*...*...* Growth 2 *...*...*
「えっと……。ここでオッケイだよね?」

 ヴァイオリンと、大切な楽譜集。それに1日分の着替えを持って、私は指定された待ち合わせの駅前に行った。
 時間。……12時。オッケイ。
 場所。……駅前の噴水。これもオッケイ。

 大体、音楽をやっている人と待ち合わせるとき、って、そんなに厳密に場所や時間を決めなくても、いつも簡単に会うことができる。
 それは、みんな、手に相棒を抱えているから。

 類は友を呼ぶって本当だな、って思う。
 楽器を持っている人は、なんとなく楽器を持っている人に近寄るし。
 しかも持っているケースから、相手の楽器を想像して、気安く話しかけたりする。
 私が来る頃には、使っている弦の話や、曲想の話にのめり込んでいて。
 ずっと古くからの親友かな? そう思って話しかけた人たちが、実は今日が初対面だった、ってことも何度もあるくらいだもの。

 ……だけど。

「あ、あれ? 私、もしかして、日にちを間違えちゃった、とか……っ?」

 吉羅さんに指定された日、指定された場所には、楽器を持った人は1人もいない。
 あたりは、和服を着た女の人や、大きな福袋を両手に持っているカップルの姿もあって、どこか正月らしいふわふわした雰囲気だ。
 約束の時間までにはまだ少しある。うう……。落ち着け、自分。
 もう少し待てば、きっと誰か来てくれるよね。

 ってそもそも、今日のレッスンに参加する、星奏のOBの方たち、って何人くらいなんだろう。
 今日のイベントに参加する人たちの、専攻してる楽器は、なに?
 弦の集まりなのか、それとも弦管混合なのか。それさえも私、聞いてなかった。
 吉羅さんに言われたから、この集まりはきっと大がかりなモノだろう、なんて、私、勝手に思い込んでいたかも。

 私はケータイを手に、そわそわとあたりを見回す。
 昨晩のうちに降ったのか、屋根の上や路地の端に、まだ真っ白い雪が残っている。
 混じりけのない白色を見ていて、そうだ、私……。
 もしこの雪が積もってたら、家族より誰より先に、吉羅さんに教えたい、って、思ったんだ。
 鼻で笑われてしまうほど些細なことかもしれないけど、私が綺麗だなと思ったモノを、吉羅さんにも見てもらいたくて。

「は、はい?」

 ファーンと、柔らかいクラクションの音が耳に響く。
 振り返ると、そこには吉羅さんの黒い車が滑り込んでくるところだった。
 驚いて運転席を見つめると、そこにはすました顔で乗るように指示をする吉羅さんがいる。

 車の後ろには、ちょっと不機嫌な顔をして、突然停まった吉羅さんを睨んでいる人もいる。
 私は小走りで近づいて助手席に乗り込むと、改めて吉羅さんを見上げた。

「え? えっと、今日って、星奏のOBの方と一緒のレッスンですよね? あの、他の方はどこでしょう?」
「私も星奏のOBだから、嘘は言っていないつもりだが」
「それは……。じゃあ、あの、今日のメンバーは、私と、その」
「君と私の2人ということになる」
「そう、なんですか。……え? あ、あの! 2人きり、なんですか??」
「そのつもりだが、なにか?」

 2人きり、って……。
 考えもしなかった状態に、トクンと胸が大きく鳴った。

 それはつまり……。
 私と吉羅さんは、この前のクリスマスのような時間を過ごす、ということなのかな。
 でも、吉羅さんは『レッスン』って言ってたもの。
 だから、今、私が思いついた考えは、勘違い、だよね。うん。

 吉羅さんはご機嫌そうにアクセルを深く踏み込むと、低い口笛を鳴らしている。
 どうして大人の人って、そんなに余裕があるんだろう。……なんだか、ズルい。

 赤信号に変わると、吉羅さんはゆっくりとブレーキを踏み、私の方を流し見た。

「すまないね。君がそんなに素直に騙されるとは、私も誤算だったかもしれない」
「いえ……。なんだろ。少し、ううん。かなり緊張してきました」

 2人きりの空間が苦しくなって、私は窓の外を見つめた。
 1月3日の正月明けの街は、まだ松の内の週末ということもあって、どこかにぎわいがあった。

「去年のこの日は、アルジェントが遊びに来て、仕事にならなかったんだ」

 吉羅さんは、楽しそうに話し始めた。

「はい? リリがですか?」
「ああ。理事室から追い出したら、今度は校内放送まで使ってね。
 まあ、アルジェントも悪気はないのだろうが」

 校内放送? うーん。どうしてそんなのを使ったんだろう。……あ。

「リリ、吉羅さんに何か伝えたかったのかな?」
「やたらとおめでとうを連呼していた。
 以前親切心を出してアルジェントからプレゼントをもらったことがあるが……。
 試作途中の幸せの香水、とかで、あれもエラい目にあった」
「エラい目?」
「どんな音楽にも感動して涙が出る、という代物だったんだ。
 まあ、今日は私にとってはそれなりに意味のある日、ということらしい」

 私は吉羅さんの言っていることを、自分の中でつなぎ直す。
 おめでとう。プレゼント。それなりに意味のある日。
 それ、って……。つまり、今日は吉羅さんの、誕生日?
 私、そんな大切な日に、吉羅さんといてもいいのかな……。

「あ、もしかして……」

 私の表情に気づいたのか、吉羅さんは柔らかい笑みを向けた。

「今日みたいな日を、気のおけない人間と一緒にいたいと思うのは、当然のことだと思うが」
*...*...*
 高速を飛ばして1時間と少し。

「ここだ。降りたまえ」

 たどり着いた先には、小さなホールのような建物が見える。
 吉羅さんは鍵を手に車から降りてきた。

「ここ……?」
「本日の練習の場だ。部屋を用意してあるから、荷物を置いたら、舞台へ」
「舞台?」

 言われるままに、私は廊下を走り抜けると、指示された部屋に向かった。

 舞台を取り囲むようにある、螺旋状の廊下。
 その螺旋を取り囲むようにして、個室が並んでいる。
 私が荷物を置くように言われた部屋は、舞台に1番近くて、本当なら、指揮者さんやコンマスが使うような特等の場所だった。
 いつもの控え室と違うのは、部屋の奥にソファベッドと洗面台がついていること。
 遠くから来た演奏者が、数日間宿泊して練習をするのに使う、研修所のような造り。
 だけど、木のぬくもりがあちこちに生きていて、とても豪華な感じがする。

「よろしくお願いします!」

 とりあえず、ヴァイオリンと楽譜を持って、私は舞台へ向かった。
 舞台は、簡単な室内楽ができそうな半円状のモノ。
 それに30人くらいが座ることができる客席がゆったりと広がっている。
 舞台の端には鏡のように光ったピアノも静かに出番を待っていた。

 見上げると天井には8つのスポットライトが、それぞれの演奏者の手元を照らせるようになっている。
 壁には数十ヶ所、音響のためのスピーカーが埋め込まれている。
 小さいけれど、とても細かな装備だ、っていうのは経験の少ない私でも肌に突き刺さるように感じる。

 かつん、と音がして振り返ると、そこにはヴァイオリンケースを手にした吉羅さんが立っていた。

「一応、OBとのレッスン、ということだからね」
「吉羅さん……」
「ただ、現役時代の私とは違う。さらに私にはブランクがある」
「はい」

 私は頷いた。
 吉羅さんはお姉さんの美夜さんがなくなって以来、何があってもヴァイオリンを手にすることはなかった。
 高校の卒業を間近に控えていて。
 卒演だ、単位だと周囲がどれだけ言っても、けっしてヴァイオリンは手にしなかったんだよ。
 って、最近になって金澤先生から聞いたっけ。

『今までの実力が存分に加味された、ってことだろ?
 あいつのヴァイオリンは月森ともまた違う、すごいレベルだったから』

 吉羅さんは軽く肩を回すと、ちょっと顔をしかめて上着を脱いだ。

「じゃあ、始めよう。どちらから?」
「はい……。じゃあ、吉羅さんから。吉羅さんのヴァイオリンが聴きたいです」

 この1年。私が演奏法に悩んでいると、苦笑を浮かべながら、私のヴァイオリンを肩に乗せたことは何度かあった。
 だけど、こんな風に、吉羅さんが吉羅さんのヴァイオリンを持ってくることは初めてで。
 私は、一番前の席に座ると、静かに目を閉じる。

 この前の、初めて抱かれたときそのままの、穏やかな気持ちが満ちてくるのがわかった。
 この人、なら、大丈夫。この人の作る音楽なら、きっと私を幸せにしてくれる。
 ── そう、信じられることが幸せだった。

 まず最初に流れてきたのは、バッハのアリア。
 月森くんとは違う。王崎先輩ともちょっと違う。新しい、音。
 自信家で、クールで。だけど、力強くて、暖かみがある優しい音色が広がっていく。

 音は、どこまでも続いていく。

 次々と生み出される音楽は、私を、吉羅さんの高校時代へと誘う。
 吉羅さんと、美夜さん。そして金澤先生が、茶目っ気たっぷりに壁にイタズラ書きをしたり。
 授業を抜け出して猫と遊んでいる金澤先生を、吉羅さんがたしなめたり。

 金澤先生は相変わらずリリに叱られては逃げている。
 そんな金澤先生を吉羅さんは不機嫌そうに見守って。
 そして、2人を優しく見守る美夜さんがいる。

 美夜さん……。

 どうかな? 美夜さんは、今ヴァイオリンを肩に乗せている吉羅さんのことを、どう思ってるかな。
 喜んでくれてるかな? どんな理由であれ、吉羅さんが、これからは自分の意志でヴァイオリンを奏で出したこと。
 あれほどまでに嫌っていた音楽と、ヴァイオリン。
 それをもう一度始めてくれたことを。

 リリが学院の外へ出てくることはそんなに簡単なことではないのを知ってるから。
 今度、冬休みが終わって、学院に行ったら、真っ先に告げよう。
 吉羅さんが、ヴァイオリンを弾いてくれるようになったよ。本当だよ? って。

 頬を伝っては零れていく涙の感触が気持ちよくて、私は拭うこともせずに、ただヴァイオリンを奏でている吉羅さんを見つめ続けた。
 人に泣かせるほどの感情を起こさせてくれる、吉羅さんの音、私も今度、作ってみたい。

 チャイコフスキー、ベートーヴェン、サンサーンス、と、次々と音を奏でたあと、最後に吉羅さんはバッハのフーガを弾いた。
 ふぅ、と満足げに肩からヴァイオリンを外した彼に、私は立ち上がるとたくさんの拍手をする。

 吉羅さんは、なんでもない、といった表情で階段を下りると、私に告げた。


「── 聴かせてもらおうか。君の音を」
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