*...*...* Growth 1 *...*...*
 ダイニングの窓から覗く北の空は、今日もどんよりと湿っている。

「今日も雪かなあ……」

 私の家から星奏学院はちょうど北の方角にある。
 だからかな。夏は気持ちいい青色が広がっている空も、冬は重苦しい鈍色が立ちはだかっていることも多い。

「いいじゃない。今日から冬休みなんでしょう? 香穂子は決まった時間に行かなくてもいいんだもの」
「お姉ちゃん」
「せいぜい現実を謳歌しておきなさいよ〜。高校最後の冬休みなんだから」

 お姉ちゃんは勢いよく紅茶を飲み終えると、念入りに化粧を施した顔を上げた。
 そう。今日は学院に行く必要もない、冬休み初日。
 だけど、私は、朝ご飯を食べ終わると、いつもの調子で制服に着替え、相棒を手にして階段を一気に駆け下りる。
 1つは、ヴァイオリンの練習のため。
 そして、もう1つの理由。それは。
 ── 吉羅さんに会いたい。そう思ったから。

 昨日、吉羅さんと別れてから、初めてケータイのメールが届いた。
 内容は、ありがとうという感謝の言葉と、疲れが出るといけないから なるべく早く休むように、というシンプルな内容だった。

『携帯のメール番号を教えて欲しい』

 昨日、ホテルからの帰り道、吉羅さんにいきなりそう言われた。
 番号? と思わないではなかったけれど、その時初めて、私と吉羅さんは、
 音楽のこと以外ではなに1つ知り合えていなかったのかな。
 なんて、胸の奥がつねられたような気持ちに囚われたんだ。



「よぉ。日野! お前、こんな寒いのに、どうしたんだ?」

 練習室の前の廊下を歩いていると、いきなり大きな声で呼び止められた。

「こんにちは、金澤先生。えっと、今日は練習です」
「ふぅん。お前さんも頑張るなー。こりゃ吉羅もさぞ応援しがいがあるだろうよ」

 突然金澤先生の口から『吉羅さん』という言葉が出てきて、気持ちが慌てる。
 金澤先生は、吉羅さんと私のことは、多分知らない、よね?
 男の人たちだもの。そんな、女の子みたいに昨日あったことを洗いざらい話すってことはないような気がする。

 私の気持ちに気づかないまま、金澤先生は面白そうに吉羅さんのことを話し続ける。

「なあ。お前さんたちの年代にとって吉羅って魅力的なのか?」
「は、はい? えっと、どうなんでしょう……?」
「いや。昨日、スッポンの天羽と森がやってきてさ。あいつらも飽きないのな。
 今度は吉羅の特集を組むんだと。
 吉羅のヤツ、ガードが堅いからなー。口を割りそうな俺のところに話を持ってきた、ってとこだろう」

 金澤先生は屈託なさそうに笑うと、寒いのか白衣のポケットの中に手をつっこんだ。

「まあ、あの手の男って、クールなところが魅力、とかなんとか言って、やたらもてるんだよな」

 クール……。確かにそうかもしれない。
 この1年。ずっと吉羅さんのことを見ていたけど。
 今まで、吉羅さんが、感情に酔ったり、くだけたサマを見せてくれたり、ってことはほとんどなかった。
 そう考えて我に返る。

 ── 昨日は、特別、だったのかな。
 1番近くにいてくれたときは、普段より少しだけ、たくさん言葉を注いでくれたような気がする……。
 私は急に火照りだした頬を抑えるようにして、顔に手を当てた。
 どうしよう……。どうしてこんなに急に顔が熱くなるんだろう。

「あいつもさんざん遊び倒してきたからなー。そろそろ訳知りの女と年貢を納めてもいいころ、かもな」
「はい……」

『遊び倒して』という言葉に、なんとなくやり切れない気持ちが浮かんでくる。
 それはほんの1つぶの種なのに、勝手に育って、やがて私を押しつぶすほどに大きくなる。

 事実なのは、吉羅さんは私よりずっとずっと年上、ということだろう。
 だから私より遙かに人生経験は積んでいるのは当たり前、で。

 素敵な人だから、たくさんの女の人が寄り添ってきたのだろう、っていうのはわかる。
 そして、私が全然『訳知りの女』になりきれていないことも、悲しいけど、よくわかる。

「彼女に余計な助言は不要ですよ。金澤さん」
「おー。ウワサをすれば、ってか。と、ケータイか? 誰だ、こんな日に」

 ふいに細長い影が差した、と思ったら、金澤先生の背後に私が思い描いていた人がいた。
 今日はお休みの日、ということで、マナーモードにしてなかったのだろう。
 白衣の中、騒ぎ立てるように金澤先生のケータイが鳴った。

「お。悪い。じゃあ、日野。今年も頑張れよ〜」
「はい。今年だったら、あと、5日間くらいですね」
「おいおい〜。じゃあ、来年も頑張れ。な?」

 笑って言い返すと、金澤先生は苦笑を浮かべながら、私の髪を引っ張っていった。
 吉羅さんは、そんな私と金澤先生のやりとりを腕を組んで見ている。

「こ、こんにちは。吉羅さん」

 どうしよう……。こういうとき、なにを話したらいいの?
 3人でいるときには感じなかった居たたまれなさが、じわじわと身体中に広がっていくのを感じる。
 昨日の私の恥ずかしい様子を、吉羅さん、なんて思っただろう── 。

「……あ」

 吉羅さんは、さっき金澤先生が引っ張った方の髪をさらりと一束取り上げた。

「来年の1月3日。君の予定はどうかね?」
「はい?」
「星奏のOBによるレッスンが2日間行われる。参加する意志はあるかね?」

 私は頭の中でカレンダーをめくる。
 受験生、とはいえ、星奏の内部進学を希望している私は、他の受験生よりも少しだけ余裕がある。
 それに、レッスン、となれば、受験勉強も十分兼ねてるから、むしろ行きたい。
 1月3日と4日。……うん、この日は特に予定はないかも。

「はい。大丈夫です。よろしくお願いします」

 私は頭を下げると、吉羅さんは掴んでいた髪をそっと離して。
 そしていつもと変わらない様子で、理事室へと歩いていった。
*...*...*
「よお。香穂。アンタなら今日もいるかなー、と思ってさ」
「あ、天羽ちゃん!」

 昼休み。
 カフェテリアはお休みだから、と、近くに併設されている自販機のパンと飲み物で簡単なお昼を取っていると、
 げんなりした顔の天羽ちゃんがやってきた。
 外部進学の天羽ちゃん。
 しかも、報道関係に強い大学に行きたい、と言っている彼女は、かなりレベルの高い大学を狙っている。

「どう? 大変?」
「うん。でもまあ、自分の決めた進路だし。やるしかない、って感じ?」
「ん……。あまりムリしないでね」
「ありがたいことにさ。アタシ、文章だけはたくさん書いてきたでしょう? だから、小論は得点源になるんだ」
「そっか。得点源があるっていいよね」

 天羽ちゃんは長くなった髪をうっとうしそうにかき上げた。

「でもさー。アタシがこんな風に思えたのって、香穂たちの力が大きいかも」
「私たち?」
「そう。だってさ。アタシ、アンタたちからたくさん元気をもらったからねー。やればできる、とかさ。願えば叶う、とか」

 私は首をかしげる。えっと、なんのことを言ってるんだろう……。
 私、この元気印の天羽ちゃんに、そんなになにかエール送ることできたっけ?
 天羽ちゃんは懐かしそうな目をして、カフェテリア中を見回している。

「そうだよ。高2の秋のアンサンブル。アタシ、忘れてないよ。
 ホントみんな輝いてたよ。
 写真でも文章でも言い表せないことってあるんだ、ってアタシ、あのとき知ったもんね」
「私もね。高2になるまでは、自分が音大に進むなんて思わなかったなあ」
「あはは! そうだよね」

 本当に……。
 たった18年しか生きてないけど。この2年間ってかなり充実してたって今も思う。
 多分、数十年後、自分が暖かいベッドの上で亡くなるときも、この2年のことを1番愛おしく思い出すんじゃないか、って思えるんだもの。
 出会った仲間も。過ごした時間も。全部全部。
 私の大事な宝物だ、って胸を張って言える。

「ちょ! ちょっと、香穂!」
「ん? なあに? 天羽ちゃん」
「ほれ、あれ!」

 いきなり耳元に生暖かい息がかかる、と思ったら、天羽ちゃんが小声でなにかささやいている。
 彼女の指さす方向を見ると、そこには吉羅さんの姿があった。

「吉羅さん、アンタに話があるんじゃない? アタシ、退散してるよ」
「あはは。そんな、逃げるように行かなくても……」
「いいのいいの。あとで吉羅さんにニラまれてもね、ってところよ。じゃあね!」

 吉羅さんはまっすぐに私のところまでくると、私の手にしていたジュースを見つめた。

「今日は秘書が休暇でね。1人分のコーヒーを淹れるのも味気ない」

 そう言って内ポケットから大きな札入れを出すと、自販機にお札を入れている。
 取り出し口から出てきたのは、私が今飲んでいるモノと同じ、リンゴジュースだった。

「吉羅さんがリンゴジュース?」

 取り合わせが可愛くて思わず笑うと、すごく生真面目な返事が返ってくる。

「何か問題でも? 私は在学生の頃からこの購買の飲み物は気に入っているんだが」
「そうだったんですか」

 冬休み初日、ということで、もちろん私は午後の授業のために早く練習室に戻らなくては、という気持ちはあまりなかったし、
 それは吉羅さんも同じだったのだろう。
 吉羅さんはさっきまで天羽ちゃんが座っていた私の隣に腰掛けると、黙って私を見ている。

「あ。そうだ……。あの」
「ん?」
「高3のこの時期のこと、吉羅さん、なにか覚えていますか?」

 大学に進むことで、私の音楽の世界が広がることは分かっていて。
 大学生活を楽しみにしている私がいるのも事実。
 だけど、もう1人の私は、一歩前に進むことを怖がっているみたいだ。

 大好きだった星奏の時間を、このまま止めておきたい。ずっとこのままでいたい。
 休み時間の廊下で。放課後の正門で。
 何でもない折りに吉羅さんに会えるこの生活が、とても好きなのに、って。

 吉羅さんは一瞬考え込むように視線を落としたあと、浮かんだ考えを断ち切るかのように首を振った。

「君は、どうなんだね?」
「え? 私ですか?」
「今、何を思う?」
「今がずっと続けばいいのに、って思ってます。……でもムリだってこともわかってるんです」

 小さくなってしまったお気に入りの服。
 もう着ることはできない、ってわかってる。だけどどうしても捨てられない。そんな感じ。

 上手く説明ができたとは思えないけど、ときおり詰まる話を、吉羅さんは我慢強く聞いていてくれた。

 ときどき、吉羅さんの視線と私の視線が絡み合う。
 顔を上げるたびに、目が合う、っていうことは、吉羅さんはずっと私を見ているのかな。

 昨日の夜のことを思い出すと恥ずかしくてたまらない。
 だけど、こうして、話をすれば、必ず伝わる。受け止めてくれる、って思えてくる。
 私と吉羅さんの間に流れる沈黙も苦じゃなかった。

 ── なんだろう。吉羅さんをとても近くに感じる。

「そろそろ、私、練習してきますね」

 午後からの練習時間が、自分で決めた時間よりも30分過ぎていることを知って、私は席を立った。
 これから大きな仕事があるのかな。吉羅さんもため息をつきながら椅子から立ち上がる。
 大人って、大変だなあ、って思う。
 お父さんも年末は本当に忙しい、って。毎年少しだけ身体が小さくなる。
 働く、という感覚がわからない私は、まだ学生っていうモラトリアム期間がふさわしいのかも。

 練習室と理事室の分かれ道に立ったとき、吉羅さんはすごく真面目な表情でつぶやいた。



「君が星奏という環境に馴染んでくれて、なによりだったよ」
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