*...*...* Trees 4 *...*...*
「加地くん? ちょっと外に出よう?」

 香穂さんはしっかりと僕の手を握ると、ホールの玄関の扉を開けた。
 もうすぐ第二幕が始まる。
 まばらな拍手は、一瞬の沈黙の後、大きな喝采へと変わった。
 受付の男性は、訝しそうにドアを開ける香穂さんの手を助けている。

「加地くんは、ここに座って? ちょっと寒いけど……」

 香穂さんは、クリスマスツリーの横にある小さなベンチに僕を座らせると、おもむろにヴァイオリンケースを開いた。

「ねえ、香穂さん? なにをしようとしてるの?」
「うん……。これで加地くんが元気になってくれるかどうかはわからないんだけど……。
 あ、そうだ。これ使って?」

 そう言って、白いコートを脱ぐと、僕の膝にかける。

「ねえ、香穂さん……」
「日野香穂子、演奏、いきまーす! えっと、題して、加地くんを元気にするコンサート、だよ?」

 口ではおどけたようなことを言いながらも、香穂さんは深く息を吸い込むと、虚空を見つめて。
 祈るように目を閉じると、ゆっくりと弓を引き始めた。

 ── これは、アヴェマリア。
 初めて君を見つけた時の曲。立ち止まって。離れられなくなった、忘れられない音が、暗闇に吸い込まれていく。

 あれから、何度、君の姿を探しに公園に足を運んだだろう。
 初めて、君の名前と学校を知ったとき。
 何もしないで手をこまねいている自分が情けなくなった。
 なんとか近づきたいと思って。
 数ヶ月もの間、父さんに転校をねだった。

 今の充実した環境を離れる理由を何度も聞かれた。
 ありのまま、告げたよ。
 ── 全てが君へと続くために。

 旋律は、止むことなく続いてる。僕を取り囲む空気となって溢れてくる。

 やっと、君に巡りあえた。

 ねえ、やっぱり君との出会いは、僕にとって、奇跡以外の何者でもないんだよ。
 僕は、初めて入った教室の中に、君の顔と君の隣の空席を見つけたとき、そう思った。
 普通科って5クラスじゃない。だから僕は1/5の確率で君と同じクラスになって。
 その、1/20の確率で、隣の席になった。
 君との出会いは、運命なんて軽いモノじゃない。宿命かな、奇跡かな、ってちょっと自分を勘違いしたくなった。
 今もそうだと信じてる。

 少しずつ、僕の表情が優しくなってきたのが分かったのだろう。
 香穂さんは、白い息を昇らせながら、次々と曲を奏でていく。

「あ、これね、私の好きな曲なの。加地くん、知ってるといいな……」

 香穂さんは、口元を引き締めて、シューマンの3つのロマンス第二曲を奏で始めた。

 穏やかな中に切なさを秘めた旋律は、香穂さんと出会ってから1年の日々を怒濤のように映し出した。

 転校して、すぐ、王崎さんと再会して。君にアンサンブルメンバーに誘われた。
 5人のコンクールメンバーとの出会い。
 音楽の才能に対する、悲しいまでの認識。周囲との葛藤。
 浮き沈みする感情の中、僕の香穂さんへの想いはいつだって変わることがなかった。

 ねえ、香穂さん。君、知らないでしょう?
 僕が君のこと、どれだけ好きだったか。どれほど恋いこがれてたかって。
 元々文学好きだった僕が、今の僕の事象をたくさんの書物の中から探し出そうとして、探し出せなかったこと。
 この時、思ったんだ。
 文学は、自分が生き抜くための指針を示してはくれるけど、実際、土を踏んで歩いていくのは、僕自身の脚だってこと。
 へこたれそうになるたびに、君のヴァイオリンの音がここまで僕を導いてくれた。

 すごくシンプルで、大切なことを忘れていたよね。
 香穂さんを通して、見ることができた、音楽の妖精。
 小さな光り輝くものが教えてくれたのは、僕が音楽と共に生きていってもいい、という免罪符だったんだ。

 ── 僕は、音楽と共に生きる価値のある人間だ、ってね。

 香穂さんのヴァイオリンの音が、余韻を残して、真っ黒な空に消えていく。
 僕はベンチから立ち上がると、香穂さんに拍手を送る。

「君が僕のためだけにヴァイオリンを弾いてくれる。聴衆は僕1人。
 ……なんて贅沢なんだろう。君の音を僕が独り占めできるなんて」
「加地くん。一緒にこうして……」

 香穂さんはそういうと僕の胸にそっと頭を預ける。

「まだ加地くんとやりたいこと、いっぱいあるの。
 一緒に卒業して、一緒にヴィオラとヴァイオリンを合わせよう?
 加地くんが聴いてくれるなら、私はまだ頑張れる。自分の実力以上に、頑張れる」
「香穂さん」
「だから、もう、自分を責めないで。 私と、一緒にいて」
「ねえ、香穂さん。── 心配、しないで? さ、僕と一緒に音を合わせよう?
 ── 今の君の気持ちをほんの少しでいいから僕に分けてくれる?」
「良かった……」

 香穂さんの額に口づける。
 柔らかな花のような香りが、立ち上ってくるのを感じる。

 ── 愛しい、女の子。僕は、僕だけの宝物を抱きしめる。

「あ、あの……。あれ? でも、加地くん、ヴィオラ、ないよね?」

 ヴァイオリンのペグを回しながら、香穂さんはきょろきょろと周囲を見渡した。

「ふふ。いやだなあ。楽器なら、ここにもあるじゃない?」
「え?」
「ほら、ここ」

 僕は香穂さんの手をそっと自分の喉に当てる。

「いいよ。始めて?」

 香穂さんは、僕に目配せをすると、ゆっくりと弓を引き始めた。
 最初の指の位置だけでわかる。── 『弦楽四重奏・アメリカ』

 これは僕が、コンクールの間中、1番愛した、曲。
 ヴィオラの旋律が響く。その後に、豊かなヴァイオリンの音が引き継ぐ。

 楽器って、神さまが作った素敵な道具だと思っていたし、それなりに弾き手のカラーが出ることは知ってたんだよ?
 だけどね、香穂さんの音に出会って知らしめられたことがあるんだ。

 ねえ、香穂さん、知ってた?
 楽器って、音だけじゃない。言葉も話せるんだ、ってこと。
 君の音は、僕に教えてくれたんだ。
 音楽を楽しむのに、なにも資格は要らない、ってね。

 好きだ、って気持ちだけを信じて、僕もヴィオラをどれだけ愛していけるかな、って。

 ヴァイオリンの音に乗せて、アルト域の僕の声が、耳に響いてくる。
 挫折を知ってる人間は強いよ。それは今の僕の、ただ一つの取り柄だ。
 コンクールメンバーの面々を思い出す。
 みんなそれぞれの自分の生き方に葛藤はあるかもしれないけど。
 それでも君たちは、こと音楽の才能に関してはなんの不安もなかったでしょう?

 僕には、あったよ。

 あったからこそ、今の僕は香穂さんの才能に心惹かれる。
 できれば、香穂さんが音楽以外のことで心惑わされることがないように願う。

 小さな女の子の後ろ姿が見える。
 家の都合と、僕自身の勝手な理由で、ヴァイオリンから遠ざかるしかなかった彼女は、元気でやっているのかな?
 そして今は。
 ── 彼女はヴァイオリンの音色を、心痛めることなく聴いていてくれるだろうか?

 クリスマスツリーの灯りの元、香穂さんの指が滑らかに弦を押さえていく。
 時折、僕の喉を気遣うように視線を走らせる香穂さんに泣きたくなる。

 記憶は流れ、心ははためく。風になる。今はもう、僕自身が音楽だ。


 香穂さんがいる。音楽がある。
 ああ、父さんは僕のこういう考え方を見通していたのかもしれない。
 自分にないモノばかりを数えて、自分に備わっている大切なモノを見失いそうになる僕のことを。

 父さん、母さん……。
 あんなに落ち着いている2人にも、やっぱり。
 高校時代には、いろいろ悩んだり、苦しんだ日々があったのかな?
 だとしたら、僕の葛藤もいつか、遠い日の笑い話になるのだろうか?

 最終楽章が、思いの外長く後を引いて、音が途切れる。
 どんなに愛おしい時間もいつかは終わる。
 孤高なヴァイオリンの音だけが静寂に残った。
 ハミングに近かった僕の声は、1つの楽器になって、コンサートの帰り道の聴衆を巻き込んだらしい。
 渦巻くような拍手が僕たちを取り囲んでいる中、僕たちは顔を見合わせて笑った。

「── ありがとう。加地くん。……ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」

 自分の中を駆け巡る感動が、僕の痛みを乗り越えていく。

 泣き笑いの香穂さんの方を抱き寄せると、僕はもう一度、僕たちの音楽に脚を止めてくれた人たちにお辞儀をした。
 ── ねえ、音楽を楽しむって才能を与えてくれた神さまってすごいね。そう思わない?

 僕は、思うよ。
 音楽が関わる喜びに、真っ直ぐに向き合いたい。香穂さんと一緒に。
 ── そう。香穂さんが僕を必要としてくれる間は。



 帰り道。
 香穂さんは、興奮が冷めないままの赤い頬で僕を見上げた。

「加地くんって、歌も上手ね。── 金澤先生にも聞いてもらいたかったな」
「そんなことないよ。あ、でも、そうだなあ」
「なあに?」
「僕の声がよかった、と言ってくれるなら、それは、香穂さんのヴァイオリンのおかげかな?
 君の音色は、僕自身が知らなかった美点を引き出してくれるからね」
「そう、かな?」

 不思議そうに首を傾げる彼女を、少しだけ困らせてみたくなって、僕はさらに言葉を繋ぐ。

「そうだよ。君を抱いているときと一緒かな。柔らかくて、暖かくて。……すごく優しい気持ちになった」
「わ、わ! 加地くん、言っちゃダメ〜〜!」
「好きだよ。香穂さんが。── 言葉にならないくらいに」

 僕の口を覆おうとして伸ばされた香穂さんの手を握って口付ける。



 君と出会えたこと。今、この場所に2人で立っていられること。
 君の音に出会えた奇跡に、感謝を込めて。
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