*...*...* Canaria 2 *...*...*
 香穂子の腿あたりに散った飛沫を拭き取る。

 制服の合間から見える、白い胸。
 右足首に、淡い色の下着が引っかかっている。
 下着を取る時間も惜しかったのだと、さっきの私なら開き直れるだろう。
 だが、情事が終わったあとに見る小さな布は、もう少し私が余裕を持つようにと、無言の非難をしているように思えてくる。
 ── そう。
 もっと時間をかけて、ゆっくり香穂子を可愛がってあげたらどうだ、と。

「……風邪を引くといけない。早く身なりを整えるといい」
「はい……」

 身体を離した後、自分の言い草がやや冷たかったのではないかと我に返る。
 日はとっぷりと暮れかかっているものの、この部屋の照明は明るい。
 私は、スーツの上着を脱ぐと、香穂子の身体にかけた。

 じっと見ているのも彼女が恥ずかしかろうと、私は窓際に寄って、ファータが立つ正門前へと目を向けた。
 冬枯れの星奏は、今が一番寂しい景色なのだろう。

 密やかに衣擦れの音が続いている。

 これから日1日と、日は長くなり、青葉は繁る。
 それは、今抱いた女の子の限りない可能性を示しているようにも見えてくる。

 彼女がカナリアなら、この理事長室はさながら鳥カゴといったところか。
 寒さからも。そして不安も、彼女にとって負なるものを全て取りよけ、彼女を守る。
 ── 今の私に、それはできているのだろうか?
 愛しさが、こみ上げてくる。このままでは、2度、3度と彼女を壊してしまいそうだ。

 たった今まで感じていた身体の疼きが、徐々に平穏に戻っていく。
 しかし、この彼女といるこのぬかるんだ空気がひどく自分に心地良い。

「……びっくり、しました……」
「は?」
「いえ。あの、急に……だった、から」
「急に君が欲しくなったのだから、仕方ない。……許して欲しい」
「ううん? そんな……」

 身支度を終えた香穂子が、ゆっくりとした足取りで、私の横に立った。
 春の残照を得た校庭を、香穂子は懐かしそうに見つめる。
 ── あと2週間で、香穂子はこの学院から卒業する。

「あ、あれ? 今、何時ですか?」
「6時を少し回ったところだが。……おや?」

 香穂子は私の様子に頷くと、首をかしげて、小さく響き渡ってくる音に耳を傾け続けた。
 これは……。私は旋律を追う。
 学院中を包み込むようにして流れているのは、エルガーの『愛の挨拶』だ。
 遠く、低く、地鳴りのように感じていた音楽は、今は、まるで温かい部屋で聴く室内楽のような優しい調べで胸に迫ってくる。

「……ったく。酔狂な輩たちだ」
「すい、きょう……?」

 私は、ある予感に独り頷くと、やれやれと首を振った。
 こんなたいそうなことをする輩は、ただ1人。……あれ、だ。

「吉羅暁彦、おめでとう、なのだーー!!」
「リ、リリ?」

 突然、目の前に光り輝く小さな者が現れたかと思ったら、それはやはり、自慢げに杖を振りかざしているアルジェントだった。
 いや、今日は数人仲間を引き連れてきたのか、ちらちらと、後ろに動く影がある。
 ……彼らの前では、文明の利器である、鍵だの防音だのはまるで効果がない、というのは分かっていたがね。
 まさか、こんな風に私たちの間に入り込んでくるとは。

「リリ。こんにちは。今日はファータちゃんもいるの?」

 香穂子は嬉しそうにリリを手の平に載せ、髪の毛を撫でている。

「お? ああ。一応修行見習い、といったところの者でな。ほれ、2人とも挨拶をするのだ」

 アルジェントが背中に隠れていた2人促すと、アルジェントとは違う色の羽が瞬いた。

「……ポリムです」
「トポロよ? 初めまして」
「ポリム。初対面から、そうブス〜としないのだ。トポロ。お前は吉羅暁彦に色目を使わないのだ!」
「はっ……」
「あら? だって、吉羅さま、って結構いい男なんだもの。ふふっ」

 ポリムと呼ばれたファータは、眠そうな目を上げたものの、嘆息のような返事を返す。
 その代わり、トポロと呼ばれたファータはにぎやかな声を上げた。
 私は腕を組んで、アルジェントとファータの3人の顔を見比べる。

「……で? 用件は?」
「お?」
「ここに来た用件はなんだ、と聞いている」

 ポリムは胡散臭そうな顔をして、トポロというファータはうっとりとした目で、私を見上げている。
 これはまた両極端な反応であるともいえる。
 アルジェントは せわしなさそうに羽根をバタつかせながら、高らかに声を張り上げた。

「吉羅暁彦の誕生日に引き続き、我輩たちは吉羅暁彦のお祝いに来たのだ。おめでとうなのだ!!」
「だから、なんの祝いなのかと聞いているんだが」

 わけがわからない。
 今は2月。私の誕生日でも、香穂子の誕生日でもない。
 大体 誕生日であったとしてもこの歳になって、おめでとうもないだろう。
 あえて言えば、香穂子の合格祝い、か。
 仮にそうだとしても。
 それは私と香穂子2人で祝えばいいことであって、敢えてこの3人を呼ぶということは私の考えの片隅にもない。

 アルジェントは自信たっぷりに私の顔を見つめて言った。

「もちろん、吉羅暁彦が、日野香穂子に心を開いたお祝いなのだ。我輩は嬉しいぞ。ううっ」
「……は?」

 私は香穂子を振り返った。

 ── 心を開いた? この私が?
 今の私の状態を、心を開いている、というのだろうか?
 ……だとしたら、私は、この年端もいかない、少女に、心を開いたのだろうか?
 開いているからこそ、彼女の身体に自分を埋めるのがこれほどまでに気持ちが良くて。

 ── そして、何度でも、と身体が欲するのだろうか……?

 アルジェントは深く頷くと、私の目の前で杖を振っている。

「今日は良い機会なのだ。吉羅暁彦に聞くのだ。日野香穂子といつからこんな風になったのだ!」
「リ、リリ??」
「……こんな風、というのは?」
「そ、その……っ。大人のお前なら、きっとボキャブリリーも豊富なのだ。その……っ」
「リリさま。『ボキャブリリー』ではありません。『ボキャブラリー』かと。『語彙』、つまり言葉の豊富さ、という意味かと」
「ポリム? まあ。いいんじゃなくて? そこは突っ込まなくても」

 さっき自分の名前を告げて以来一言も口を利かなかったポリムの肩に、トポロは腕を回してなだめている。
 やけに艶っぽいこのファータは、たった今まで香水の瓶に首まで浸かっていたのではないかと思うほどの香りを振りまいた。
 アルジェントはトポロに向き直ると、顔を真っ赤にさせて言い募った。

「し、しかし、我輩……。気になるのだ! こう、日野香穂子のヴァイオリンが、艶っぽいのだ!
 こう、ずっと聴いていたい、というか、面白い小説の続きのような、ストーリー性を感じるのだ!!」

 強い香水の匂いをちらつかせたファータが、鼻で笑った。

「リリさま。そういうのは想像するのよ。
 例えば、……香穂子ちゃんの音色が変わったのはいつからだろう、とか、ね?」
「あ、あの? トポロちゃん?? あの、言わないで……っ!」
「アタシが察するに、お正月明けてから……?
 もっと正確に言えば、吉羅さまの誕生日が過ぎた辺りから、かしら? ふふ? アタリ?」

 香穂子は寸分違わず言い当てられたのが居たたまれないのか、おろおろと唇を動かしながらも絶句している。

 私の誕生日。
 ── そうだな。初めて香穂子を抱いたのはクリスマスだった。
 そして初めて、香穂子を家に帰さなかったのは、私自身の誕生日だった。

 いつ眠ったのか、いつ覚醒したのか。
 ぴったりと線引きなどできない あの夜、私は香穂子を腕の中から1度も出さなかった。
 私とのふれあいの中で、痛みだけを感じるのではなく、快感を味わって欲しい。
 そう願って、何度も自身を香穂子の中に押し込んでは引き抜いた。
 あの夜、最後に聞いた香穂子の女の声は、今も忘れられない。

 ── そう。あの日からだ。

 あの日から、香穂子の音色はたおやかに、強く、そして優しくなった。
 寒さの中、正門の前でヴァイオリンを奏でる少女に、学院中の生徒が目を向ける。
 音に惹かれて。
 そして彼女自身の美しさに目が離せなくて。

 あれからの日々は、香穂子が美しく変わった原因を、自分だと思いたくて。
 でも思えないまま、過ごしてきた1ヶ月だったと言っていい。

 香穂子はトポロの口を塞ぐべく、必死になって追いかけている。

「想っている人から、想われる。……心も、そして身体もね。
 それがどれだけ気持ちいいか、って、多分男にはわからないでしょうね」
「トポロちゃん。は、恥ずかしいから、もう言わないで……。吉羅さんが聞いてるんだもの!」
「あら、なぜ? 吉羅さまに抱かれて、ス ゴ ク、よかったでしょ?
 ふふっ。お2人ともお幸せにね。今だから言うけど、リリさまったら、そりゃもう喜んでいたのよ〜。
 毎日、毎日、あの吉羅暁彦と日野香穂子が……、なんて年寄りみたいに同じこと言って」
「ううう……。トポロ、全く、お前は少し口が過ぎるのだ!」
「あ、お目玉が落ちる前に、アタシ、退散するわね! じゃあね」

 羽根つきファータは香穂子の手の届かないところをふわふわと浮遊しながら、いいたいことだけ言って、姿を消した。
 じろりとアルジェントに目をやると、彼はすまなそうに頭を掻いている。

「その……。もう少し、修行をさせるのだ!
 あの者は、初めて吉羅暁彦や日野香穂子に会えると言って、盛り上がってしまったのだ!」

 香穂子とトポロの騒ぎを、止め立てするわけでもなく、ぼんやりと静観していたもう1人のファータが口を開いた。

「……だから、今回、僕はご一緒したくなかったんですよね」
「ポリム?」
「いつも、『吉羅さま〜、ス テ キ!』などと、ひどく盛り上がっているトポロを連れてきたら、
 トポロが香穂子さんをからかうであろうことは、火を見るより明らか。
 それが分からないリリさまでもないでしょうに」
「う、確かにそうかも、なのだ……」
「僕もそろそろおいとましますよ。あとのお2人のフォローをよろしくお願いします」
「おい。待て。待つのだ、トポロ!」

 アルジェントの呼びかけも聞かず、もう1人のファータも羽を広げて、部屋の隅へと消えていった。
 ……これでは、アルジェントとファータ。どちらが地位が高いのかわからないな。

「アルジェント。そろそろ我々は夕食の時間なんだが」
「いや、悪かったのだ! 我輩はただ、おめでとう、と言いたかっただけなのだ〜」

 リリは、怒りなのか焦りなのかわからないような朱い顔をしながら謝っている。
 そしてまだ、言い足りないことがあったのか、今度は真面目な面持ちで香穂子の方に向き直った。

「……日野香穂子」
「ん? リリ、どうしたの?」
「吉羅暁彦を頼んだのだ。こいつが、これほどまでに心を開いた人間は、あれ以来、日野香穂子が初めてなのだ」
「……あれ、以来?」
「アルジェント」
「……お前のような優しいヴァイオリン奏者だった。本当に美しい曲を奏でる少女だったのだ……」
「アルジェント。それ以上は慎みたまえ」

 やや強い口調で2度遮ると、私の顔色を読み取ったのか、リリは早口で別れの挨拶をして消えていく。

「うう、我輩、今日は失言に失言を重ねたのだ。本当にさらばなのだ!」




「……今日はびっくりすることばかりです」
「いかにも」

 香穂子は大事そうにヴァイオリンをケースに片付けると、コートを羽織った。
 春近しといえども、まだ夜は寒い。
 私もコートを羽織ると、彼女より1歩先にドアの前に立つ。

 それにしても本当に騒がしい輩たちだ。
 ファータが見える自分の血筋が憎々しい。
 こういうときに限っては、香穂子はファータが取り持ってくれた縁だということも忘れて、ファータを恨みたくなる。

「……ん?」

 ふいに背後から華奢な腕が伸びてくる。
 そう思ったら、小さな身体が、私の背中を抱きしめている。

「……香穂子?」
「あ……。な、なんでもないです。あの、行きましょう?」

 数秒が経ったあと、香穂子は腕をほどいた。
 そしてたった今の自分の行為を恥じるかのように、目を伏せている。


 すらりと伸びた睫が濡れている。
 そのわけは、今夜、何度も口づけを交わして、別れるのが名残惜しくなったとき聞いてみることにしよう。
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