*...*...* Trees 3 *...*...*
『ね、この日は絶対空けておいてね。約束だよ!』今日は半年も前から、火原先輩に誘われていたクリスマスコンサートの日だった。
何でも、火原先輩のお母さんのコネでようやく取ることができた、弦楽四重奏団の来日チケット。
火原先輩の好きな管の人が出演するということと、
『この団にはね、香穂ちゃんの音に似てる人がいるんだ。ヴィオラの人だけど』
って言われたのもあって、この半年間、ずっと楽しみにしていた日。
それよりなにより、火原先輩と一緒に、2回目のクリスマスを過ごせることが嬉しくて、私はこの日に備えて、明るめの色のドレスとそれに合うハイヒールを買った。
火原先輩はなにも私に言ったことはないけど、大学生である彼の周りにいる女の子、ってきっと女の子っていうよりオンナの人だ、と思う。
少しだけ、お化粧もする。
この1年、ヴァイオリンを奏でたら奏でただけ、火原先輩に近づけた気がした。
だから、少しでもオトナに近づけたら、また、火原先輩に近づけるかもしれない。
そう思って塗ったグロスは、鏡の中、知らない女の人のようにツンと澄ましてるように見える。
「うわ、香穂ちゃんいつもと違うね! 可愛いよ、すごく」
「こんばんは、火原先輩」
待ち合わせ場所の駅前で、火原先輩は笑顔満面にそう言ってくれる。
一応、の、合格点はもらえた、ってことかな。
けど、なんだろ、えっと、『可愛い』だけじゃなくて、もうちょっと、えっと……。
ワガママだけど、その……。オトナっぽい、って、言ってくれないかなあ……。
「可愛い、ですか……?」
そう言うと、火原先輩は、うんうんと深く首を振っている。
えっと、可愛い、って言葉は、すごく嬉しいんだけど。けど、でも……。
「ん? 香穂ちゃん、どうかした?」
無邪気に笑う火原先輩の前、私もつられるようにして微笑んだ。
── いいや。『可愛い』って言ってもらえただけでも、嬉しいもん。
「さ、行こうか。へへ。おれ、すっごく楽しみにしてたからさー」
「私もです。えっと、ヴィオラの演奏者さん、でしたっけ? 演奏、すごく楽しみなんです」
「ううん? コンサートも楽しみだけどさ、こうして、香穂ちゃんと一緒にまたクリスマスを過ごせるのが」
「はい……。懐かしいですね。去年のクリスマスコンサート」
「うん! 去年、楽しかったよね」
火原先輩は、兄貴から借りてきたんだ、っていうぴしっとしたスーツを着て、つま先が光った革靴を履いてる。
日頃ラフな格好が多い火原先輩がそういう格好をすると、いつも以上にカッコよく見えて、私は冷たい風が吹きすさぶ駅前で、一人、火照った顔を持てあましていた。
「そうそう。おれね、この前柚木に会ったんだ」
火原先輩はさりげなく口を開いた。
「あ、そうなんですか? 柚木先輩、お元気ですか?」
「うん。まあね。……元気だった、と言えるかな、うん」
火原先輩は煮え切らない口調でそうつぶやくと、にぎやかなクリスマスのイルミネーションにも、周囲の幸せそうな喧噪からも目を逸らして、ぽつりぽつりと話し始める。
「柚木ってさ、口では何も言わないクセにさ、裏ですっげーいろいろ頑張ってるヤツなんだよ。
おれ、柚木のそんなとこ、大好きでさ。だから、おれ、柚木が学校で笑っててくれるとほっとしたんだ。
そうだな。家で大変な分、笑ってくれるといいな、って思ってた」
「火原先輩……」
「柚木は今までも、多分これからも、おれの1番大事な親友だと思う。
だけど、えーっと、その、なんて言うんだろ。
……そんな柚木にだって、譲れないものがある、って気付いたのが、去年の、このクリスマスの時期だった」
火原先輩の手の中の指が、痛いほど強く握られる。
無意識のうちに逃れようとして、軽く引っ張る。
でも握られた指は、カチカチに凍ってるみたいに少しも動く気配がなかった。
「おれね、本当にきみのこと好きだって思ったからつきあい始めたんだよ。香穂ちゃんだけは譲れないんだ。ほかの誰にも」
こんな真剣な様子の火原先輩を見たことがなくて、私は、目を見開いて火原先輩の左肩を見つめていた。
── 似たような、気持ち。私も感じたことがある。いつだろう。……確か。
堅くなった私の指に何かを感じたのだろう、火原先輩は、なだめるようにそっと握り直すと、私の顔を覗き込んだ。
「ごめんね。なんか重いよね、こういうの」
「ううん。あ、あの。私も分かります。だって……」
「香穂ちゃん?」
「私も、一緒です」
今年最後のオケ部の練習で。
火原先輩と一緒にクリスマスを過ごすんだ、ってみんなに宣言していたミホちゃんは、誰からともなく、私と火原先輩のことを聞いたのだろう。
すごく沈んだ様子で、1人黙々とトランペットのバルブを掃除していた。
その雰囲気は、いつも底抜けに明るいミホちゃんとは全く別人のようで。
状況を知っている子たちも、声をかけるのも躊躇うくらい、暗く沈んでいた。
『香穂先輩。あ、あの。あまり気になさることはないと思います。私もあの、あとからミホちゃんに話しておきます』
冬海ちゃんに後輩ができてもう、9ヶ月。
以前よりもずっと頼もしくなった冬海ちゃんがそう言って私を元気づけてくれたけど、私自身、ミホちゃんの気持ちが分かりすぎるほど分かるだけに、上手く口を利くことができなかった。
── 1年前の私、と、同じだったから。
ずっと、火原先輩だけを見てきた。
底抜けに明るい火原先輩が好きだった。
月森くんに咎められても、音が合わない、と土浦くんに何度も注意されても。
持ち前の明るい笑顔で、アンサンブルメンバーの声をまとめて取りなしてくれた。
『大丈夫だよ。香穂ちゃん。コンサート、絶対上手く行くよ。
気持ちは音に伝わるし、音は聴く人の心に絶対届くから』
ずっと火原先輩がそばにいて。励まし続けてくれたから、音楽は今も私の隣りにある。
そして、火原先輩がいてくれたから、私は、オケ部に入って、今、こうしてここにいるんだもの。
── だけど。
ミホちゃんの気持ちをそこまでわかっていながら、でもだからといって、私がミホちゃんにしてあげられることはなにも無かった。
誰がなんて言っても、私は火原先輩のそばにいたい、って。── そう、思えた。
「……火原先輩と同じ、です。私も、他の誰にも火原先輩を渡したくないの」
火原先輩は弾けるような笑顔を見せて、私の手を握り返してくれる。
「ありがと。香穂ちゃん。また、今夜、ゆっくり話そう? そろそろ行こっか? もう始まるよ?」
「はい」
と、一歩踏み出したそのとき。
「……った……っ!」
な、なに……?
私は、突然理不尽な痛みを足首に感じて、火原先輩の腕にしがみついた。
いつもローファーで走り回るような足取りで、1歩前に足を伸ばした。
すると、ハイヒールの踵が、道に敷き詰めてあるレンガの間に入り込んだらしい。
無理矢理の力で歩みを進めた私の足は、ぐにゃりと今まで見たことがない形に外側に折れ曲がった。
「ごごめんなさい、あの……。足、くじいちゃったみたい……っ」
余計な心配をさせたくなくて、私は、へらりと笑って一歩足を前に出す。
でも足首は石膏で固められたみたいに堅く、他人の脚のように動かない。
「わ、っ……と。香穂ちゃん、大丈夫? 立てる? ああ、いいや、ここ、座って?」
火原先輩はすぐ近くにあるベンチを指差すと、私に肩を貸してくれた。
「うわ、すっごく腫れてきたよ。待ってて。ね、コンビニに湿布とか包帯って売ってるかな? おれ、ちょっと行ってくる!」
「ごめんなさい。ゆっくり歩けば大丈夫かも。コンサート、間に合わなくなりそうだから、行きましょうか?」
折れてる、ってことはないだろうから、と私は、笑顔を作って火原先輩を見上げた。
でも、火原先輩はまっすぐに私の足首を見て、かぶりを振る。
「や、おれさ、バスケで足、怪我するヤツ、よく見てたから。急いで冷やした方がいいと思う。
おれ、香穂ちゃんの痛そうなの、見ていられないし。いい? 動いちゃダメだよ? 待ってて」
火原先輩はきっぱりそう言うと、自分が着けていたマフラーをぐるぐると私の首に巻き付ける。
そして、一旦足を踏み出してから再び振り返ると、上着を脱いで私の膝に掛けた。
「すぐだから。すぐ戻ってくるから待っててね」
クリスマスのイルミネーションの中、白い背中が勢いよく走り出していった。
*...*...*
「もう、なにやってるんだろ、私……」腕時計を見る。分針はあと少しで、コンサートの始まる時間を示そうとしている。
私の右足のくるぶしは、それこそ出っ張ってるところがブリオッシュみたいにむくむくと膨らんできた。
なんだろ、血がくるくると回るたびに、くじいた足首一点に向かって熱と膨らみとを運んでるみたい。
── すごく痛い。
キレイだね、って褒めてもらいたくて、精一杯着飾ってきたドレスも、こんな風に火原先輩に迷惑をかけるくらいだったら、背伸びなんてしちゃダメだと思う。
歩いているときは、それほど感じなかった寒さも、じっと座っていると、海を渡ってきた風が体温をどんどん奪っていくのか、すごく冷え込んできた気がする。
慌てて捲いた火原先輩のマフラーから、火原先輩の匂いを感じられることが嬉しくて、私は深く息を吸い込んだ。
早く、先輩、戻ってきてくれないかな……。
駅近の通りは、クリスマスと言うことも手伝ってすごい人混みだった。
手にしてる荷物が多いのは、みんな、大事な人へのプレゼントを買い込んだからかな。
私は、火原先輩に内緒で買ったプレゼントが入ったカバンを撫でる。
人を嬉しいことで驚かすのって、大好き。それが好きな人なら、なおさら。
(なんて言ってくれるかな……?)
私は足の痛いのも忘れて、プレゼントを渡したときの火原先輩の反応を想像して笑っていた。
火原先輩と過ごす、2回目のクリスマス。
── どうか、また、火原先輩との楽しい思い出が増えますように。
「あ、あれ……?」
ふと見ると、目の前に、2人連れの男の人が立っている。
私は、自分の周りを見回す。
あ、もしかして、このベンチに座りたいのかな?
「あ、ごめんなさい。ここ、どうぞ」
そう告げて、ベンチの端っこにそっと座り直すと、私はもう1度周囲の様子を見回した。
もうそろそろ、火原先輩帰ってきてくれるかな?
膝にかかっていた火原先輩の上着を畳むと、きょろきょろと辺りを捜す。
大丈夫かな? 勢いよく走っていって、まさか火原先輩までケガをした、とか、そういうのはイヤだな……。
「な、なに……?」
右側から急に圧力を感じて振り向くと、男の人が私の袖をひっぱっている。
どういう状況なのか頭が理解できないうちに、左側からも引っ張られる。
あれ? どうして、両脇にさっきの男の人たちが座ってるの……?
男の人は口の端を歪ませながら私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、彼女。正装して1人なの? まさかね」
「せっかくのクリスマスの夜だし? 俺たちが可愛がってあげよっか?」
「やめてください。私、人を待ってるんです!」
身体に触れられるのが怖くて、私は強引に腕を抜き取ると、火原先輩の上着を握りしめた。
も、もう……。足のケガがなければ、走って逃げていくのに!!
おずおずと足首に力を入れる。── ダメだ。まだ、痛い。これじゃ走れない。
男の人の手が、膝の上に乗っかってくる。
……怖い。
「なに? 彼女。イヤなら立ち上がって俺たちから離れればいいのに、そうしないじゃん?」
「イヤよイヤよもイイのうち、ってこと? ま、こっちもホイホイついてくる女より、多少ジラされた方が萌えるよな」
男の人の口から生まれてくるタバコの匂いに、身体がビクっと拒絶しているのがわかる。
……イヤ。違う。
これはいつもの火原先輩の香りじゃない……っ。
逃げられないなら、せめて触れられないように、と、身体を小さく硬くする。
お願い。火原先輩。早く帰ってきて……。
そのとき。
人混みを掻き分ける、必死な声が耳に届いた。
「ダメだよ! この子はダメ。この子はおれの大事な子だから、君たちには渡せない!」