*...*...* Trees 3 *...*...*
 いつ頃からか気づいてた。
 人目を避けて、時折訪ねる理事長室で。
 日々のスケジュールが書き込んである予定表、毎月25日だけは必ず空白になっていたことを。

 その日が、平日でも休日でも関係なかった。
 以前、吉羅さんが好きだと言っていたコンサートが来たときも。

『すまないね。その日はどうしても抜け出せない用事がある』

 口ではそう言いながらも、彼の頬にすっと緊張が走っていたのを覚えてる。
 何ヶ月か、同じことを繰り返すうちに、知った。
 その日は吉羅さんのお姉さんの月命日だということを。

 だから、12月25日のクリスマスの今日も。
 私は吉羅さんの予定を聞かないまま、一人ある場所へと向かって歩き始めた。

「ありがとうございました〜。またどうぞお越しくださいませ」

 教会の近くの花屋さんで小さなブーケを買うと、ゆっくりと敷地内の墓地へと脚を運ぶ。
 行くことを微かに躊躇っていた気持ちは、お花屋さんの明るい声に押されて、少しだけだけど薄らいでいく。

 クリスマス、だもの。
 日頃信心深い私じゃないけど、こんな日だけは、神さまも私の言うことを聞き止めてくれるといいな。

「あ、雪……?」

 鉛色の空が、少しでも自身を軽くしたいかのように、自分の分身を撒き散らしていく。
 そんな空が羨ましく思えて、私は空を見上げて笑った。

 ── ね。今の私は、あの人に、何ができるんだろう。

 手にしていた白い花の上に音もなく、雪の結晶がまぶされる。
 白い花って、冬には寒々しいかな、とも思ったけど。
 初めて吉羅さんに会ったとき、あの人は大きな白い花束を持っていた。
 だから思ったんだ。今から私が逢いにいく人は、白いお花が好きだったんじゃないかな、って。

 一歩一歩、脚を進めて、私は、目的の墓標を見つけた。

「こんにちは。……私、来ちゃいました」

 吉羅、美夜さん。吉羅さんのお姉さん。

 金澤先生から聞いたことがある。
 吉羅さんの、2つ年上のお姉さん。金澤先生と同じクラスだった人。
 美夜さんは、臈長けて美しく、優しい女の子だったと。

 ヴァイオリンを弾き続けて。夢中になって。
 自分の身体の変調にも気づかないまま、18歳で逝った人。

 吉羅さんがクリスマスを嫌ってると聞いたのは、金澤先生からだった。

『え? どうしてですか? 私、サンタさんからプレゼントがもらえなくなった今でも大好きなのに』
『吉羅に言わせれば、神も仏もないんだってよ。その日は。こうとも言ってたかな。『愚かな日だ』って』
『愚か……?」
『── あいつの姉さんが亡くなったのがクリスマスだったからなー。それと関係あると俺は見ているが』
『え?』
『あーっと。……ったく。お前さん、こんなこと、俺から聞いたなんて言うなよ?』

 白い息が空に昇って消えていくのを、淡々と眺めて、そう教えてくれた金澤先生の口元を思い出す。

 どうしてだろう。会ったこともない人なのに。

 18歳だった。星奏の人だった。ヴァイオリンをやっていた。ファータと友だちだった。
 数ある共通点に、彼女の気持ちが同化する。

「あの……。初めてね、吉羅さんを知ったのは、去年の秋のことだったんです」

 美夜さんは、クリスマスの日、18歳で亡くなる日。どんなことを願ったのかな。何を思ったの?
 どうして吉羅さんは、お姉さんのことを話すとき、今もあんな痛そうな顔をするの?
 ね、今の私に何ができるの?

 私は目の前の可愛らしい墓石が、昔からの友達のような気がして、ポツポツと話し始めた。
 きちんと手入れが行き届いているんだろう。
 ヴァイオリンの形をした墓石には、
 『MIYA with the vilolin (美夜、ヴァイオリンと共に)』
 という文字が、流れるような優しい書体で書いてある。

「私ね、初めて会ったときは、正直言って吉羅さん、苦手でした。
 だっていきなり、星奏を2つに分割する、って言うんだもの」

 私はブーケをヴァイオリンのペグのところにそっと置いた。
 どのヴァイオリン奏者も、ヴァイオリンの調子を気にしながら演奏してる。
 演奏が終わるたび、始まるたび、一番最初に触れる部位。
 多分、美夜さんが一番たくさん触れた場所に。

「でも今は……。吉羅さんの悲しそうな顔は見たくない、って思うんです。
 あ、えっとね。他の人から見たら、悲しんでるようには見えないんだけど……。
 怒ってるみたい、って友達は言うかな。だけどね、どっちにしても私は見たくないんです」

 いつも見慣れている優しいフォルムが、私の気持ちを解き放してくれるみたい。
 私は、墓石の高さにしゃがむと、久しぶりに会った旧友に向かっているかのように話し続けた。
 ところどころが良い風合いに黒ずんでいる石のヴァイオリンは、本当に愛らしい。
 石なのに。もしこれに弦が張ってあるのなら、今すぐにでも軽やかな音を響かせそうな気がする。

「感心しないね。病み上がりの君が、こんな寒いところにいるとは」
「あ、吉羅さん!」

 教会から墓地へと続く小径で、吉羅さんは不愉快そうに私を一瞥した。
 そして、私の横に立つと、コートを脱いで私の肩に掛ける。
 大きすぎるコートからは、理事長室に入るたびに感じる、優しいトワレの香りがした。

 吉羅さんは、私が置いた花束に目を留めると、石に刻んである名前を撫でた。

「白のコート、か。後ろ姿の君を見たときは、姉がそこに立っているのかと思ったよ」
「はい……」
「君と姉はよく似ている。ヴァイオリンを奏でるところも。音楽の妖精に見初められたところも」

 吉羅さんは手慣れたように、美夜さんの墓石を撫でると、一抱えもある大きな花束をそっと足元に置いた。
 そしてタイの上、軽く十字を切ると、頭を下げている。
 つられるままに私も同じことをする。そして、心の中で彼女に問いかけ続けた。

 苦手だった吉羅さんのことを、いつからか、頼りにしてる自分がいたこと。
 ヴァイオリンの練習も、それらに付随する環境も。

 天羽ちゃんからしてみれば、確かに私と吉羅さんは、『音楽』という架け橋がなければ、成り立たない関係だったかもしれない。
 だけど、1年経った今、振り返ってみて思う。
 私たちは、音楽という枠組みの中で、確かにお互いの気持ちを交換し合ってきたんだ、と。


 どれくらいそうしていたんだろう。
 吉羅さんは深い眠りから覚めたようにまぶたを上げると、淡々と話し始めた。

「── 白血病だったんだ」
「吉羅さん?」
「私と姉は、ヴァイオリンを通じて、殊の外、仲が良くてね。
 幼い頃から、普通の姉弟にありがちなケンカということを一度もしたことがなかった。
 姉は、姉であるとともに、私の一番身近なヴァイオリンの恩師でもあったからね」

 低く、くぐもった声に私は耳を傾け続けた。

「私が高1、姉が高3の秋だった。
 なんとなく身体が怠い、という姉に、私は文句を言った。
 姉は次の春、留学も控えていた。今、少しばかり実力があるからと過信してはいけない、と」

 私は、同じ口調でいつも注意を受けている時のことを思い出して微笑した。
 きっと、高校時代の吉羅さんも、今の吉羅さんも、同じような感じかな?
 孤高で、美しくて。そして厳しいんだ。他人にも、そして自分にも。

 嗚咽を堪えてるような掠れた声が、空から降って止まない雪のように落ちてくる。

「ぎりぎりまで、姉は頑張っていた。熱があるのも押し隠して練習して」
「吉羅さん」
「自分の部屋で吐血して。医者に診せたときには、もう1週間も保たないだろうと言われた」
「吉羅さん! もう、やめて」

 言葉を繋ぐたびに、吉羅さんが傷ついていく。
 それをやめさせたくて、私は必死に彼の腕を掴み続けた。

「血の海のような部屋の中、姉のヴァイオリンだけは、きちんと机の上に置いてあったよ。
 きっと、楽器に血が付くのを嫌ったのだろう」

 美夜さんは、きっと、もう、吉羅さんが傷つくことを望んでない。
 吉羅さんは、振り続けている私の手をするりと自分のてのひらに押し込んだ。

 そして、お墓の横にひっそりと植えられているモミの木を撫でると立ち上がる。

「父が植えたんだ。姉の命日がクリスマスだったからね。
 クリスマスが好きな子だったから、プレゼント代わりにと」

 真冬のこの時期でも、新緑のような力強い色をしているモミの木を、私もそっと撫でて、積もっていた雪を落とした。

「今になっても、考える。きっと私は一生考え続けるのだろう。
 どうして、一言、優しい言葉をかけてあげられなかったのかと思う。
 現代の医学のことだ。早くに検診を受ければ、今も姉は生きていたのかもしれない」

 吉羅さんは疲れたような微笑を浮かべて、ゆっくりと私の方に顔を向けた。

「── 私を、抱きしめてはくれないだろうか」

 孤高なまでの広い肩が、少しだけ小さく見える。

 今の吉羅さんなら、十分私でも抱きしめてあげられるかもしれない。
 私は頷くと、そっと彼の肩に手を伸ばす。
 今まで、なにかの偶然で、それ以外は、音楽的理由で、手と手が触れあうことはあったけど。
 こうして、お互いの確実な意志を持って、触れあうのは初めてだった。

 どうしたら、吉羅さんの期待に添えるのか、わからない。でも、放っておけない。
 もう、お姉さんのことで、自分を責め続ける吉羅さんは、見たくない。

 私は両手を広げると、吉羅さんの背中に腕を回した。
 ぎゅ、っとちからを込める。
 でも、どれだけ這わしても、広い荒野のような吉羅さんの背中の上、手と手が出会えない。

 これで、いいのかな……? わからない。
 でも分かっていることは1つある。

 今できることは、私にできる精一杯を、この人にぶつけることだけだ。

 吉羅さんは、私の胸の中、ほっと深く息をつくと、私の身体を抱きかかえた。

「共に音楽の道を極める、同士としてではない。── ただ純粋に君を抱きたい。
 もし私がそう言ったら、君はどうするかね?」
「吉羅さん……」
「どうした? 逃げるなら、今のうちだと思うが」

 おどけたような声が耳元で聞こえる。

「ううん。私、逃げません」

 額に冷たいモノが落ちてくる。
 雪かと思って見上げると、そこには、吉羅さんの唇があった。

 胸の奥が痛い。
 今の私は願うことがある。
 ささやかだけど、大切で。他のことは、すべて放り出してでも、叶えたいこと。

 私の身体から、吉羅さんの唇を通って。
 吉羅さんの凍てついたような心が、ほんの少しでも暖まればいいのに。

 ── できるかな? 私に、できる?

 吉羅さんは最後にもう一度、愛しげにモミの木を撫でると、私の肩を抱いて歩き始めた。



「『逃げません』か……。君もなかなか気が強い。
 ── 今の言葉、確かに聞いたよ。もう後戻りはさせない」
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