれの手元に置いてあったデジカメを見た。

「おや? 火原がカメラ? 今まで持っていなかったよね?」
「あ、これ? うん! なんかさー。いろんなシーンを撮っておきたいな、って思うようになって、天羽ちゃんから譲ってもらったんだ。
 最近、キレイでしょ? クリスマスのイルミネーションとか。だからいろいろ撮ってるんだー。見る?」
「見せてもらってもいいのかな?」
「もちろん!」

 おれは、ようやく使い慣れたといえるかもしれない、元天羽ちゃんのデジカメを弄る。
 そして、かちかちと、今日撮ったところからの画像を表示させると、柚木に差し出した。

「なんかさー。面白いよね。
 あとで撮った写真を見直すと、そのとき、どんな音楽が流れたか、とか思い出すことができるんだ。
 音楽がなくてもね、そのときのざわざわ感や、雰囲気っていうの? 空気みたいなの感じるんだ」
「そう。……この写真なんてなかなかアングルがいいね」
「そう? 柚木にそう言われると嬉しいな。なんか、お墨付きもらったみたいでさ」

 しなやかな柚木の指は順にカーソルキーを押して、次の写真へと向かう。
 おれはコーヒーを飲み干すと、もう一度ドリンクバーに行って、今度は炭酸を入れる。
 冬でも、人が多いせいか店内は暑い。
 おれには熱いコーヒーより、まだコーラとか炭酸が似合う年頃なのかも知れない。

「ありがとう。全部見せてもらったよ」

 席に戻ると、柚木がそう言っておれにカメラを差し出す。
 そして、世間話の続きのような温度のない口調で切り出した。

「……香穂子も元気そうだな」

 柚木はそこで一旦口を閉ざすと、テーブルの上にあった紅茶のカップを引き寄せた。

「って、どうして、柚木」
「お前な。他人に見せたくない写真っていうのはあらかじめロックするか、さっさとPCに退避して消去しておくものだぜ?
 おかげで、俺はお前たちの写真も一緒に見るはめになったじゃないか」
「え?」

 ── って、えーっと……。
 おれは頭を回転させる。
 えっと、あ、そうか。撮り終えた一番最後の写真、その次をクリックすると、一番最初の写真に戻るんだっけ?
 って、そんなの、ちょっと考えれば分かるのに、おれって……っ。

 おれの口は別の生き物みたいに、ぱくぱくと動いたけど、それは人から見たらただ呼吸しているように見えただけかもしれない。
 柚木は苦笑を交えて、紅茶を啜っている。

「っていうのは冗談だけど。日野さんは元気そうだね。良かったよ」

 店内は、外の暗さを押しのけるかのように、あちこちに小さなクリスマスツリーが飾られている。
 柚木の横にある丸いきらきらしたイルミネーションは、柚木の深い目の色を拡大して映している。

「柚木……」
「……香穂子を他の男に取られること、俺は想像するだけで不快だったけど。どうしてだろうな。火原、お前なら許せる気がする」

 卒業してから初めて聞く、柚木の言葉。
 おれの顔色を見て、柚木はおれに安心させるかのように、にっこりと笑いかけてくる。
 ってか、今の自分の気持ち、ってどんな形をしていて、そしてどんな色をしてるんだろう。
 今、それを具体的に目に見える形で表現できるなら、おれは胸の中に手を突っ込んで、手の上に取り出してみるのに。

「言っただろ? 俺たちは、50年後も友達だって。
 女1人のことで、あの約束を反故にするわけにはいかないよ。それに……」

 なんだろ。なんてことない、ファミレスのティーカップ。
 なのに、柚木が手にすると、さも上等そうなものに見えてくるのが不思議だった。

「まあ、いい。可愛がってあげたら? ── 俺の分も、さ」
「う、うん……っ」

 うわ。って、可愛がるって、それって……。

 感情って、自分の制御しているとおりに動かないことって多い。
 理性は必死に、そのことを思い出さないようにしてるのに、感情は素直に、おれと香穂ちゃんとの行為をすごく高画像で目の前に映し出す。

 おれの腕の中で笑ってる香穂ちゃん。
 キスしたときの、赤い頬。
 泣き出しそうな顔をして、快感を捕まえようとしている香穂ちゃんが浮かんでくる。

「柚木……」

 柚木の瞳を見ているうちに、おれは香穂ちゃんと2人きりでしている行為を見透かされたような気がした。

 柚木は微苦笑を浮かべて、おれから視線を外す。

「なんだい? 火原にはちょっと難しかったかな」
「う、ううん! 全然難しくない! だけど……」
「だけど?」
「だから、あの、余計に困る、っていうか、その……っ」


 手持ちぶさたにいじくっているデジカメが、おれと香穂ちゃんが写っている画像で終わっている。
 黙りこくったおれに微笑んだきり、それ以上柚木は何も言わなかった。
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