1人の才能ある生徒と出会った。

 1フレーズ目で、閉じていた瞼を上げた。
 2フレーズ目には、ある人を思い出していた。
 1曲全てが終わった後には、ある人は、微笑んで私のことを見つめてくれている気がした。
 瞼の裏には、その人の細部まで浮かんでくるというのに、追いかけようと目を開けた瞬間、うたかたのように消えていく。
 ── あの人は、もう、私を許してくれているだろうか。
*...*...* Trees 1 *...*...*

 早いもので、日野香穂子という1人の女生徒と出会って、あれから1年もの時間が過ぎていった。

 その間、一般的な尺度の『付き合っている』という形態にはほど遠い関係が、私と彼女の間には続いている。
 共に音楽を目指す者同士としては相応しい付き合いだと思っていたが、それは私自身の主観によるのかもしれない。

 2人の間にあるのは、ヴァイオリンの話と、音楽の話。星奏の話。
 基本的に、学院の経営方針などを一高校生に聞かせても何のメリットもない。
 元来、自分の本心、本質を、他人に語るのが苦手だった性格も手伝って、か。
 私と日野君は1年前となんら変わりのない、淡々とした関係が続いていた。

 そしてまた、このような我々の関係について、彼女からは一度も非難めいた言葉を聞いたことがなかった。
 そんな私を見かねたように、時折 アルジェント・リリは、理事長室までやってきては騒ぎ立てる。

『日野香穂子の音に艶がないのだーー。これは、吉羅の気持ちが日野香穂子に伝わってないからなのだ!』
『騒々しいのは苦手なんだが。アルジェント・リリ。もう少しボリュームを落としてもらえないだろうか?』
『吉羅暁彦!』
『私は私にできる限りの協力をしているつもりだが。まあいい。アルジェントの意見を聞こうじゃないか』

 彼女のヴァイオリンの技術を磨くために。教養を身につけるために。
 私は彼女の申し出を100パーセント把握し、また最善を尽くしてきた。
 また、彼女は私の期待以上の上達で応えてきたと思う。

 春頃に一度、彼女の方から相談があった。

「ね、吉羅さん……。私、音楽科に転科した方がいいんでしょうか?」
「ほう。それはまたどうして?」
「えっと……。音楽科に転科したら、もっとヴァイオリンのことを知ることができるし。
 音楽史とかソルフェージュとか、音楽の理解も深まると思ったから……、です」

 私は万年筆で机の上を2度3度叩きながら、即座に考えをまとめた。

「君がそう言うなら、君だけのプロジェクトを発足させよう。
 君がわからない箇所は、星奏学院音楽科の教師、全員で対応させる。それでどうかね?」
「え?」
「君が星奏学院の広告塔であり続けるためには、普通科でいた方が何かと都合がいいんでね。
 しかし、だからと言って、君の成長の芽を摘むつもりは私にはない。できるだけの協力をしよう」
「はい。ありがとうございます!」

 都築くんと一緒に組んだ春のオーケストラ。それから、夏、秋、冬と3つの季節が過ぎて、
 彼女のヴァイオリンはますます澄んだ音を出すようになった。
 それは彼女の努力の賜物であり、また、

『普通科の生徒に目を付けてヴァイオリニストとして世に出す』

 ことをせせら笑っていた、理事たちの鼻を明かすことも兼ねているというわけだ。

『アルジェントは私といい日野君といい、気に入った人間だけをこき使う傾向にあると思うが。
 今の私のあるべき行動に、いったい何の不満があるというんだね?』

 理詰めで追いつめると、いつもアルジェントは顔を怒りで赤らめて口ごもる。

『用がないなら出て行ってもらいたい。まだまとめる資料が山積みなんでね』
『ううう……。い、今は、いいのだ。2人が満足ならそれでいいのだ。
 だが、そのうち……。そうだ。また我輩が気付いたことがあったら、真っ先にお前に告げるのだ』

 アルジェントは小さな杖を振りかざして私の目の前から姿を消した。
*...*...*
 12月に入ったある日。
 何気なく通りかかった音楽棟の練習室で、彼女は大きくため息をつくと、頭を抱え込んでいた。
 思い立ったように、ヴァイオリンの主旋律をピアノで奏で。
 そしてまたスコアに向かいなにやらつぶやくと、今度はヴァイオリンに向かっている。
 私は小さくノックをして、練習室に滑り込んだ。

「日野君。頑張っているようだね」
「あ、吉羅さん!」
「結果がなかなかついてこないようだが」
「そうなんです。上手く言えないんですけど、ヴァイオリンが鳴ってない、というか……。
 自分で弾いてて、すっきりしません」

 私の姿を認めて彼女は一瞬笑顔になったものの、ヴァイオリンへの指摘に、しょんぼりと肩を落とした。

「ほう。ファータはなんて言っているんだね? 君のこの状態について」
「リリですか? ん……。練習あるのみ、って。確かにそうだと思います」

 彼女は朱を入れた楽譜をもう一度見据えると、ヴァイオリンを肩に乗せた。
 詰まるフレーズを何度も繰り返す。

 去年より、少し長くなった髪。
 少し痩せたのだろうか? 心持ち、首が細くなった気がする。
 何度繰り返しても、詰まる音。
 それにも関わらず、彼女は夢見るようにヴァイオリンを離さない。

 ── 彼女が、あの人と、重なる。

「あっ!」

 そうしているうちに、E線が摩耗したのか、鈍い音を立てて切れた。

「ご、ごめんなさい。ちょっと待っててください」

 彼女は、切れた弦を手際よく外すと、新しい弦を張ろうとする。
 白い指が、ペグとテールピースの部位を行ったり来たりする。
 ── 似ている。
 骨格が似ている人間は、声まで似てくるもんだ、と金澤さんは豪語しているが。
 だとしたら、指の形が似ている人間は、奏でる音まで似てくるのだろうか?

「吉羅さん、お待たせしました。もう一度行きます!」
「待ちたまえ」
「はい?」

 私は彼女を手で制す。
 2人きりの、空気が重かったわけじゃない。それほど私は子どもでもない。
 だた。敢えて言うならば。
 ── 私は、ヴァイオリンに集中する、彼女の熱意が怖かったのだ。

「日野君。今日の練習はそのあたりにして、少し私に付き合いたまえ」
「は、はい?」
「時には、気分転換という方法も必要だろう。さあ、ついてきたまえ」


 彼女は首をかしげながらも、大事そうにヴァイオリンをケースにしまうと、ゆっくりと私の後をついてきた。
 彼女が手にしているコートを見て、私は冬の到来を知る。

「あの、どこに行くんでしょう?」
「さあ」

 最近、私の助手席は、彼女の指定席になっていると言っても過言ではない。
 誰かに縛られるなんて不愉快にしか思わなかった私が、この状態を楽しんでいるとは、我ながら滑稽でもあった。

 車を運転すると気分が高揚するのは私の常だが、今日も例外ではなかったらしい。
 腕時計の分針を確認する。
 これなら、今日は、それほど悪くない光景が楽しめるかもしれない。

 高速を飛ばして30分。
 着いたところは、180度の地平線が見える西の空だった。

「私のとっておきの場所だ。堪能するといい」
「わ……! すごいです。吉羅さん。綺麗……」

 フロントガラスいっぱいに広がる夕焼け。
 ともすれば、太陽を側面からではなく、上からも眺めているような感覚に襲われる。

 この世に存在するあらゆる物質が、すべてオレンジの飛沫を浴びているような、この高台の光景が私は好きだった。
 そして、同じ景色を、気に入ってくれた彼女への愛しさが増しているのを感じる。

 いつも、この女生徒といると浮かぶ感情。
 この、子どもともいえるような、幼い女生徒と一緒の時間を過ごすことで、気持ちが満たされていく。

 彼女の好きなものを知る。自分の好きなものを伝える。それらが、重なる。
 ── なかなか、悪くない感情だね。

「気に入ったようだね。それはなにより」
「はい! どうもありがとうございます」

 白い頬に、冬の柔らかい残照が乗る。
 私は彼女の姿を満足げに見つめ、袖から見える細い指に目を遣った。

「おや? 日野君。君は手袋というのを持っていないのかね?」
「はい? あ……。まだ、12月に入ったばっかりだし、暖かいから、大丈夫かな、と思って」
「未来を背負って立つヴァイオリニストが、それでは困るが」

 私は屈託なく笑う彼女の左手を握ると、そっとコートのポケットに入れた。
 ぴくりと、怯えたように震えていた指が、徐々に私の手の温度と同化していく。

「あ、あの。すごいですね、空。どんどん色が変わっていきますよ? あ、一番星も見える……」

 彼女は恥ずかしさからかいつもより饒舌になると、しなやかな右手で光る箇所を指さした。

 ああ。この光景をどこかで見たことがある。
 ふと、心の裏側を突かれたような気がして、私は微笑を引き戻した。

 あれは……。
 脳裏に次々と繰り広げられる光景。
 消毒液の匂い。真っ白なシーツ。
 終わりのない点滴。頼りないまでの白い腕。── 母の泣き顔。

 そんな中、何かを悟りきったように、微笑む、一人の少女。
 あの人も星が見えるとはしゃいで、何度もか細い声を上げた。

『暁彦にも見える? 一番星よ? 明日も晴れるといいわね』

 あの人は、あの短い一生で幸せだったのだろうか?

 それは、誰にもわからない。一番あの人の近くにいたと思う、私であっても。
 何度も自分の中、結論がつかない思いが駆けめぐる。

(あの人は幸せだったのだろうか?)

 亡くなって時間が経った今となっては、幸せだったと願うしかない。
 生者は死者の対極にある。
 生きている我々は、死ぬまで生き続ける責任がある。

 夕明かりと戯れていた彼女は、いぶかしげに私の顔を振り返ると、表情を曇らせた。

「吉羅さん……? あの」
「ん? なんだね。日野君」
「どうか、しましたか?」

 ── いけない。
 繊細なこの子には気付かれてしまうんだった、か。

 私はいつもの顔を取り繕うと、彼女の背を押した。



「いや。なんでも。君は、これから行くレストランのことでも考えていたらどうだね?」
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