*...*...* Memories 1 *...*...*
「……以上。卒業生のみなみなの活躍を期待する」

 3日前に仕上げた卒業式のための挨拶を私は滞りなく終えると、静かに階段を降りた。
 音楽を奏でたときとはまた違う、張りつめた静寂が背中に のしかかってくる。

 今日は、私が理事を務めて2回目の、卒業生を送り出す日。
 白い制服が、桜館側、緑の制服が、柊館側、と。
 講堂内も、まるで、学院の縮図のように、静かに品良くまとまっている。

 カフスの奥に潜んでいた腕時計の文字盤を確認する。
 理事の挨拶は、3分間でお願いしますと言われていたが、私はそれを2分55秒で終えたことにひどく満足していた。

 壇上から見る香穂子の顔は、白くうつむき加減で表情までもわからないものの、
 さまざまな想いが詰まっているのだろう。私と最後まで視線が合うことはなかった。

「……では、卒業生、並びに在校生は起立し、各自教室へ戻りましょう」

 式典終了後の教頭の声に、生徒たちは三々五々に散っていく。
 卒業生が在校生よりも輝いて見えるのは、胸元に飾ってある生花のせいだけではないだろう。

「全く。若いってのはいいねえ。俺たちにも、あんな時代があった、ってか」

 この日に限ってはいつもの白衣を脱ぎ捨て、フォーマルな黒のスーツを着こなしている金澤さんが、私の横に立つと目を細めた。

「"Every dog has his day" ── 『誰もがみんな良い時代』、でしたか。
 私も、金澤さんの卒業式の日、ああして、コンクールメンバーと海に行ったんでした。
 『吉羅は坊ちゃんだから、海なんて土臭いところ、イヤだよなあ?』 と金澤さんに冷やかされて。
 私も大人げなかったと思いますよ」
「って、お前、よくそんな昔のことを覚えてるもんだなあー。
 それに、高校生に大人げ、なんてあったら、そっちの方が恐ろしいと俺は思うね」

 遠くに香穂子の背中が見える。
 それを取り巻くように、2人の男子生徒が歩いていく。
 金澤さんは私の視線の先を探し当てて、独り何度も頷いた。

「吉羅よ。そんな悲しそうな顔、しなさんな、って。日野は必ずお前のところに戻ってくるんだからさ」
「……そうでしょうか?」
「って、お前さん、昨日も日野と一緒にいたじゃないか」

 3月に入ってからは、下校時間の6時、というのは、まだまだ闇に隠れる時間ではない。
 なるほど。私の車の助手席の影をが、十分ほの見える、ということ、か……。

 ── まあ、そういった気遣いも、香穂子が卒業する今日、解禁になる。
 こうして香穂子が、また1つ、大人の階段を昇っていくこと。それを見守ることができることが、今の私には嬉しい。

 沈黙を続ける私を取りなすかのように、金澤さんは私の顔を横目で盗み見ている。

「なあ。吉羅。おーい、聞いてるか?」
「お気遣いは無用ですよ。金澤さん」
「は?」

 私は理事長室へと足を向けながら、金澤さんに笑いかけた。

「……大体、私は、金澤さんのおっしゃる、『悲しそうな顔』なんて、していませんから」
*...*...*
「遅いな」

 その日の午後、私は理事長室で年度末の承認手続きをしながら、腕時計を見つめた。

 一体、古代の日本人の誰が、印鑑などという概念を作ったのか。
 世界中でも類を見ない珍しい慣習が、今の私の仕事の一部を確実に浸蝕している。
 特に期末は、この手の煩雑な作業が多い。とはいえ、秘書には任せられない仕事でもある。

 私は未決箱にあった書類全てに承認印が押されていることを確認すると、それらを既決箱へと移し、ため息をついた。
 そして承認印の先を丁寧に拭き取ると、鍵のある引き出しへとしまう。
 そこは、印鑑と、そして星奏時代の姉の写真が、ここは私たちの定位置なの、と言いたげに、佇んでいる場所でもあった。

 私が星奏の理事として就任する夜、珍しく父が私に会いたいと言った。
 食事でも、いや、よかったら、暁彦の好きな酒でも。
 そう言いながら、別れる最後に手渡されたのは、今、ここにある姉の写真だった。

『暁彦が、星奏に行くのも何かの縁だろう。この写真を学院のどこかに置いてやってほしい』
『父さん……』
『親のエゴだとわかっている。……頼む』

 十余年が経った今でも、私にとって、姉がまだ近しい人であるのと同様に。
 いや、それ以上に、姉は今でも父にとって、たった一人の娘なのだろう。

 私は、いつもより心なしか笑っているように見える姉の写真をそっと撫でると、承認印を入れ、鍵を掛けた。


『ごめんなさい。去年のコンクールメンバーのみんなと、今、海に来てるんです。
 解散したら、また、学院に戻りますね』

 香穂子からそんなメールが来て、かれこれ数時間が経過しようとしている。

「……ひと息つくとしようか」

 私はそんな独り言をつぶやくと、机上に置いてあったコーヒーカップを持ち上げて、窓辺へと近づく。
 30分前に淹れたコーヒーは冷え切って、カップの内面に薄茶色の線を付けていた。
 理事長室から見る正門前は、私が知らないうちに、さまざまな花の色で溢れかえっている。

「……ん?」

 人少ななその場所で、正門をくぐり抜ける、生徒2人が見える。

 1人は、男。……そして、もう1人は香穂子?
 男が、ゆっくりと歩いている香穂子の横、スキップを踏むかのような軽やかな足取りで、行ったり来たりを繰り返している。
 コートが自分の存在を主張するかのように、春の風に揺れる。
 風を はらんだコートは、私のコート姿にはない、若さがみなぎっているようにも見えてくる。

「あれは……、加地くん、か?」

 あの生徒には見覚えがある。
 幼い頃に習得した知識というのは、30歳を越えてもなお、私の一部を形成しているのか、
 私は、人という個体を音を関連づけることで記憶する、という一面がある。

 加地……。確か、加地、葵。

 華やかなヴィオラの奏者、だったか。
 確か、アンサンブルメンバーとして何度か演奏を聴いているはず。
 上辺は聴く人の耳をそばだてるものの、あまり印象には残らない音を出す生徒だったように思う。

 父親にも覚えがある。
 何しろ、理事長就任後の最初の仕事が、あの生徒の面接試験だったからだ。
 柔和な表情の中 ときどき光る目は、どの世界に身を置いても大成されたであろう、堅牢な印象を私に与えた。

 ファータの銅像の横、男は、そめそめと香穂子に話しかけている。
 時折 香穂子が、頷いたり、笑ったりを繰り返す。
 それに勢いを得たように、また男が話しかける。

『想いの強い人間の方が、よりたくさんの言葉を話す』

 香穂子を得たことによって、知り得た知識を、ふと思い出したりもする。

 自分という人間を知ってもらうために。もっと、深く知り合うために。
 ……いや。伝えたい、という思いが止まらなくなるが故の愚行だとはわかっているが。
 自身で止めることができないのは、あの男も、そして、私も同じなのだろう。

「……おや?」

 歩き続けていた2人が、ファータの銅像の奥、理事長室からちょうど死角となるところで止まった。
 2人の影が重なって、長く、濃く、伸びている。

 私は彼の心の動きが手に取るように分かるような気がして、苦笑した。
 今、私が見ている加地くん、という生徒と、私自身と。
 ── 香穂子を想う、という1点において、何の違いがあるというのだろう。

「戻る、か」

 カップが空になったことをいいことに、私は窓際から遠ざかると再び机に向かった。
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