*...*...* Trees 3 *...*...*
「……ふぅ、っと……」俺は飛行機の座席に深く腰掛けると、医者の告げた言葉を反芻していた。
数時間前、執刀医の前に座っていた俺は、本当の俺なのか? 白昼夢なのか?
もし白昼夢なら、今、座席に座っている俺が本物か。それとも、検査の結果が本物か? どっちだ。
記憶は冷静にさっきの場面を思い出していく。
『思ったより、思わしくない結果が出ていますね。
声帯の縫合した箇所が、人より大きく腫れ上がったまま、癒着しているんです』
『は?』
『金澤さんのご職業は……。教師、さん、ですか。ああ、なるほど』
神経質そうな銀縁のメガネが光らせて、執刀医は毎朝来る新聞のようにそっけない素振りでカルテを畳んだ。
『なんなんですか? 教師っていう仕事が、手術の結果と関係があるって言うんですか!?』
『……教師という職業は、声楽家、とまではいかないまでも、
かなり声帯を酷使する職業であることは、あなたもご承知でしょう。
十分休養期間を経たと あなたは認識していても、やや ご無理をなさったのかもしれませんね』
剃りたての髭のあとがひどく清潔そうな口元は、淡々と告げる。
『で、これからはどうなるんです』
『現在のあなたの声が、今の私にできる最善だ、ということです。
どれだけ努力なさっても、これ以上声域を広げるのは難しい、と判断します』
最善。現状が最善。つまり、これ以上は、無理。
もう一度声楽家と、ということも、最早、無理だ、と。
「Mr.? お加減がお悪いのでしょうか?」
両手で頭を抱え込んで目を閉じていると、通路から柔らかなソプラノが聞こえてきた。
「お? ああ。……ありがとな。"No problem" と言ったところだ」
軽い挨拶には軽い挨拶をと、明るい口調で返事をしたにも関わらず、添乗員は不安そうな目で見つめ返してきた。
こういうところが、マニュアル通りの日本人とアメリカ人の違うところだ、と思ったりする。
「いや。……なかなか人生ってうまく行かないもんだと思ってな。お前さんもそんな風に感じること、あるだろう?」
「本当に。あなたのおっしゃることはよくわかるわ。
今の私にできることは、あなたに良い旅を提供することだけでしょうね。なんでもおっしゃってくださいな」
添乗員は、俺の脚にそっと手を載せると微笑んだ。
一期一会であろう、彼女の優しさはありがたいが、今の俺には、それに構ってる余裕はなかった。
俺は相手が失礼にならない程度の笑顔を作って、ついでにアルコールを頼んだ。
機内は気圧の関係で、酔いも回りやすい。
半年の、努力の結果が、これ、ってわけか……。
俺は、椅子のリクライニングを思い切り深く倒して、深酔いするための準備をした。
*...*...*
「── 歌えない、か。この喉、じゃ」アパートに着くと、カバンを玄関に放り投げ、靴を脱ぐ間も惜しんで、ベッドに倒れ込む。
足元がふらつく。
空港からここにたどり着くのに、何人もの人間が、怯えたように俺の身体を避けていった。
昼間から酔いが回ってる俺を、中には不審そうに眉を顰める輩もいたっけな。
(日野に、連絡する、って言ってたよな……)
日本に着いたら、日野にメールを入れる。
その約束を忘れたわけではなかったが、今の俺は、思い出したくなかった。
日野が心配してるのは見当がついたが、どうして良いのか自分でもわからない。
「ま、迎え酒、とでも行くか」
俺は戸棚にある、うっすらと埃のかぶっているウイスキーを取り出した。
勢いよくストレートで何杯もグラスを傾ける。
散々飲んだくれて、気が付いた頃には、すっかり周囲が暗くなっていた。
「あっと……。誰だ?」
夢か現か、夕方なのか朝方なのか。
俺は、何度も、俺のことを心配するかのように鳴っている玄関のチャイムに気づいた。
小さく舌打ちすると、慌てて つっかけを履いて、玄関のドアを開ける。
「金澤、先生……?」
「ああ、なんだー。お前さんか」
そこにはコートを着た日野が、ヴァイオリンと、小さな四角いケーキの箱のようなものを持って立っていた。
日野は玄関をそっと閉めると、真っ直ぐに俺を見上げた。
日野の瞳は、不安そうに検査の結果を待ちわびている色と、泥酔している俺を心配する色が混ざった不思議な色をしていた。
「今日帰国する、ってお話を聞いていたから、ちょっと寄ったんです。結果、どうでしたか?」
「見ればわかるだろう? ご覧の通り、ってことだ」
「先生?」
日野は酒の匂いに顔を顰めると、カーテンを開けて、窓も開けた。
数日間締め切った部屋。俺の体臭。それに酒。
何もかも薄汚れているような俺にぴったりの部屋だ。
校則通りの制服。その上に羽織っているコート。手にしているヴァイオリン。
一方、日野の様子には浮ついたところなどどこにもなく、清楚でひどく真面目な生徒に見える。
── そう。ただ一点。
教師の俺と寝ているということを除いては。
お前さんと、俺じゃ、釣り合わないよな。
努力じゃどうしようもないってことが、この世の中にもあるってことなんだよな。
「ダメだってさ。現状維持が精一杯だとよ」
「え?」
「お前さんもわかるだろ? バリトンには、ある程度の音域が求められるのよ。それが、どうしても足りない」
「そんな……」
日野の健康そうな頬の色が、薄皮を剥ぐように、薄く、白くなっていくのがわかる。
って、数時間前、俺も医者の前でこんな顔色をしていたのかもしれない、か。
「で、相談、ってことなんだが」
俺はわざと軽い口調を装って日野を見上げた。
「はい? 相談、ですか?」
日野は、硬い表情で、部屋の端に座ると、深く息をついて真っ直ぐに俺を見つめる。
やや緊張した面持ちは、いつもに増して、力強い。
……年齢の差も忘れて、甘えたくなってくる。
普通の女なら、こんな投げやりな態度や、酔った様子に怯みそうなものだが。
俺は、改めて、こいつの強さを垣間見た気がした。
おっとりとした話し方と、柔らかい物腰で、浅く付き合う人間は、日野の強さを見抜けないだけで。
本当は、こいつ。誰よりも強い。強くて、優しいんだ。
だけど、断ち切らないとな。
お前さんは、もう、俺のことは放っておいて。前だけ見て進んでいけるように。
「お前さん、そろそろ俺から羽ばたくときが来たんじゃないか?」
「先生……?」
「お前さんは、あと数ヶ月で卒業し、どんどん栄光への階段を上がっていく。
俺は一生私立高校の一教員、ってことだ」
だから、今は、お前さんの優しさを利用させてもらおう。
── もう、お前さんに、薄汚れてる俺は必要ないだろ?
「いいぜ。お前さんとの関係は他の誰にも言わないから、安心しな」
瑞々しい日野の身体に自身を埋めて。
俺も久しぶりに忘れていた快感を思い出した。
いや、思い出の中の抱き合うという行為よりも更に甘美で、強い快感を引き起こしていたさ。
だけど。
こう、と決まってしまった以上、俺とお前さんとでは、あまりに釣り合わないだろう?
ぼう然と座り込んでいる日野の横をすり抜けて、本棚を探る。
置き場所は知り尽くしている。この1年、よくもまあ辛抱し続けてきたもんだ。
古びた灰皿と、使い古したライター。それに吸う前から不味いことが一目でわかる、湿気きった煙草。1カートン。
暗闇の中、ライターの火が煙草に移る。
やれやれ。一体誰が煙草なんて、不健康なモノを作り出したのかね。
1年吸ってないから、といえども、指や口は忠実に、扱い方を覚えている。
俺は、深く息を吸い込むと、ライターの火を近づけた。
「ふぅ、っと……」
1年振りに、毒が身体中に染み込んでいく。
……なんの味もしないんだな、煙草って。
アルコールでふやけた喉が、煙草の煙で燻される。
酒と煙草。どっちも喉には最悪なモノばかりだ。術後なら、なおさら。
日野は燻ってきた匂いに、はっと顔を上げた。
「金澤先生、煙草はダメです!
前、私に教えてくれたでしょう? 煙草はすごく喉に悪いから、止めた、って」
「いいっていいって。もう、声楽はやらないんだからさ。そう固いこと言うなよ」
「でも……。お願い。止めて欲しいんです。
そんな金澤先生を見るのは、悲しいし、それに……。きっと吉羅さんもがっかりされると思います」
「あー。吉羅か……」
その言葉に、思いもかけず、吉羅の渋い表情が浮かんでくる。
卒業してからもずっとなにくれとなく、連絡を寄越した吉羅。
俺はそのころからいい加減な人間だったから、さて。あいつの手紙に何度返事を返しただろう。
俺の人生が賞賛で満ちあふれていた頃、顔も思い出せないような友人までもが手紙を寄越したもんだった。
人間って残酷だよな。
俺が喉を痛めてからは、潮が引いたように、手紙の数も減っていった。
そんな中、あいつは、俺の知り合いの中で誰よりも早く、誰よりも多く手紙を寄越した。
大した内容ではなかった。
是非一度話し合いの場を持ちましょう。気落ちせず、できるだけ早く帰国を。いつもそれだけだった。
けれど今の俺は、アルコールの勢いもあったのかもしれない。
日野の口から飛び出した、『吉羅』という言葉に腹を立てた。
立て続けに煙草を口にくわえる。
それこそ1回息をすることで、細長い管をどれだけ、燃やすことができるかを競うように。
俺は、日野の白い首元に目をやりながら、小さく笑って言った。
「な。吉羅とお前さん、ってよく考えれば似合いなんじゃねーか?」
胸が苦しい。やたらに喉が渇く。
久しぶりに感じるニコチンはダイレクトに、俺の白い肺に黒い染みをを作っていくのだろう。
「金澤先生……?」
「普通科でも頑張ります。生徒1人1人の才能を伸ばしますー、ってさ。
お前さんはあいつの広告塔となる代わりに、あいつはお前さんをパトロネージする。
そこに愛情なり、セックスなりが入り込むのは、2人の関係をより強固にするって感じで、
お互い都合がいいと、俺は踏んだがね」
話している間に、指に挟んでいた煙草は、自身をほとんど燃やし続けて灰皿の中へ落ちた。
俺は大げさに舌打ちすると、小さな箱の小さな穴の中に指を突っ込む。
明るいところで見たことはないが、いつも日野が俺を受け入れる場所も、これくらい狭いのだろうか、と、
下世話な考えが浮かんでくる。
「そうだ。お前さんが言いにくい、っていうなら、俺から吉羅に口を利いてやろうか?」
俺は明るく提案すると、そして、再び細い棒を口にくわえると、思い切り深く息を吸った。
先端は急に生を得たように、ちろちろと赤い炎を広がらせる。
日野は黙って立ち上がると、いきなり俺がくわえている煙草に手を伸ばした。
とっさのことを避けようと俺は顔を横に向ける。
「お、おいっ、お前……?」
次の瞬間、俺が感じたのは、微かに肉が焦げている匂いだった。