*...*...* Trees 4 *...*...*
「ダメだよ! この子はダメ。この子はおれの大事な子だから、君たちには渡せない!
 だから、ごめんね。君たちには君たちに合う女の子、捜してくれる?」

 香穂ちゃんは、おれの声に弾かれたように立ち上がると、片足を引いて、おれの背中に隠れた。

 って、なんだろ。今来たばっかりだからよくわかんないけど。
 これって、もしかして、── ナンパ?
 って、ちらりと見えた香穂ちゃんは、半ベソかいてた気がするし。なに? どういうこと??

 下手に出るおれが、香穂ちゃんをナンパしていた男たちには新鮮だったらしい。
 2人の男は、面食らったように顔を見合わせた後、苦笑いを浮かべている。

「つーかさー。お兄ちゃん、こんな可愛い子、ほっといたらダメだよ」
「そうそう。俺たちじゃなくても、すぐほかのヤツらに食われちゃうって」

 余程怖かったんだろう。
『食われちゃう』って言葉を聞いた途端、おれの背中の影、香穂ちゃんは、身体を硬くして、身構えてるのが分かった。
 シャツを必死で掴む力さえも愛しくて、おれは、背中で香穂ちゃんを隠すと、目の前の男たちに言い返した。

「それはそうなんだけど、おれたちにもそれなりに事情があったの! ほら、もう行って?」

 おれの必死な形相が面白かったのかな。
 というか、男たちの顔には、『ガキくさくてやってらんねー』って表情が見え隠れしてる、気がする。
 男2人は、つまらなさそうにベンチから立ち上がると、へらりと呆れたような笑顔を見せて、クリスマスの街へ消えていった。

「へいへい。まあ、お兄ちゃん、その子と楽しくやりなよ」
「言われなくてもそうするよ! ……って、香穂ちゃん、大丈夫!?」

 おれは背中にいた香穂ちゃんを正面から抱きかかえると、髪から頬、頬から肩へと、香穂ちゃんを形作ってる細い線を確かめた。

「香穂ちゃん、あの、その……っ。言いにくいんだけど、どこか、その、触られたりしなかった?」

 香穂ちゃんは下を向いて、頑なに首を振る。
 って、そうじゃなくて。おれが言いたいのはそんなことじゃなくて。

 柔らかい素材のコートに触れる。
 それはさっきの熱気もどこかへ飛んじゃったような冷たい手触りで。
 ひんやりした感触は香穂ちゃんの気持ちそのもののような気がして、おれは香穂ちゃんの身体を抱きしめた。

 いつも、思ってたよ。
 きれいな音に出会うたび、きれいな景色を見るたび。
 ううん、おれが心地良いって思うすべてのものは、なんだって香穂ちゃんに繋がっていくんだ、って。

 オレンジ色の夕焼けが泣きたいくらいきれいだった日。
 おれ、思わず、まだ香穂ちゃん練習中だっていうのに、星奏まで走っていったよね。
 屋上で演奏してたきみは、おれが汗びっしょりなのに気付くと、笑ってハンカチ渡してくれたでしょ?
 母さんが気を遣って、ぴっちりとアイロンかけてくれたのに、そういえば、あのハンカチ、まだ返してないね。

 ダメなんだよ。本当に。
 おれの中に香穂ちゃんが住みついちゃってる。
 きれいなモノを見れば、香穂ちゃんに見せたいって思うし、そうじゃない汚いモノなんかは、香穂ちゃんに見せなくて良かったって思っちゃう。

 だから……。
 さっきの男たちの記憶が香穂ちゃんにとって辛いモノなら、今からおれが消してあげる。

 おれは香穂ちゃんを再びベンチに座らせると、ひざまずいてハイヒールをそっと脱がした。
 華奢な黒いハイヒールは、男の靴とは全く違う。
 こんな小さいの、履けるんだ、女の子って。
 おれは、ガラスの靴を拾った王子っていうのは、今のおれみたいな感動を味わったんじゃないか、と思えて仕方がなかった。
 って、おれのウチ、一応母さんが女って言えば女だけど、父さんと母さんと兄貴とおれ、っていう女っ気がない殺風景なウチで。
 女の子の靴ってこんなに華奢で、可愛いんだ。
 おれは、タイツの上から買ってきた湿布を当てた。

「腫れてる。……まだ、痛い?」
「いいえ、あの、もう大丈夫です。まだ、ヒールを履いて大人ぶるのは先だったのかも、ですね」
「う、ううん? 香穂ちゃんの足、すごくきれいだよ。見とれちゃった」
「はい?」
「あ、いや。その、なんていうか……。足首がきゅってしてて、膝の下、すーっと長くて。うん、可愛いよ、すごく」
「火原先輩……」
「女の子の膝ってつるつるしてるんだね。触っても可愛い」
「な……っ。も、もう、お願いです。恥ずかしいから、それ以上言わないで……」
「そう? もう、立てる? ゆっくり歩こう? 手、引いてってあげる」
「はい」

 しばらく足を冷やしたあと、おれは、香穂ちゃんの手を握るとゆっくりと歩き始めた。

 歩きながら、すぐ横にいる彼女を見つめる。
 いつもより少しだけ高くなった背。近い位置にある顔。
 べそをかいた朱い頬と、大人っぽい潤んだ瞳がやけにミスマッチだけど、そこが可愛い。
 ううん、香穂ちゃんの全部が可愛くて仕方ない。
 うーん。今になってわかるなあ。
 女の子のこと、英語でhoney とか sweetって呼ぶの。
 きっとどの男も同じなんだよ。
 男にとって大好きな女の子って頭のてっぺんから足の小指のツメまで、ぱりぱりと食べちゃいたいくらい、愛しい存在だからだ。

 そっかー。
 大人になるって責任を負うことの面倒くささばかりがあるのかなって思ったけど、知らないことがわかる、っていいかも。うん、いいとこ、あるじゃん。
 好きな子のことをどんどん好きになれる自分。
 好きな子に頼られてる自分。
 そんな香穂ちゃんを基準とした尺度が、おれの大人度の目盛り。
 気を抜いたら、潤んだ目から熱いモノが飛び出しそう。

 ── 全部ごちゃまぜの気持ちがおれを襲う。泣きたいほどの幸せの波。

 絶対に、誰にも譲れない子。柚木にだって譲れない。
 香穂ちゃんは、おれだけの女の子だから。

「香穂ちゃん」
「はい。なんですか?」
「キス、しよっか?」

 言葉にならない声を上げて香穂ちゃんは立ち止まる。
 コンサートホールのクリスマスツリーは、小さな明かりを残しただけの優しい雰囲気を漂わせている。

「付き合い出して1年のお祝い。それと、これからまたよろしくね、のお願い」
「に、2回もですか?」
「おれ、2回じゃ足りないくらいだよ。── ね?」
「ここで、ですか? 人、いっぱいですよ?」
「ちょっと暗いところに行けばわからないよ」
「先輩!」
「うーん。……やっぱ、ダメ?」

 この前兄貴の部屋で見つけた、恋愛のマニュアル本。
『少し強引なら女の子は嬉しい。すごく強引なら女の子はだんだん不満を内側に溜めていく』
 って記事がばばっと目の前に出てくる。

『それが別れの引き金になるのです』
 って。

 マジ? 別れ、って別れって、香穂ちゃんと別れるの? って、ちょっと、ううん、すごくイヤだ。
 けど。今、キスできないのも、イヤだ。

 ── どっちも、イヤだ。

 おれが、もんもんとしたまま光るツリーのてっぺんを見つめていると、小さなため息が聞こえてくる。
 と思ったら、ツン、と上着の端っこをひっぱる力を感じた。

「な、なに? 香穂ちゃん」
「先輩、大好き」

 ふわりとした花のような香りに包まれる、と思ったら、柔らかいものがおれの頬を掠っていく。

「香穂ちゃん……」
「い、今はこれだけ! 続きはまた今度、です」

 薄暗い中でも分かる。香穂ちゃんのゆでたこみたいな赤い頬が。
 今、自分に起こったコトも。
 触れあった一部が今確実に熱を増してるのを感じる。

 うわ……。

 フライングって、なんかずるい。突然すぎるよ。
 香穂ちゃんってときどきすごく可愛いことをやってくれちゃったり、する。

 おれは調子に乗って、香穂ちゃんの顔を覗き込んだ。

「ねえ、今度っていつ? 今夜? これから? すぐ??」
「な、なに言ってるんですか……?」

 照れたような、怒ったような、いろんな表情を見せてくれる香穂ちゃんが愛しくてたまらない。

 カメラを持ってこなかった自分を一瞬だけ悔やんだけど。
 その気持ちは、あっけないほど簡単に消えてなくなっていく。

 今、こうして、きみがおれの隣りにいてくれたこと。
 笑ってくれたこと。キスしてくれたこと、全部、全部。


 ── すべて、おれの中に焼き付けておけばいいんだよね。


「香穂ちゃん」
「はい?」
「おれ、きみのこと、大事にする。いつもきみが笑っていられるように」

 少しだけ足を引きずる香穂ちゃんに、足並みを合わせる。
 ゆっくりと流れていく景色は、いつものおれが気付かなかったような輝きを映す。

「脚のこと、本当にごめんなさい。あ、今からコンサート行けば、第二部には間に合うかも、ですよ?」

 香穂ちゃんはおれの時計を覗き込んで、嬉しそうに提案してくる。
 おれは口では肯定の言葉を返しながら、頭の中では、このまま、今から香穂ちゃんを抱きたい、って言ったら、香穂ちゃんはどういう顔をするだろうと想像していた。

『ダメです。コンサート、聴きにいきましょう?』

 って言うかな?
 それとも、潤んだ瞳でオッケイの返事、くれるかな? どっちだろ。

「火原先輩?」

 ── 好きだよ。きみが、本当に。
 どうしてきみへの気持ちは、こんなに溢れて、止まらないんだろう、って自分でも不思議なくらい。

 昨日より今日。去年より、今年。
 そして、おれはきっと。
 ── 今より、未来の香穂ちゃんが好きになる。


 すぐ隣りに香穂ちゃんの温もりを感じる。
 おれと香穂ちゃんとの間に、新しい冬の記憶が重なった今日は、次の冬への始まりだ。
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