*...*...* Trees 1 *...*...*
 空が紙を剥ぐように、毎日、薄く、高くなっていく。

「ケイイチ? ……あ、カホコもきたの? おやつ、持ってきたよー?」

 秋の森の広場。
 私はじゃれ合うようにして近づいてきた2匹の猫に話しかけると、この子たちを驚かさないように、ゆっくりと足を進める。
 私と同じような背格好の人はたくさんいる。私と同じ制服を身に着けている子も。
 なのに、この2匹は、私の姿を見つけると、ウサギみたいに跳ねて近づいてきてくれる。
 それが嬉しい。

(あ……)

 カホコが、軽やかな足取りで、大きな白い山を乗り越えてくる。
 と思ったら、それは、たった今までこの子たちの相手をしてて、そのまま眠り込んだ金澤先生だった。

 4月から半年の休職期間を経て、10月に復職してきた金澤先生は、学院にいなかった半年は、 私の考え違いなんじゃないか、とでも言いたげな様子で、 昼休みは森の広場でお母さん猫のハナと一緒で寝そべっている。
 その様子は半年前と全然変わらない。

 私と志水くんの名前を付けた、カホコとケイイチも1年前の小ささはウソのように大きくなって、
 ハナと一緒に並んでいると、3匹はまるで、兄弟みたいに見えてくる。

 私はカホコとケイイチ用に持ってきた小魚を差し出すと、2匹は心得たモノで、小さな鳴き声を上げて近づいてきた。
 ── 可愛い。

「また、この猫たち、大きくなりましたね」
「あ、志水くん」

 たまたま広場を通りかかったのか、志水くんは、気持ちいい今日の空のような柔らかな目の色をして、私に微笑んだ。

「本当だね。毛並みも、艶々してて可愛いよね」
「……それは、香穂先輩の小魚のせいかもしれません」
「カホコの方がよく食べるんだよ? ケイイチったら、カホコが羨ましそうな顔してると、自分の分も譲るんだもの」
「……それって、僕と香穂先輩との関係と一緒だと思います」
「え? ええ? そうかな……?」

 そうだ……。
 学院のカフェテリアで、新しいデザートが出るたびに、志水くんは、自分が食べて美味しかったから、というデザートを、
 私や天羽ちゃんにご馳走してくれたり、する。
 それって……。
 わわ、カホコってば、ケイイチがくわえてる小魚、引っ張って、自分モノにしようとしてる……っ!

 私は頬が熱くなってくるのを感じながら、カホコのノドを撫でた。

「よぉ。日野と志水。ちょうどいいところに」

 金澤先生は、たった今、目覚めたんだ、と独り言のように呟くと、大きく半身を起こして伸びをした。

「よし。こいつらの遊び相手をお前さんたちに命ずる。よろしく頼んだぜ?」
「……わかりました。香穂先輩。残りのおやつもあげてしまいましょうか?」

 志水くんは、のんびりとした口調で金澤先生に返事をしている。
 そんな志水くんを見て金澤先生は、やれやれと肩をすくめて、私に目配せをした。
 細められた目からは、『2人きりの時間はまた後で、だな?』なんて笑ってるのが分かる。

「じゃあな。お2人さん。まだ、下校までには時間がある。せいぜい練習して、自分磨き、しておけよー」

 金澤先生は、背中を向けて腕を振ると、急ぎ足で柊館の方へ歩き出した。
 細いとんがった肩に、白衣が寒そうにパタパタと はためいて遠ざかっていく。

 金澤先生が遠ざかるのを確認した後、志水くんはまっすぐな視線を私に流し込んだ。

「……金澤先生の声が、少し変わったのは、本当なんですね」
「ん……」
「前の声とほとんど同じだから、他の人にはわからないかもしれません。
 だけど、僕にはわかります。以前よりも、8分の1音、下がっている印象があります」

 金澤先生は、今年の4月から10月まで学院を休んだ。それは事実。
 だけど、その理由は、どうしてだか、私と吉羅さん以外、学院の誰も知らない事実になっていて。
 天羽ちゃんなんかは、イタリアに飛んで、元カノをヨリを戻したんだ、って豪語している。

 だから、当然、志水くんも、金澤先生が休んでいたことは知らないハズ。
 だけど、誰よりも鋭い耳で、金澤先生の声が変わったことを察したのだろう。

 私は、どう答えて良いのか分からなくて、足元でウトウトし出したカホコを腕に抱きかかえた。

「たまに練習室から、発声練習の声が聞こえます。
 でも、なんていうんだろう。── 僕は、今の金澤先生の声、好きです」
「ほ、本当?」

 金澤先生の声、確かに手術前とは違う。
 けれど、以前よりずっと、優しい、暖かい声になった。
 そう思ってるのは私だけじゃないんだ、と気持ちが温かくなる。
 木訥とした志水くんは、お世辞なんか、言わない。
 思ったことを誠実に伝えてくれる人だから、余計にその言葉が嬉しい。

「そうだ。香穂先輩。今度、金澤先生に、チェロとヴァイオリンと一緒に歌ってくれませんか、って頼んでみましょうか?」
「え? 金澤先生と、チェロと、ヴァイオリン?」
「そうです」

 志水くんは、もう姿が見えなくなった金澤先生の影を見ているみたいに、まっすぐと柊館を見つめてつぶやいた。

「僕が、聞いてみたいんです。
 僕のチェロと香穂先輩のヴァイオリン。その上に、金澤先生の声がどう響いてくるかを」
*...*...*
 6時過ぎ。
 私は、音楽準備室のドアをノックしようとして、上げた手を止めた。

 奥から聞こえてくる、音階を追う声。

 今日は実技試験前、ということも手伝って、練習室は予約でいっぱいだった。
 こういう日、金澤先生は音楽準備室の奥の部屋で、発声練習をする。
 細い小さなパン生地を、丁寧に心を込めて、長く、広くしていくような作業。
 それを金澤先生は、声帯に対して行ってる。

『毎日、半音ずつ広げてるんだよ。上にも下にもな。
 焦らず行こうや、なんて生徒には言ってるクセに、自分に対して、となると難しいもんだなー』

 そう言いながら笑ってた金澤先生を思い出す。

『たとえよくない結果が出たとしても俺は負けない。── 必ず帰ってくるから、信じて、待ってろ』

 そう言って、旅立っていった金澤先生と、今の金澤先生。
 一番大きく違うのは、声なんかじゃない。目の色だと思う。
 生き生きと輝いて。貪欲なまでの知識欲は、本当の学生なんて足元にも及ばない、って思った。
 そんな金澤先生を見て、吉羅さんは笑っている。

『やれやれ。高校時代の金澤先輩を見るようだ。この人の歌は、みんなの心を動かしてやまなかったから』

 私は息をつくと、ドアに背中を預ける。
 今のこの時間が金澤先生の大事な瞬間なら、待ってるのは全然構わない。
 だけど、せっかくだもの。
 私も、譜読みできる楽譜を持ってこれば良かったな……。

「……なんだ?」

 突然、部屋の中から漏れていた声が止まる。
 それに続く、足音。と思ったら、背もたれに使っていたドアがいきなり開いた。
 重心を失った私の身体は、ふわりと白衣の中に収まる。

「わっ!!」
「っとー。ナイスキャッチ、だな。俺も。ははは」
「ど、どうして? 私がここにいる、って……?」
「どうして? って? 知りたいのか?
 そうか、じゃあ〜っと。その1。時間だったから。その2。気配がしたから。その3。透視したから」
「あはは。透視、ですか?」

 金澤先生がタバコを止めて、もうすぐ1年。
 白衣の襟からは、北風の匂いがする。

「あ……」

 金澤先生は私の顔を持ち上げると、柔らかい舌で唇を押し広げていく。
 ── 甘い。

 冷たかった身体が、唇から温まっていく。それは痺れも伴って、私の脚までやってくる。

 手にしている鞄とヴァイオリンだけは落とさないように、と力を入れる。
 他の人との経験がないからわからない、けど。
 キスって、こんなに力を奪っていくモノなの……?
 唇から頬、頬から首筋へと落ちてきた生き物は、私の耳朶を甘く噛んで止まった。

「今日は遅いから、ここまで、だな。また、続きは今度な」

 私は掻き上げられたままになっている髪の毛を急いで下ろすと頷いた。

 ── いつも、考え込んでしまう。
 その答えは、必ず、導き出せないまま、また、次の行為が始まるから、私の中ではいつも堂々巡りの悩み事になる。

 この、キスが終わったあとから、次の行為が始まるまでの隙間の一瞬、って、どんな顔してればいいのかな、って……。

 金澤先生は、キスをしたことなんて、忘れたような様子で背中を向けて、今年新調した革のジャケットを羽織った。

『お前さんはまだ若いからな。
 ちゃんと相応しい時期が来たら、俺の元から飛んでいけよ? な?』

 時々、何でもないときに、金澤先生は、ふと自嘲的にそんなことを言う。

 何度も抱かれた今になっても、帰り道を確認しているような。
 ……いつでも私を手放す覚悟をしているような。

 私の気持ちは、去年のクリスマスから、全然変わってない。
 ……ううん。変わった、のかな。
 去年よりも、ずっとずっと、好きになってる。
 ── 自分で自分を持て余すくらいなのに。

 金澤先生は準備室の鍵をかけると、屈託のない顔で私を振り返った。

「お前さん、これからどうする? ちょっとメシでも食べてから帰るか?」
「はい!」
「お前さん、細い身体して、いい食いっぷりだもんなー。ご馳走してやろうって気になるよな」
「えっと……。そんなに食べてますか?」
「なんだよ。気にすんなよ。育ち盛りなんだからいいだろ?」

 2人ですっかり暗くなった北門を出る。
 時間は7時に近い。
 金澤先生とつきあい始めてから、お互い言い出したことはないのに、決まっていくルール。

 暗さ、と、周囲の視線の少なさを味方につけて、行動する、こと。

 最初はちょっと秘密めいてて嬉しかったのに、今は、ちょっと、寂しい、と感じるときがあるのは、どうしてかな……。

「おおっ! なんだなんだ?」
「わ! な、なに……?」

 まぶしすぎるライトと、その後に続いてクラクションが鳴る。
 瞬間、長い腕が、私の身体を巻き取っていく。
 と、開いた窓から見えたのは吉羅さんの落ち着いた顔だった。

「おっと。吉羅か。なんだ、脅かすなよ」
「いや。私は純粋に挨拶をしようと思っただけですがね」
「そうだ、吉羅よ。良かったら、3人で食事でもするか。
 なあ、日野。理事長サマのおごりでいつもより豪華なモノにありつけるかもしれんぞ」

 金澤先生はにやりと口端を上げると、私の顔を覗き込んだ。

「遠慮しますよ。それこそ野暮というものでしょう」

 吉羅さんは金澤先生の誘いをすげなく断ると、私の方に視線を当てた。
 薄暗い闇が広がっている空気の中、吉羅さんの目は、優しく穏やかに光っている。



「……日野君。金澤さんをよろしく頼むよ」
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