*...*...* Canaria 1 *...*...*
書面に集中していたら、あるいは聞こえなかったかもしれない遠慮がちなノックが、ドアの向こうから聞こえる。窓の外を見る。
立春を過ぎ、最近は少しは日は長くなってきたものの、
理事長室から見える正門前のファータの先には影が長く濃く伸びている。
もう30分もすれば夜の暗さに負けて見えなくなるだろう。
「……誰かね?」
「吉羅、さん? あの、日野です」
「ああ、君か。開いているよ。入りたまえ」
「はい。失礼します」
附属大学の内定も決まり、試験前よりは晴れ晴れとした顔で香穂子は理事長室に入ってきた。
昼休み、森の広場で練習しているのを見かけたとき、
私が放課後ヴァイオリンを持って、理事長室に寄るように声をかけておいたからだ。
香穂子は暗い廊下から急に明るい理事長室に来たからか、まぶしそうに目を細めて私の顔を見ている。
「あの……。なんでしょう?」
「いや。久しぶりに君のヴァイオリンを近くで聴きたい、と思ってね」
「……聴いてくださるんですか? 嬉しいです!」
呼び出しの理由が何なのか見当が付かず、不安だったのだろう。
私が目的を告げると、香穂子はみるみるうちに顔をほころばせた。
「最近……。入試が終わってから、なんだか気が抜けちゃって。
大学に入学する前に何かしておかなきゃいけないのかな、って、
なんとなく練習にも身の入らない状態が続いてたんです」
「ほう」
「そうしたら、オケ部帰りの火原先輩が、『そういうときも貴重だよー。リラックスリラックス』って、声をかけてくれて。
……えっと、ほら、高2からずっと、コンクールだの、アンサンブルだの、コンサートだの、って
忙しいのが普通になってたから、じっとしているのが落ち着かない、っていうか……」
私は、少しずつ言葉を選んで話し続ける香穂子を、ただただ見つめていた。
── 何度か、抱いたからだろうか?
人は抱き合えば抱き合うほど、愛しさが増す動物なのだろうか。
……いや、そうとばかりは言えない。私は自分の過去を振り返る。
かならずしもその問いは、真ばかりを返すものではなかったはず。
徐々に疎ましく、鬱陶しく感じる相手もいたはずだ。
では、香穂子は?
── 彼女は、今までの女となにがこんなにも違うのだろう。
今までどの女であっても、抱く前と抱いた後では私に見せる態度というのが変化していった。
ある者は厚かましく。ある者は不貞不貞しく。
しかし、香穂子の場合は、全く変わらない。
学院で会ったときの笑顔も、週末の過ごし方も。
そんな香穂子の素直な変わらない態度が、私を不安に駆り立てているのかも知れない。
手懐け始めた、カナリア。
こちらから近寄ろうとすれば、怯えたように後ずさりする。
しかし、こちらが両手を広げて待っていれば、不安げに首をかしげながら寄ってくる。
今の香穂子はそんな状態、なのだろうか。
「ごめんなさい。話しすぎました。……えっと、なんの曲を弾きましょう?」
調弦が済んだのだろう。
香穂子はヴァイオリンを肩に乗せると私に柔らかい笑顔を見せた。
「……そうだな。恋の曲を」
「恋、ですか?」
「ああ。今、君が奏でることができる1番の曲を」
香穂子は、恋と聞いてうっすらと頬を赤らめた。
自分自身の顔の火照りが、香穂子に反射しているようで、照れくさいような思いが沸いてくる。
香穂子はちょっと考え込むように、理事長室のソファを見つめていたが、やがて考えが決まったのか、まっすぐに私を見つめた。
「決めました。では、カノンを」
「カノン?」
「パッヘルベルのカノンです。よろしくお願いします」
「……これはまた、面白い選曲だ」
香穂子は唇を固く引き結ぶと、鋭いまなざしで弦を押さえる指を凝視した。
具体的な曲名を挙げなかったのだから、彼女の選択に、意見を言える立場ではない。
私は椅子に深く腰掛けると、静かに目を閉じた。
多分……。
今の、私は目を閉じていても、目を開けているとき以上に香穂子の様子を察知することができた。
ヴァイオリンを肩に当て。
そして、あごとヴァイオリンの間には、私が使っていた男物のハンカチを挟んで。
心持ち、脚を広げ、そして、曲に集中するために一点を見つめる。
演奏者の精神力が最高に張りつめた瞬間から、その人の音楽は始まる。
そうやって聴衆を引き寄せるのだ。
── 私がヴァイオリンをやっていて良かったと思うのはこんなとき。
ヴァイオリン奏者の、いや、香穂子の心の動きが手に取るように分かる。
やがて、静かに一声のカノンが流れてきた。
本来、パッヘルベルのカノンは、三声の単純な同度カノン。
ヴィオラなり、チェロなり、弦がヴァイオリンの後を追うと美しい。
しかし今この場に、他の二声はいない。
香穂子は丁寧に奏で続ける。
文学なり絵画なり、そして音楽なり。
人は言葉では伝えられない想いを得、持ち続けることに耐えきれなくなったとき。
初めて、芸術という手段を選ぶのだと聞いたことがある。
カノンは、それほど難易度が高い曲でもなく、ましてや恋の曲でもない。
私は彼女がそんな曲を選んだことを疑問に思った。
だが、響いてくるヴァイオリンの音は、明らかに恋の曲になっている。
喜び。愛しさ。不安。そして、とまどい。
それらの感情を織り交ぜた音は、切々と胸に迫る。
香穂子自身よりも、香穂子が奏でるヴァイオリンの方が情熱的なことを不思議に思う。
そして、そうだからこそ、香穂子の以前と変わらない態度を納得していたりもする。
意識下か無意識下かはわからないまでも。
この子も、この子なりに、私との関係で思うところがあるのだろう。
そして、その想いを、私にぶつけることなく、ヴァイオリンで昇華させていたのだ。
もし、今、ヴァイオリンに考える意志と、話すための唇があるのなら。
ヴァイオリンが吸い込んだ香穂子の気持ちを聞いてみたいものだ。
溢れ出すのを止められない想いが、弦から、弓から広がっていく。
── 私は、私に対する香穂子の変わらない態度の理由が分かったような気がした。
「ブラボー」
1人きりの間の延びた乾いた拍手の後、香穂子は我に返ったように一礼すると、顔を上げて笑った。
「……確かに今の曲は恋の歌だったと言っていいだろう」
「はい……。あのね、今の私は、吉羅さんのことを考えるだけで、どんな曲も恋の歌になっちゃうんです」
若さ、なのか。これがこの子の性格なのか。
駆け引きなどかけらもない、どこか誇らしげに笑う香穂子に対して。
── このときの私は、立場や体裁、この場がどこであるかと考える余裕を無くしていたといっていい。
「香穂子。……ヴァイオリンを置いて、こちらにおいで」