*...*...* Trees 1 *...*...*
「葵。……葵さん? 勉強中、悪いけどちょっと来てくれない?」

 階下から、遠慮がちな母の声がする。

 僕は机の上に置いてある腕時計を見る。── もうすぐ日付が変わろうとする時刻。
 細めに開けておいた窓からは、銀色の粉が降り出している。
 同じ時計をつけた香穂さんは、もうすぐ眠るところかな?
 さっき、譜読みのきりがついたら寝るね、とメールがあったっけ。
 彼女が打った文面だ、と思うだけで、何度も読み返したくなるって不思議だ。
 でもまた、もう一度読み返してみようか。

「葵さん? 寝てるの?」
「あー。ごめんね、母さん。今から行くよ」

 多分……。と僕は見当をつける。
 この時間は、会議という名の宴会が終わった父さんが上機嫌で帰ってくる時間だからね。

 ワインにめっぽう目がない父さんが、母さん相手に2回目の宴会を始めるタイミング、で。
 それで、時折どういう巡り合わせか、その場に僕が呼ばれたりすることがある。
 母さんは、

『ねえ、あなた。葵はこれでも受験生なんですよ? その前に、未成年なんですよ?』

 なんて父さんを取りなすが、当の本人がまるで聞く耳を持ってないんだよね。
 息子と飲むのは私の昔からの夢だったんだから、君も見逃してくれよ、とか言って。

 僕はダイニングに続くドアを開ける。
 部屋の空気が生暖かいと眠くなる、ってこともあって、僕は冬でも自室の窓は細めに開けておく。
 母さんは冷蔵庫みたい、って僕を冷やかすけど。
 読みかけの小説の途中で眠りこけてしまうなんて、それこそ人生のムダというもの。
 でも、ここダイニングは母さんの領域で、自室とは違う。生温かい空気と湯気が部屋中に広がっている。

「父さん。お帰り。遅かったじゃない?」
「おう、葵か。いや、今日は、葵と、『男たるもの』、っていう議題で語り合いと思ってな」
「って、この前もその議題、やったんじゃなかったっけ?」

 とぼけてそう告げると、母さんが僕の好物を載せた皿を手に近づいてきた。

「葵さん。悪いわね。ちょっとだけお付き合いしてあげて? なにしろすごく上機嫌なのよ、パパ」
「ま、……ちょうどぼんやりしてたところだからいいけどね」

 僕がテーブルに着くと、早速、ネクタイを軽く緩めた父さんが、いそいそと対面に腰を下ろし、僕の目の前のグラスにワインを注ぐ。
 その横、

「私も1杯もらおうかしら?」

 なんていそいそと席につく母さんに、父さんはもちろん、と微笑みながらワインを持ち上げる。

 ── まあ、両親が仲が良いって、このご時世に貴重だし。
 そのおかげで、僕は今まで一度も1人っ子であることを寂しいと思ったこともなかった。
 なにしろ、両親と僕ってあまり年も離れてないし、ちょっと年の離れた兄弟みたいな感じさえした。
 ま、かなり型破りな両親に育てられたのは事実、かもね。

「それで、葵。香穂さんは元気かね? ん?」
「って、父さん、第一声がそれなの?」
「うむ。私は別に、高校生同士のお付き合いが早いとか悪いとか、全然思わないタチなんでね。
 現に、僕と、この子だって……。ねえ、ママ? 星奏に通ってたころのママはそりゃ可愛かったんだ」
「あ、あなた。葵の前でなにを言うの?」
「はいはい。まあ、いちゃつくのは僕が部屋に戻ってからやってよね」

 母さんは、コホンと空咳をすると、口を尖らせて父さんを睨んでいる。

 僕の父さんと母さんは、星奏の同級生で。
 どうしても母さんを手放せなかった父さんは、父さん側の周囲の反対を押し切って、ずいぶん若い頃に結婚した。
『そりゃあもう、大恋愛だったのよ』……って、もう、僕は何度同じ話を聞かされただろう。

 そのせいも手伝って、僕の目の前の2人は、僕から香穂さんの話を聞いては、自分たちの通ってきた道をもう一度思い出すかのようにうっとりと疑似恋愛を楽しんでいる。

 僕はフォークを手に取ると、目の前のマリネの皿を引き寄せた。

「まあ、父さんの言うこともわかるよ。
 僕と香穂さんが付き合ってることを、早いとか悪いとか言ったら、自分たちを否定しちゃうことになるからでしょ?」
「はは、有り体に言えばそうだな。……お、ママの作るツマミはいつも美味しいねえ」
「ありがと、あなた。あ、そう言えば、今日は到来物があったの。もう1品作れるかも……。葵さん、あなたも食べるわよね?」
「はいはい。僕は父さんのついででいいよ?」
「もう、いい男はイジけないのよ? そんなことじゃ香穂さんに嫌われちゃうわよ?」

 またここで、香穂さんの話が出る。
 ── まあ、僕たちの恋愛が、両親の生活のちょっとしたアクセントになっているのなら、いいんだけどね。

「私も、もう10年若かったら、香穂さんのカレシさんに立候補したんだがねえ。これでも葵に勝つ自信はあるぞ?」
「父さん。そんなこと言ったら、母さんが悲しみますよ?」
「いや、私を引き取ってくれるっていう人がいたら、母さんはノシをつけて譲り渡すそうだ。ははは」

 なにが『ははは』なのかは分からないけれど、こと香穂さんのことに関しては、了見の狭い僕がいたりする。
 僕はその後、2、3個の簡単な会話を終えた後、適当に話を切り上げると、椅子から立ち上がった。
 これからもう少し読みたい本もあるしね。
 あまり、腹を膨らせても、睡魔に負けちゃうしね。

「じゃあ、僕はそろそろ部屋に戻るよ。父さん、ありがとう。母さんもごちそうさま」

 なんだか、2人の邪魔をしてもなんだよね、という気分になって、僕は脚を進める。
 って、今日の僕は父さんと大した話はしていない気がするけど……。
 いつもの口癖でつい、ありがとうと言ってしまう自分がおかしい。

「なんだい? 葵。今夜は本題に入る前にお開きか?」
「あなた。葵ももうすぐ受験ですもの。大学に入学してからでも十分お話しする時間はありますよ」
「それはそうなんだけどな。── 葵?」

 父さんは、酔っぱらっているのがジェスチャーだったんじゃないかというような、正気に戻った顔つきで僕のことを見つめた。

「まあ、私が香穂さんのことをいうのはほかでもないんだが。まあ、あれだ」
「なんですか? 父さん」
「……私は男でも恋愛は人生の中の大切なファクターだと思ってるんだ。
 この年になると分かる。専門性の高い分野の仕事に就いたのならともかく、
 高校時代に習った公式や授業などは、人の記憶には残らないんだよ。
 今の私に残ってるのは、どれだけ人を好きになったか、ってことだけだった。
 あと、── ちょっとした劣等感と、な」
「劣等感?」

 僕は、喉の渇きを感じて、マナー違反とは知りながらも立ったまま、金色に輝いているワイングラスを手に取った。
 ── 18年モノのヴィンテージワイン。僕と香穂さんがこの世に生を受けたこの年は当たり年なのかな。
 赤も白もそこそこの豊かさを感じさせる。
 父さんはにっこりと笑って言う。

「そう。── 隣の芝生は青い、というかね。
 自分が持っているモノに目を向けないで、人が持っているモノばかり羨ましく見える時期……。
 それが若さってものかもしれない」
「……確かにね」

 自分が、音楽を聴く耳は持っていても、奏でる力がないと知ったのは、中学に入る前。
 それからは、王崎先輩も通ったいたそのヴァイオリン教室を止め、自分の短所はそっと自分の檻に閉じこめてきた。
 中高一貫教育の中学に進み、高校。
 なんでもそつなくやりこなせた僕には友達も多くて。
 ── そこそこ自分の人生には満足していたんだ。
 この世界には音楽以外にも豊かなものがたくさんあるってね。

 けれど、高2年の春に、僕は出会ってしまった。
 離れがたい音。一度耳にしたら忘れられない、ヴァイオリンの音を。

 香穂さんを追いかけて、追いついて。
 他の音楽の才能が豊かなあの4人と一緒に参加した去年のクリスマスコンサートは、僕の記憶の1番奥に1番大切なモノとして仕舞い込まれた。
 自分の欠点と真剣に対峙して。
 そして僕の人生観までも持ち上げてくれた彼らを、僕は一生忘れることはないに違いない。

 なにしろ、1年経った今でも、香穂さんは僕の1番近くにいてくれる。
 僕の視界のどこかにいてくれる。
 香穂さんが僕を想ってくれている。
 ── そう信じられることは幸せだった。

「ま、葵なら大丈夫だとは思うが……。たまにはまた、私に香穂さんを見せに来てくれ」

 笑うと、目尻のしわが深くなる父の顔。
 それは、ダウンライトの下、意外にも父さんを少年っぽく見せていた。
 若く見えるというのは、この世界では不利なことなんだ。
 そう言って父さんは写真撮影をするときは、わざと暗めのドーランを付けてるって聞いたけど。
 確かに若く見える。僕と父とは年の離れた兄弟みたいだ、っていう親戚の言葉は案外真理を突いているかもしれない。

 悪くないこと、なんだろうけれど、僕の両親は香穂さんをつれてくると、大喜びだ。
 ときどき、息子の僕の存在を忘れてしまってるんじゃないか、と思えるほどに、ね。

「はい。わかりましたよ。じゃあ、僕はそろそろ明日の仕度をして寝ますね。おやすみなさい。父さん」

 僕は母さんが料理を持ってくるのと入れ違いに、自室へと上がっていった。
*...*...*
 翌朝、毎日そうしてるように、僕は学校へ行く途中に香穂さんの家に寄る。

 香穂さんの家に香穂さんを迎えに行って。
 1日中、香穂さんの隣の席で過ごす。
 放課後は、香穂さんの音楽を聴いたり、街まで遊びにでかけたり。
 何気ない言葉を、同じタイミングで言いかけたり、2人で笑い転げたり。

 香穂さんに憧れる気持ちが強くて、少しでも近づきたいという気持ちを抑えられなくて。
 会って顔を見るだけで良いと思ってたけれど、会ってみればそれだけでは満足できなくて。
 香穂さんと会って話したい、そばにいたいと願うようになった。── あれから1年。

 香穂さんは1年前と変わることなく……。いや、もっと魅力的になって、僕のそばにいてくれる。
 何気ない毎日を少しずつ積み重ねて。
 今、隣りにいる香穂さんに僕は運命を感じる。けっして冗談ではなくてね。

「というわけなんだ。僕の寝不足の理由。だから、香穂さん、また今度、僕の家に遊びに来てやって? 僕の両親のためにも」
「あ、ありがとう……。また、お邪魔して、いいのかな?」
「うん。一応あのマンション、防音の部屋もあるから、良かったら、ヴァイオリンを持ってきて?
 何度でも両親に聴かせたいから。君の音を」

 そう笑いかけながら、香穂さんを見つめる。
 僕と同じ、普通科の制服。
 僕と色違いの革の手袋をはめた手には、ひっそりとヴァイオリンケースが寄り添ってる。

 高2の春、一人の女の子と出会った。
 いつ聴いても、何度聴いても、もっと聴きたい、と思った。溢れる想いが止められなかった。
 そんな素敵な音色を奏でるヴァイオリン奏者。

 それはもしかしたら、男かもしれない。老人かもしれない。異国の、別の言葉を話す人間だったかも知れない。
 たとえそうだとしても、僕は僕に泣くほどの記憶を与えてくれたそのヴァイオリン奏者に感謝するだろう。

 それが。

 その音色の持ち主は、こんなにも愛らしい女の子だった。
 僕の理想の音を奏でるだけじゃない。
 僕に向ける、優しい資質も。僕だけに開かれている柔らかい身体も。
 1年を経た今では、君を形作る全てに、虜になっている。
 そう言ったら、香穂さんはなんて言ってくれるだろう。

「去年の今頃は、みんなで必死に練習してたよね。懐かしい……」

 香穂さんは、口から浮かんでは消える白い息を見上げる。
 頬に長い影を作っていた睫は、空へと伸びて。それは香穂さんの限りない可能性を指し示しているように見える。

 高2の、みんなで奏でたコンサート。
 あれ以来、香穂さんには何度も繰り返し、音楽科への転科の誘いがやってきた。
 僕としては、今の香穂さんの隣りにいられる、というポジションをとても気に入っていたし。
 正直、音楽科に転科して欲しくない、って思っていた、けど。
 香穂さんを引き留める権利がないのを知っていたから、何も言えないでいた。

 人は環境によって作られるっていうけど、香穂さんのような才能のある人間には、それは絶対条件ではないのだろう。
 香穂さんは、あっさりその誘いを断ると、今も僕と同じ普通科に在籍している。

『ヴァイオリンが好き、って気持ちだけ、大切にしていきたいの』

 そう言って笑った香穂さんの瞳と、今、隣りにいてくれる香穂さんの表情が重なる。
 硬質な、痛いほど晴れ上がった冬の空は、香穂さん自身をくっきりと浮かび上がらせる。
 僕の口は不器用にも一瞬だけ言い淀んだあと、香穂さんに向けられた。

「香穂さん……」
「ん? どうしたの? 加地くん……。あ、待って!」

 いつものんびりとした口調で話す香穂さんは、僕の顔を見て、慌てたように早口で言う。

「なに? どうしたの、香穂さん」
「あ、あの……。私の勘違いじゃなかったら、えっと、朝から、私が恥ずかしくなることは、言わないで? お願い」
「どうして? 心に浮かぶうたかたを、聞いてくれる人がいるっていうのは幸いだ、って古人も言ってるじゃない」
「だって、加地くんがそういう表情をするときって、絶対、なにか言うんだもの」
「ふふ、じゃあ、君の予想通りのこと、言おうかな。── 僕は今日も香穂さんに夢中だよ、って」

 手に入れた、と確信できる今になっても。
 香穂さんの奏でるヴァイオリンを聴くたび、僕は、香穂さんに夢中になる。

「加地くん……。また、そうやって、私がどういう顔していいのかわからないこと、言う……」

 案の定、僕の言葉を理解した香穂さんは、耳まで朱に染めてちらりと僕を見上げた。
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