*...*...* Trees 2 *...*...*
 明日は学内考査。しかも学科試験という日。
 1日で、試験範囲内、全てを頭に詰め込もうとするのだろう。
 日頃は予約でいっぱいの練習室も、今は人影もない。

「よしっと。今日はこの部屋にするか」

 俺は鼻歌を歌いながら、一番奥の練習室に入り込む。
 そして、喉の状態を知るために ゆっくりと声を大きくしていった。

 声帯も、筋肉の一部であり、どう鍛えるか、どう育てるか、というのは、個人の裁量に依る。
 また、俺が全盛期だった10年前とは違う、新たな練習法も増えてきている。
 それらの、どれが一番自分に相応しいかを試す。
 そんな試行錯誤の時間が今は楽しくて仕方ない。

「期末考査、か〜。今年も、あと少し……、ってことか」

 めまぐるしい1年だったと思う。
 面倒なことを押しつけられたと思った、セレクションでの取りまとめ。
 そこで1人の生徒と出会った。
 というか。……なんつーか、今思えば、日野を含めて、あいつら全員、強烈な個性を持ってたよなー。
 選ばれた当時から、選ばれるのが当然というか。やっぱ、他のヤツらとは違って抜きん出ていた。

 ── 俺にも、そんな時代が、あった、ってこと、……だよな。

 ひたすら、貪欲に、前に進もうとする生徒たち。
 元々そんなヤツらと一教師である俺を、同じスタートラインに立たせる必要なんてなかった。
 同じ空間にいながら、別次元の人生。
 それで、良かったんだ。
 だけど。……あいつと会ったから。

(日野……)

 俺が日野のことを思い浮かべるとき、真っ先に思い出すのは、日野の、ヴァイオリンを構えている後ろ姿だったりする。
 おかしなもんだよな。
 何度も抱いて。同じ時間を過ごして。
 今の俺は、ヴァイオリンを奏でてる日野以外の日野の方を、たくさん知ってるっていうのに。

 リリの助けを持ってしても、日野の実力不足は、他の参加者と比較するまでもなく歴然だった。
 なのに、あいつは、努力して、努力して……。
 最後にはヴァイオリンを自分のモノにしちまった。

 そのとき、柄にもなく思ったんだよな。
 ── あいつに誇れる、自分でありたい、って。
 過去を忘れたふりをして、残りの人生を続けるんじゃない。
 もう一度、原点に返ってみようか、と。

 週末に、執刀医の最終診断を仰ぐ。
 それが終われば、あとは思う存分、自分の喉を可愛がることができる、というわけだ。

 何音かの基礎練習を終えた頃、ガラス戸の向こうに、大きな影が動く。
 と思ったら、簡潔なノックの音が続いてきた。

「ほーい。誰だ?」
「吉羅です。入ってもよろしいですか?」
「おお。なんだなんだ?」

 今は止めてしまったものの、吉羅の音楽への造詣は深い。
 話しかけてきたのは、練習の合間の絶妙とも言えるタイミングだった。

 吉羅は にこりともしないで、俺の様子を見ている。

「金澤さん、どうですか? 調子は」
「あー。吉羅よ。そうさな。まずまずと言ったところか? ……ん? なんだよ。そんな顔するなよ」
「私は初めからこういう顔ですが、なにか?」
「あーっと悪い悪い。無愛想なのは、高校の時から変わってない、ってか?」

 吉羅は、すっきりとした鼻筋をくゆらすと、満足げに頷いている。

「煙草はもう嗜んでいらっしゃらないようですね」
「当たり前よ。一度やる、って決めたら、この俺は徹底してるの」

 やれやれ、と俺は肩をすくめた。
 そう言えば、いたな。卒業生の中にもさ。俺の白衣から煙草の匂いがするとかなんとか言ってたヤツ。
 ま、煙草を吸わない人間からしたら、この匂いって強烈らしいからなー。
 って、今は俺も、すっかり苦手になってたんだったな。

 ほら、その。……ま、あれだ。
 何度か誘惑に負けそうになって、小さな箱に手を伸ばそうとする。
 そのたびに、日野の悲しそうな顔が浮かんできて、どうしても火を付けるところまでいかないんだよなー。

「彼女は さながら金澤さんのゼンタということですね。
 ただ、こんなに長く継続するとは、私もちょっと想定外でしたが」
「ゼンタ? って、もしかして、お前さん……」

 吉羅は軽く頷くと、懐かしそうな表情を浮かべた。

「金澤さんの初演の舞台でした。招待状をいただいて、私はまだ学生の身分だったにもかかわらず、
 イタリアに行ったんでした」
「おーおー。思い出した! ついでに思い出したくないことまで思い出した!」

 ゼンタとは、オペラ、『さまよえるオランダ人』のヒロインの名前だ。
 乙女の愛を受けなければ、死ぬことも生きることも許されない幽霊船の船長。
 娘 ゼンタはその不幸に心打たれ、自分の身を投げ出す覚悟をする。しかしゼンタを愛するエリックがそれを許さない。
 ゼンタとエリックとのやりとりを見て、2人の仲を疑った船長は、ゆっくりと沖の向こうへと遠ざかっていく。
 ゼンタは貞操を証明するために、エリックを振りほどいて、海に身を投げる。
 彼女の純真を見た幽霊船は、安らかに死を得、ともに昇天していく。

 ……なんていう悲恋の話。
 10年も前、俺が演ったのはエリックだった。
 そして、ゼンタを演ったのは、かつて俺が愛した女だった、か。

 ── 不思議なもんだな。
 あれほど、開いていると思ってた傷口も、今はもう、なんともない。
 遠い絵空事のような、乾いた感じだ。

 淡々と表情が変わらない俺を見て、吉羅は、ようやく笑顔を見せた。

「ゼンタ。── 『愛による救済』。
 ……どうやら金澤さんは日野くんの愛情によって救われたようですからね」
*...*...*
「そんなこんなで、今週末、もう一度、執刀医の診断を受けてくる。
 帰ってくるのは……っと。おー、そうだ。クリスマス当日あたりになるか?」
「ん……」
「おーい。お前さん、聞いてるかー? なんだ、まだ 怠いのか?」
「……先生が、ムリさせるから、です」
「おー、悪い悪い。少し可愛がり過ぎたかな?」

 アパートの一室。
 コトを始めたときは、まだ微かに明るみが残っていた窓も、今は墨を流したかのように暗くなっている。
 それでも目が慣れてきたのか、日野が もそもそと ベッドの中で器用に下着を身に着けているのが分かった。
 気怠そうな その様子は、俺の劣情を煽るのに十分だ。

「……他の人も、こんなことって、してるんでしょうか……?」

 日野は物憂そうな口調でつぶやくと、不安そうに俺の顔を見上げた。

「あん? こんなことって?」
「その……。つまり、口で、とか……」
「してる。男なら誰だってする。しない男なんていない。
 してくれるお相手がいなきゃ、自分の妄想の中でするもんだ」
「ん……」
「高校生のあいつらはお年頃だからなー。土浦なんか、それこそ大変なんじゃないか?」
「大変?」
「そう。毎日自分で自分のを世話しなきゃならないからさ」
「もう、……やめて。その、明日学校で土浦くんと顔を合わせたら、
 どんな顔で、あいさつしたらいいのかわかんなくなっちゃう」
「なんだよ。言わせろよ」

 日野は恥じらいと困惑が混ざったような表情を浮かべて、俺を見上げてくる。

 白く艶のある頬。さっきの名残か、目尻が赤く染まっている。
 制服の深緑色のせいで、鎖骨の白さが一層際立つ。

 若さってこういうことなのか?
 日野は、日増しに綺麗になっていく。
 毎日見ている俺でさえ、ときどき はっと見つめ直すほどに。

「あ……っ。な、なに……?」

 半身を起こした日野の肩を軽い力で押す。
 すると、白いベットの上、日野は たわいなく転がった。

「そして」
「はい?」
「してもらった以上にしてやりたくなるんだよ。── こんな風に、な?」

 俺は日野が身につけた下着を再び下ろすと、ふっくらとした肉の扉を開く。
 さっきよりも少し膨らんだ朱い突起が、無防備に晒されている。
 俺は、壊れ物のようにそれを口に含むと、ちろちろと舌を揺らした。

「あ! ダメ。もう……っ」
「ダメ、じゃないだろ? ……好きなクセに」

 束縛なんてまっぴらだと思っていた俺が、この子にだけは、束縛されたいと思うんだから、重症だ。
 伝えたい気持ちが大きければ大きいほど、過去に覚えた手練手管なんて、何の役にも立ちゃしない。

 イヤらしい言葉を注ぎ込むたびに、赤味を増す頬。
 瑞々しく、熱を帯びてくると、やがて手の平に吸い付いてくるような腿。

 女子高生にわんさと囲まれた生活を送ってるってのに、
 日野にだけこういう感情が浮かぶってのも、妙っていえば妙だけど、な。

 途中、いつも俺を受け入れる場所が、不安げにうごめく。
 俺は、一番長い指をゆっくりと日野の中に突き刺していった。
 内面は、待ちわびていたかのように俺の指を強く締めつけてくる。

「大分、慣れたか? 中の方も反応がいい」
「……本当に、もう、ダメなの。……私……っ」

 イクとか、クル、とか。
 達するときの言葉って、いうのを口にするのを、日野はひどく恥ずかしがる。
 可愛いヤツをからかいたくなるのは、男として当然なところがあって……。
 なんて自分を肯定する気はないが。
 以前、どうしても言わせてみたくてムリヤリ言わせたら、あとで泣かれたことがあったから。
 今日はこれくらいで止めておくか。

「先生……っ」

 日野は言葉の代わりに、固く内股を強張らせる。
 そういうボディトークが、愛しくてたまらない。

 途中、日野の身体が大きく跳ねた。
 達したということは分かったが、それでも俺は舌で可愛がるのを止めない。
 やがて小さな痙攣が納まり、日野は穏やかに俺の腕の中で丸くなる。
 その様子を見るのが好きだからだ。

 ── 初めて抱いたときから、離れられなくなる予感がした。

「先生、もう、時間が……」
「お前さんが悪いんだよ」
「私……?」
「……お前さんが、可愛いのが悪い」

 暗闇の中、腕時計の分針を覗き込もうとする日野を口で封じ込める。

 日野は音楽に関しては、いろいろなヤツから薫陶を受けてきたと思う。
 月森だろ? 志水だろ。それに加地。吉羅。
 月森は今、日野のそばにはいないものの、志水なんかは、よく楽しそうに日野と話をしている。
 ── まあ、いいさ。音楽のことは。

 だけど、今、このアパートの中で行われているレッスンは、俺だけのレッスンだ。

 4月。検査のために渡米することを考えて、旅立つ前は、必死に自分の身体を押しとどめていた。
 若いときの1ヶ月、っていうのは何があるかわからない。
 人の気持ちはあっさり移り変わっていくモノだし、若いならなおさらだ。
 しかし、俺の予想に反して、日野は、術後、5月に日本に帰ってきた俺を、別れたときと変わらない想いで待っていてくれた。

 ……なんていうんだろうな。
 愛情や、思いやり、なんて。
 オペラや歌劇なんかの、虚構の世界の戯れ言だと思ってたんだけどな。

 日野といると、なにかを信じたくなってくるんだ。
 俺が忘れていた。いや、忘れようとしていた、人間くさいところ、温かいところを。

 日野の美点である『素直さ』は、ヴァイオリンの世界だけではなく、性の世界でも、余すところなく発揮されている気がする。
 返す反応の愛らしさ。甘く震える、嬌声。
 ── 何度 乱しても、乱し足りない。

「先生……」
「可愛かったぜ? 今日も」

 全身の力が抜けきったような日野の額に口づける。
 日野の目尻がくすぐったそうに細くなるのを、俺は複雑な気持ちで見つめた。

 俺の腕の中にいるときは、日野の汗一つ、呼吸一つだって、俺の意のままにできる、という自信があるっていうのに。
 ヴァイオリンを肩に乗せるやいなや、日野は俺の手の届かないところへ行ってしまう気がする。

 2人の日野の温度差に、戸惑う。
 いや、本人は全くその気がないんだろうけどな。


 ── いつか。俺の声が戻って。
 日野に堂々と誇れる自分になれる頃、そのジレンマは消えるのだろうか。
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