*...*...* Trees 3 *...*...*
『ね、今度の週末、王崎先輩のコンサートがあるの。加地くん、一緒に聴きに行ってくれる?』
『僕が君の誘いを断るなんて思う? もちろんちゃんとエスコートさせてもらうよ』

 そう言われたのは、天羽さんから王崎さんの国際コンクール優勝の話を聞いた翌日だった。
 去年のクリスマスコンサートで聴いた、王崎さんの第九を思い出す。
 清らかで、素直で、ひたすらに優しい音。
 ああ、この音は香穂さんによく似ている、と思い出すたびに胸を打つ。
 どうしたらこういう音色が出せるのだろう。あざとさばかりが目立つ僕には備わってない美点とも言えるかもしれない。

 その日は、朝からどんよりと空は低く、地鳴りのような風が吹いていた。
 コンサートホールの前で待ち合わせた香穂さんは、僕の好きな翡翠色のドレスの上、白っぽいコートを羽織っていた。

「加地くん、今日はありがとう。寒かったでしょ?」
「ううん。全然。君との待ち合わせだもの。会えるのが嬉しくて寒さなんて感じなかったよ」
「うわあ……っ。か、加地くん!」

 たいして大きい声で言ったつもりはないのに、香穂さんは周囲を見渡して僕の口を塞ごうとする。
 僕は素早くその手を取ると、指先に口づけた。

「その照れるところが可愛い、って言ったら、君はまた僕の口を塞ごうとするのかな?」

 小さく口を開いたまま、香穂さんは二の句がつげられない様子だ。
 僕は香穂さんが持っていたヴァイオリンケースを手に取ると、彼女の手を引いてホールの入り口へと向かう。

「び、びっくりした……。人が見てたよ。加地くん」
「別に構わないよ。それどころか、みんなに僕の香穂さんを見せつけたいくらい」
「えっと、……ありがとう、って格好良く言えたら素敵なんだけど……。あ、その、慣れるまでもう少し待っててね。
 あ、そうだ、あのね、今からちょっとだけ王崎先輩の控え室に行かない?
 この時間なら行ってもいいって天羽ちゃんから聞いてるの」
「そう? じゃあちょっとだけ顔、出してみようか。って、だから香穂さん、今日、ヴァイオリンを持ってきたの?」
「ん。ちょうどね、王崎先輩が使っている、新しいメーカーの弦に張り替えたところなの。だからちょっと見てもらおうと思って」

 暗い廊下を何度か曲がって、僕たちは、王崎さんの控え室に行く。
 その控え室は、袖から一番近く、しかも個室だ。
 そうだよね。
 音楽家なら誰もが1度は夢見る舞台。自分の名前が冠詞の、ソロコンサート。
 それを王崎さんはこの若さで達成したんだよね。
 王崎さんへの羨望が、痛みも引き連れてやってくる。── 王崎さんはすごい人だなあ。

 香穂さんの小さなノック。その後に続く軽快な足音とともに、ひょっこり王崎さんはドアから顔を覗かせた。

「やあ。こんばんは。今日は日野さんと、それに加地くんも来てくれたの? あ、どうぞ、入って?」

 本番前1時間だというのに、王崎先輩は少しも緊張したところもなく、笑顔で香穂さんと僕を、控え室に招いてくれた。

「王崎先輩、あの、遅くなっちゃったけど、優勝おめでとうございます。どうですか? 凱旋公演の気持ちって」
「うん……。そうだね。── とても気分がいい、かな?」
「気分が?」
「そうだね。ねえ、加地くん。だって、おれのヴァイオリンで、少しでも音楽って楽しいな、って思ってくれる人が増えたら、嬉しいと思わない?」

 フォーマルな衣装を身に着けた王崎先輩には気負いとか、不安とか何もないようだった。
 ── こういう根っからの善人っているんだ、って僕は少しだけ胸を引っ掻かれたような気がする。

「王崎先輩、私、すごく楽しみにしています。
 加地くんがね、最前列の席を取ってくれたんです。たっぷり聴かせていただきますね!」
「ああ、楽しみにしてて。日野さんが好きな、シベリウスも1曲入れておいたから」
「わあ。……本当に? 嬉しい」

 香穂さんは、目を輝かせて笑っている。

 その笑顔は、見ている僕の方まで幸せにしてくれる力があるというのに。
 チクリ、と痛んだ胸は、少しずつ僕自身を浸蝕していく。
 身体中の筋肉が、汚れた水を吸った綿になったかと思った。腐った匂いまでするような気がする。

 ── 僕は、王崎さんのように、自分の楽器で、香穂さんを満足させてあげることはできない。

 ずっと、忘れていた。忘れたふりをしていた、自分の音楽の才能。
 香穂さんや、王崎さんのような清らかな曲想が好きだった。何度も自分で試してみた。

 ……だけど。

 どれだけ力を込めて消しても消えない醜い傷跡のように、僕の音楽にはあざとさだけが後味に残った。
 去年のコンサートのとき、そんな自分を受け入れて、納得していたはずなのに。
 ── どうしてだろう。
 今、笑顔の香穂さんを見ると、自分への劣等感が浮かんでくるのを押さえられない。

「楽しみだね、加地くん」

 楽屋から、舞台袖、客席へと続く、暗い廊下で、香穂さんは僕に手を取られながら、弾むようなステップで歩いている。
 暗闇の中でも、香穂さんの頬が艶々と輝いているのが見える。

 僕はため息をついた。
 こんなに香穂さんと音楽を愛してる僕に、どうして神さまは、音楽を奏でる才能を与えてくれなかったのだろう。
 ── なんて、忘れたつもりをしていた苦々しい感情が浮かんでくる。

 音楽を好きな香穂さんを好きになった僕は、僕なりの方法で、音楽に携わってきたけど。
 これほどまでにあからさまな才能の差を目の当たりにするには、今の僕はまだ幼すぎる。
*...*...*
 客席に座った香穂さんは、僕が手渡したパンフレットの表紙をめくった。
 王崎さんの上半身の写真と、それに、続く経歴が踊っている。
 国際コンクール 最優秀賞受賞。
 それに続く国内の賞を総ナメにしたあと、活字は、英語、ドイツ語、フランス語と、いろんな賞が続く。
 次々と出てくる文字は、どれも王崎先輩を賞賛する声ばかりだった。

「すごく気さくにお話してくれるから甘えてたけど、王崎先輩、ってすごい人なんだね……」

 香穂さんは細い指で、王崎さんの戦績を追っている。

 自分の未来のステップに、王崎さんの通ってきた道がある。
 素直に、そう思える彼女が羨ましかった。

 ── 僕には、なにも、ない。

 あれは、そう。僕がまだ王崎さんと一緒のヴァイオリン教室にいたときのことだ。
 その教室での内部選考会。
 先生は、僕の両親の世間的な地位を重要視したのだろう。
 3人の枠の中に僕は入り。本来の実力からしたら、一番最後の枠をゲットするはずの女の子が漏れた。
 女の子は直接僕に何も言ってこなかったけど。
 あとで、友達が教えてくれたことがある。
 彼女にとって、そのコンクールが、最後のコンクールだったということ。
 つまり彼女はそのコンクールに出場できれば、音楽を続けて。
 出場できなければ音楽を辞めるように家から言われていたということを。

『ヘンなの。好きならずっと続ければいいのに』

 なんの思惑もなく、そう告げた僕の頭をつついて、悪友は笑った。

『って、加地は坊ちゃんだなー』
『えっ?』
『あの子のお父さんの会社、ツブれたんだって。倒産ってこと。だから、習い事は全部辞めさせられるんだってよ?』
『……そう』
『あの子、どうしても辞めたくない、って最後まで先生に泣きついてたらしいけど……。
 ま、俺たちには関係ないよな。お前は、コンクール頑張れよ』

 結局。
 父さんの職業がなんの考慮もされないコンクールで、僕は先生が内心心配していたとおり、予選落ちした。
 あの女の子が出場していたら、もしかして入賞を勝ち取っていたのかも知れないのに。

 胸の奥が焼ける。── 痛い、かもしれない。

『劣等感』か……。
 父さんの自嘲気味な声音を思い出す。

 香穂さんを通して音楽に触れて。
 僕も、音楽っていうのは、弾き手と聴き手があるって、理解して。
 ── なんてね。

『理解して』なんて都合の良い言い訳さ。

 才能あるれる人間の前では、僕は、ただ下僕のようにひれ伏すしか、なすすべがない。
 王崎さん。そして香穂さん。
 厳かなヴァイオリンの音は、たくさんの感情を引き起こしながら、さまざまな音を思い出させる。
 このまま、溺れてしまいそうなほどに。

 強い意志を持って海外へ飛び出していった、月森。
 音楽科に転科して1年も経たないうちに、星奏のピアノ科の一番手になった、土浦。
 志水くんの作曲のレベルは、もう、玄人の域に達している。
 ってことは、ずるいな。神さまは、志水くんに、チェロを奏でる才能と作曲の才能、2つを与え給うた、ってことなのか。

 本人は、まるで子どものような無邪気さを漂わせながら、生み出す音は一級品の火原さん。
 溢れる才能を100パーセント出し切らずしてもなお、聴衆を惹きつける、柚木さん。

 ── 僕には、何もない。

 隣りにいる香穂さんの手を握る。
 春の若草と空を染め上げたような、滑らかな翡翠色のドレスが、豊かなドレープが膝下を覆ってる。

 僕は、弾き手になる才能がなかったから、聴き手になったに過ぎないのに。

「……どうしたの? 加地くん。具合、悪い?」

 香穂さんは黙りこくっている僕を気遣うように、僕の袖口を引っ張った。
 華奢な指の先にある、清潔そうな短い爪。
 日頃はヴァイオリンのことを考えて、付けていないマニキュアが、今日は薄暗がりの中、光沢に満ちている。

「香穂さん……」
「大丈夫? 辛いんだったら、一緒にロビーに出よう?」

 何をやってるんだろう、僕は。ダメだよな。香穂さんに心配かけちゃ。
 今、彼女は、王崎さんから音楽の薫陶を受けようとしてる。それを邪魔する権利は僕にはないのに。
 僕は、香穂さんの指を握り返した。

「いや。大丈夫。せっかくの王崎さんの凱旋公演だもんね。……僕も聴きたいから」
*...*...*
 公演の中休み。

 暗かった客席は一気に明るさを増した。
 周囲の人たちも小さく雑談を始めたり、席を立ったりしている。

「加地くん? 大丈夫? やっぱり体調が悪いのかな……。とりあえず外に出よう?」

 香穂さんはきっぱりとそう告げると、僕の手を引いて、なだらかな階段を昇っていく。
 1時間くらい座り続けていたせい? それとも、僕の感情が乱れてるから?
 僕は足元に小さな揺れを感じながらも香穂さんに付き添われるまま、ロビーへと向かった。

 ロビーは、タバコの匂いと、雑踏と。その間を縫って、王崎さんへの賞賛に包まれていた。
 いつもだったら満ち足りた気持ちで味わう空気が、やけに重いのはなぜなんだろう……。

 わかっていたはずなのに。

 とっくに、受け止めて、認めていたはずなのに。
 追いかけて、ひたむきに手に入れた幸せを僕は、今度は自分の手で壊してしまうのかな。

「香穂さん」
「なあに?」
「── 音楽が好き、君が好きっていうだけの僕で許してくれる?」

 真剣な顔で告げる。

 君は優しすぎるから。
 ── 僕のこんな弱気な言葉の前、僕を否定する返事なんて返せないの分かってる。だけど。

 成績も風采も悪くない。そこそこの人望もある。
 両親は円満で、環境も申し分ない。
 僕は、何一つ不満なく、ここまで生きてきたのに。

 記憶力の良さを悔やみたくなるのはこんなとき。
 小説の一節が浮かんで来て、そのまま消えない。

 ── 僕は音楽の世界においては、一生傍観者から脱却できない。

 努力、や、ひたむきさ、では覆いきれない、才能の差。



 香穂さんといる限り、僕はこの不安に囚われ続けるのかな。
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