*...*...* Trees 4 *...*...*
 脳内が一気に覚醒していく。

 確か、目の端が捉えたのは、日野の白い指。
 それが、顔の前を横切って。そこから逃げたくて俺は横を向いて。

 俺は灰皿に煙草を押しつけると、日野の腕を掴んで立ち上がった。
 日野は痛みを止めるかのように、左手で右手首を握り締めている。

「右手か? 指か? 手の平か? どこだ、どこをやった!?」
「……金澤先生が煙草を止めてくれないからです!」
「馬鹿。お前さんの指はヴァイオリンを弾く指だろう。なにやってるんだ」

 日野は潤んだ目で俺を睨みつけた。

「……馬鹿は金澤先生だもの! どうして、私が、吉羅さんと? ……どうして?」
「ちょっと黙ってろ。まず傷を冷やすから」

 俺は蛇口を勢いよく回すと、日野のコートが濡れるのも構うことなく、傷口に水を当て続けた。
 幸い、ヤケドをしたのは指ではなく、手の平の中心だった。

 ……それにしても、弦を握る右手。
 しかも煙草の温度は、お湯でヤケドするのとはまた全然違う。
 数日間は、ヴァイオリンの扱いに苦労するだろう。

「痛むか? 日野」
「……先生の喉が大丈夫なら、私は、いいです」
「って、お前さん……」

 俺の喉と、お前さんの指と。
 どっちが価値があるか、って保険会社に聞くまでもなく、未来あるお前さんの指の方が大事だろうが。
 いや、誰がどんな風に判断を下すとしても、お前の方が俺は大事だ。

(そういえば、あの時……?)

 酒と煙草が自分の許容量一杯にまで膨れあがった今の状態は、俺の忘れたい過去を呼び起こしていく。

 のぼせ上がっていた俺と、冷静だった年上の彼女。
 あの時の俺は完全に負け犬だった。
 自暴自棄になれば、彼女が帰ってくるかと思った。
 病気になったと知らせれば、同情の言葉でも1つ、かけてもらえるかと思っていた。
 だけど結果は全て裏目。── 全く。馬鹿だったよ。

 フラれて。自暴自棄になった自分に、さらに悪いことは重なるもんで。
 自分の不摂生で病気になった俺に、そうだ、あいつは、罵りの声を上げた。

『全く。これだから若さって嫌なのよ。ちょっと気に掛けてあげたらその気になって』

 俺のこんな姿を見て、渡りに船といった風情で離れていった女もいたのに。

 ── 違うんだな。こいつは。……こんなにも。

「金澤先生?」

 背中を撫でていた手がいつまでも止まらないのを不思議に思ったのか、日野は澄んだ目で俺を見上げる。

「いや。お前さんはいっつも無茶をする」
「……つい、手が出ちゃいました。……ごめんなさい」
「なに言ってるんだか。謝るのはこっちだろうが」

 どす黒く色が変わった皮膚は、周りの白い肌と相まってあまりに痛々しかった。

 病院に行こうという俺に、日野は頑なに首を振る。
 破ったタオルを巻いていたんじゃ、治るものも治らないから。
 じゃあ、ガーゼや包帯を買ってこようと、慌てて つっかけを引っかける。
 すると、日野は小さな子どもみたいに、そばにいて欲しいと言う。

「全く……お前さんは。大人なんだか、子どもなんだかわからんな」
「ん……。自分でもよくわからないんです。……急に不安になっちゃったのかも、です」

 日野は自分の中にある曖昧な心の色を分析するかのように、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
 そうだよな……。
 俺は自分の言動を振り返る。

 自分自身の結果に動揺して、挙げ句に日野に当たって。
 別れ話の切れっ端のようなこと、言い続けてたよな、俺。
 そりゃ、日野が不安になるのも当たり前、ってもんだろ。

 背中越しに抱いている小さな身体。
 ……マズい。このままじゃ、愛しさが加速するのを止められないまま、壊してしまいそうだ。
 俺は無理やり自分の両手を日野から引き剥がすと、冷気が入り込んでくる北側の窓を閉めた。

「そ、そういえばお前さん、なんか持ってきてたな。なんだ?」

 俺は日野の持ってきた小さな箱を摘み上げた。
 持ち上げると、かさりと音がする。
 日野はようやく笑顔になると、嬉しそうに目を輝かせた。

「クリスマスケーキです。昨日のうちに焼いておいたの」
「そっか。って今日、クリスマスかー」

 歪んで壁に掛かっているカレンダーを見上げて、我に返った。
 そうだ。今日は、クリスマスだったか。
 俺にしてみれば、日付変更線を経て、長い長いクリスマスだが。
 考えてみれば、初めて日野を胸元に抱き寄せた日も、去年のクリスマスだったな。

「参ったな。そんなこんなでバタバタしてて、お前さんへの土産っつのか、
 クリスマスプレゼント、用意できなかった。悪い!」
「ううん? いいんです。こうして一緒に過ごせるし。ケーキもあるし。
 ほら、ちっちゃなモミの木もありますよ? 本物を使うと雰囲気が出るって本にあったから、飾りに使ってみたの」

 日野は、ケーキに飾るオーナメントを手に取って明るい声を上げている。

 朱い炎の中、日野の面輪が優しそうに揺れる。
 覚束ない手つきで、日野は2つのマグカップにお湯を注いだ。

「えっと、コーヒー、できましたよ? ケーキ、食べましょう?」
「悪い! 日野。せっかく準備してもらったんだけどなー」
「はい?」

 ろうそくに見とれていた日野は、俺の声に顔を上げた。

「……な。ケーキよりも先に食べたいモノがある、って言ったら、お前さんどうする?」
「ど、どうする、って……?」
「今のお前さんなら、俺の言ってること、わかるよな?」

 この半年の間で、その手の話題にようやく追いつけるようになったのだろう。
 日野の頬がほのぼのと赤くなったのを見て、俺は乱暴にタオルを破って傷を覆った手を握り締めた。

「あ、あの……。1つだけ、お願いしてもいいですか?」
「あん? なんだー?」
「……その」

 日野は俺の向こうの壁を見つめたり、細い指で俺の肩を弄っていたりしたが、意を決したように俺の顔を覗き込んだ

「抱かれるときだけでいいの。その……。名前で呼んでくれませんか?」
「名前って、お前……」
「はい……。あの、日野、じゃなくて、下の名前で」

 何度も、数え切れないほど抱いている。
 俺の形に開かれた熱い場所を思うだけで、身体の一部は制御不能になるほど。

 それが……。
 ったく、俺もどうかしてるなー。
 お前さんを見ているとなんだか励まされるんだよな。
 つい、学院にいるような感覚で。
 考えてみれば、プライベートで会っていても、日野の下の名前を呼んだことがなかった。

 一年前に日野と見たクリスマスツリーを思い出す。
 こんな年下の生徒に惹かれている自分を、最初はなかなか認められなかった。
 自分の指導に素直に従い、笑って。
 単純に生徒として可愛いのだと、自分に言い聞かせていた。

 今は、そんなヤワな気持ちで判断できないと思う自分がいる。
 日野といると、自分もまだまだ捨てたモノじゃない、という熱い気持ちがよみがえってくる。
 その高揚感が、耐えず日野へと向かわせる、ってこと。

 口から頬。頬から首筋。そして胸へと。
 まるで敬虔な儀式のように、日野を愛おしむ。
 今日はその道のりの間に、俺は日野の手首を握りしめ、そっとタオルを外した。
 そして、ふやけた傷口に唇を這わす。
 すると、生まれる前の肌は、敏感な部分のように震え、日野の身体をぴくりと揺らした。

「あ……」
「まだ、痛むか?」
「少し……。でも、大丈夫です」
「本当に、悪かったな」

 俺が日野を誇りに思うように、日野にとって俺もふさわしい人間でありたい。
 それが俺の原点だった。
 その思いを、医者の一言で覆すワケにはいかないだろ。

 狭い声域。それでもいい。
 今、俺が持っている機能の中で、最大限の結果を引き出す。
 自分が今、できる精一杯の枠組みの中、満足できる歌声を響かせたとき。
 その時初めて、俺は日野と肩を並べる権利が生まれるのかもしれない。

 俺がしっかりしないと、お前さんを守ることもできないからな。

 しなやかな腿を広げ、日野の中に自分をしっかり埋め込みながら、改めて日野の顔を覗き込む。
 しょうがないこととはいえ、俺と日野を隔てているゴムの存在が邪魔っ気だ。
 だからといって、前の女みたいに、ピルなんぞ飲んで欲しいとも思わない。
 こいつを守るんだったら、これくらいなんでもないからな。

 日野は自分の顔の上にある、俺の喉の出っ張った部分を愛おしそうに撫でると笑った。

「── 私、今の金澤先生の声、好きです」
「日野?」
「……違うの」

 日野は微笑みながら、首を振る。
 俺はその意味を解して、回していた腕に力を込めた。

「── 香穂。……ありがとな」

 快感に揺られて香穂の手が、俺の背中を握り締める。
 俺は香穂の頭を抱きかかえるようにして、繋がってる部分から自分の想いが伝わればいいと願いながら、腰を使い続けた。
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