*...*...* Trees 2 *...*...*
 たまに食事に行ったり。高名なヴァイオリニストの演奏を聴いたり。
 そういうのを付き合っている、と定義するなら、吉羅さんと私は付き合っている、と言えるのかもしれない。

『音楽の同士として、これからもよろしく』

 1年前にそう告げられた。
 それから、唯一変わった、と思えるところは、星奏の練習室を、私用に1つ確保しておいてくれるところだろう、って思う。

 いつ行っても。週末でも、祝日でも。
 吉羅さんの名前で予約してあるその部屋は、いつからか私がヴァイオリンを奏でる、大切な場所になっていた。

「いたた……。今日も左肩が上がらないよ」

 廊下を歩きながら、周囲に人がいないことを確認して、ぐるぐると肩を回す。
 あれ、今日は、左肩だけじゃなくて、首の後ろから、全体が重い感じがする。……怠い。気のせいかな?

「香穂。あんた、ちょっとシゴかれすぎなんじゃないの!? 大丈夫?」
「あ、天羽ちゃん!」

 私はにぎやかな声を聞いて振り返った。
 ここは、音楽科棟。普通科の天羽ちゃんがいるなんて珍しい。

「あれ? って、香穂? あんた少し顔色が悪いような気がするんだけど?」
「え? そうかな? いつも通りだよ?」

 私は笑顔を作って、天羽ちゃんを見上げる。
 もうあと3ヶ月で卒業する、ということが、天羽ちゃんを不安に駆り立てているのかな。
 最近の天羽ちゃんは、学院内 神出鬼没な印象がある。
 後輩くんに慕われている天羽ちゃんだから、質問されればどこだって飛んでいくんだろう。

「とかなんとか言っちゃってさー。ちょっとお試し。えいっと〜」
「い、いたい……!」

 ふざけて天羽ちゃんは、いきなり私の左肩を摘み上げた。
 ヴァイオリンを肩に乗せ続けているせいか、そこだけは、いつも朱く、皮がむけた状態になっている。

 私の痛がりっぷりに、天羽ちゃんは眉を顰めた。

「やっぱりね。あんた、ヴァイオリンの練習、ちょっとお休みさせてもらったら?
 この天羽菜美の勘は当たるんだよ。あんた、ホントに顔色悪いし、さ」
「そう、かな?」

 確かに最近、疲れがひどい、っていうのもあるんだけど……。
 でも、こんなにヴァイオリンだけに浸らせてくれる、今の環境って貴重だもの。
 卒業まであと4ヶ月もない。やれることは全部やっておきたいな、って思うんだよね。

 私の笑い顔を見て、天羽ちゃんは納得したのか、今度はいつもの意味深な笑顔で聞いてくる。

「そうそう。香〜穂。そういえば! 理事長さんは元気?」
「え? どうしたの、いきなり……。うん。いつも学院の中、歩いてるよね?」
「はぁ……。それって、付き合ってる人間同士の情報じゃないよ」

 天羽ちゃんはがっくりと肩を落として、ため息をついた。

「ねね、香穂〜。あの理事長さまと、一緒にどこか行ったり、とかはないの?」
「たまに、ある、かな?」
「じゃあ、核心に近づきつつ、っと。『日野君、君はよく頑張ってるね……』ってキスされたりとか」
「はい!? 天羽ちゃん、な、なに言ってるの! ない、ない!!」
「って、そこまではっきり否定しちゃう、ってことは、それ以上のこともないってことかー」
「な、ないよ! そんなの……」

 勝手に気持ちが焦って、私は周囲を見回した。
 天羽ちゃんの声、ってよく通るんだよね。こんなこと誰かに聞かれてたら恥ずかしいよ。

「ってかさ、そんなストイック的恋愛って、あるんだ。ホントに、あんたと吉羅さんって付き合ってるの?
 今週末はクリスマスもあるんだし。高3なんだよ? 子どもじゃないんだよ?!」
「んー。キス、か……。あ、ヴァイオリンには良くキスしてるんだけどねー」
「ダメだ、こりゃ。吉羅理事長は、香穂の完全なる『あしながおじさん』、ってワケね」
「あはは、そうなのかな?」

 天羽ちゃんのジョークを聞きながら、吉羅さんと出会ってからの1年を考える。

 決して短くない間、吉羅さんと接していて分かったことがある。
 私がヴァイオリンを弾くと、赤味を帯びた目が、切なげに細められたり、楽しげに笑ったりする。
 意地悪な口調で、なにくれとなく、私のことを気遣ってくれている。

 そして、時折。本当に時々、だけど、
 吉羅さんが、ヴァイオリンを弾いてくれたりもする。

 男性のヴァイオリンは、こうあるべきだ、とも感じさせる、力強いピッチと豊かな音色が部屋中に広がる。
 それは、リリやファータたちが、心からこの人を大事に、また、吉羅さんも音楽やヴァイオリンを愛してるんだ、と思わせる音。
 男の人にしては華奢な、長い指が、ヴァイオリンの弦を押さえていくのを見るのが好き。

 2人でヴァイオリンを中にして会う。話をする。

 そんな時間が、とても大切で、次の日も、1週間後も、1年後もずっと続けばいいと思っている私は、
 私の中では、立派に吉羅さんに恋をしている、って言い切れるんだけどな。
 ダメ、かな? それじゃ、天羽ちゃんの恋愛尺度に合わないのかな?

『付き合う、という定義、か。
 君が私より年上になるか、文部科学省の役人になるか。
 有名なヴァイオリニストにでもなれば考えてあげよう』

 冗談交じりに笑っていた吉羅さんを思い出す。
 でもその態度は決して私を否定しているものではなくて、今の私たちの状態を心から楽しんでいるようにも思えたから、
 私は全然気にしていなかった。
 だけど、この話を天羽ちゃんにしたなら、また大絶叫を返されるに違いない。
 で、でも……。私が吉羅さんより年上になる、ってどうやったらなれるんだろ。

「あ……」

 廊下。天上。窓。壁。
 ふいに、まっすぐに見えていた全てのモノが、今まで見たこともないような形に曲がっている。
 天羽ちゃんの顔が見えない。
 あれ、なに? これ……。
 天羽ちゃん、確か何度も、私のこと、顔色が悪い、って言ってたような……。それと関係あるのかな。

「か、香穂!?」

 天羽ちゃんの声が遠くに聞こえる。
 身体中の力が抜けていく。立っていられない、かも。

 楽譜たちはあとでもフォローが利く。
 だけど、ヴァイオリンは代わりがないから。だからケースだけは、しっかり掴まえておかなきゃ……。
 そう思いながら、私の目の前は真っ暗になっていった。
*...*...*
「……ん……」

 軽く身じろぎをする。
 深く息が吸い込めるのを不思議に思って、胸の辺りに手をやる。
 微かに緩められている胸元に、私は白い天上と、柔らかい蛍光灯の色を見る。
 ……ああ、ここ、保健室なのかな?

 そろそろと窓の外を見つめると、そこには、早くも冬の夜が忍び込んできている。
 冬は夏よりも1日の時間が短いような気がする。どこか損したような気持ちになるのは私だけかな?

「私……」

 倒れる直前の時のことを思い出す。ああ、確か、私、天羽ちゃんと一緒にいたんだ。
 急に目の前が暗くなって……。そうだ。手に持ってたヴァイオリンは無事かな?

 窓とは反対側の、ベッドを仕切っている白いカーテンが揺れる。
 あれ、天羽ちゃん? あ、でも、待って。大きな影が3つある。
 もしかして、天羽ちゃんが須弥ちゃんと乃亜ちゃんを呼んで、また来てくれたのかな?

 影は押し殺したような低い声で、口を開いた。

「先生。あの、日野の様子は!?」
「あー。大丈夫ですよ。過労? 疲労? そんなもの。
 2、3日ゆっくりしてたら治ると思いますよ。金澤先生」
「おーおー。良かった。やれやれですな」
「じゃ、私、ちょっと用事があるんで。金澤先生? 日野さんの目が醒めたら、
 しばらく休んでから帰るようにと伝えてくれますか?」
「了解っと」

 この影たちは、保険医の先生と、金澤先生、だよね?
 明る過ぎる2人の口調は、私が倒れた原因が大したことじゃないことを教えてくれる。
 ── よかった。

 保険医の先生は朗らかな声で金澤先生にそう言いつけると、どっしりした足音を立てて遠ざかっていく。
 金澤先生の影は足音が遠ざかるのを確認してから、もう1つの影に向かって、さっきとは別人のような低い声を上げた。

「なあ。吉羅よ。お前さんももうちょっと日野をいたわってやったどうだ? ん?
 明らかに練習のしすぎだ。あいつもまだ18歳だ。友だちと騒いだり、遊んだりしたかろうよ」
「日野君の処遇については、すべて私が管理しています。余計な口出しは無用ですよ。金澤さん」

 吉羅さんはいつも通りの、抑揚のない声で返事をしている。

(ああ、吉羅さん。来てくれたんだ)

 自分が一番心細いとき、まっ先に浮かぶ顔は、もう私の中では、お母さんではなく吉羅さんになっている。
 そんなたわいないことが、身体の中心でほっこりと暖かい。

 吉羅さんの返事を聞いて、金澤先生はせわしなく保健室の中を歩き回っている。
 そして、何か決心がついたのか、もう一度吉羅さんのところに戻ると、吐き捨てるようにつぶやいた。

「あまり言いたかないが、このままでは、日野は、お前の姉さんの二の舞になっちまうぞ」

 金澤先生がそう言い捨てた途端、再び影が止まった。
 2つの影だけが大きく、白いカーテンに映っている。
 1つの影が作る握りこぶしが微かに震えているのが分かった。

「金澤さん!」
「……っと、すまない。余計なこと言ったな」
「……いえ」

 お姉さん……? 何度か聞いたことがある、吉羅さんのお姉さん?
 私が、吉羅さんのお姉さんみたいに……?

「あ、あの……。吉羅、さん?」

 不安が大きく水かさを増して、私はカーテン越しに声を掛ける。
 2つの影はビクリと大きく震えると、凍ったようにその場で動かなくなった。

「吉羅さん……」
「吉羅よ。お前、日野のそばについててやれよ。こんなときくらいさ」
「言われなくても、そうさせていただきますよ。……日野君。入らせてもらうよ」
「はい」

 吉羅さんは、白いカーテンを細めに開けると、するりと身を滑らせて入ってきた。
 心なしか肩を落として背を向けた金澤先生が、カーテンの隙間から見えた。

「どうしたんだね。自己管理もできないヴァイオリニストというのも、困るのだが」
「はい。あの、すみません……」

 怒っている口調とはうらはらに、吉羅さんの視線は、食い入るように私のあちこちに飛んでくる。
 まだ、頭がぼぅっとしてる。熱が出てきたのかもしれない。
 視界の中、吉羅さんの大きな手がかすめていく、と思ったら、それは、私の頬を包んでいた。

「── あまり心配させないでくれたまえ。私は、もう、2度とあんな思いはしたくないんでね」
「あんな、思い……?」

 吉羅さんは、私の問いかけをあっさりと切り捨てると、優しい手つきで私を抱き起こした。

「熱はないようだな。起きられるだろうか? もう遅い。家まで送っていこう」

 そう言うときびきびと立ち上がって、ふと、窓の外の景色を見つめている。
 私も つられて外を見る。

 正門前の明かりは、どこか寂しげにぽつんと立っていた。
 上品な風合いにスーツ。肩の上に保健室の照明が反射する。

 どうしてだろう。
 吉羅さんの背中を見ても。正門前の明かりを見ても。
 ── いつもは寂しげ、なんて、思わないのに。

「……姉の体調が優れないのを、こんな近くにいながらどうして気付いてあげられなかったのかと思うことがある。
 それが君の身の上にも起きたことで、私は多少なりとも動揺しているようだ。
 音楽のせいで君が不幸になるのなら、アルジェントも浮かばれまい」

 吉羅さんの背中が、微かに波打っているのが見える。
 黒い、上品なスーツ。いつ見てもそれはクリーニングに出したての清潔さを保っている。
 尖った肩が、寂しげに見えて仕方ない。


「いや、私は余計なことを話したようだ。すまない」


 吉羅さんは振り返ると、一瞬だけ私を抱きしめて、カーテンの外へと出て行った。
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