*...*...* Memories 2 *...*...*
(……香穂子)

 私は1人の女の子について考え続けた。

 ヴァイオリンを構える背中。初見の時の、楽譜を追う指。
 学院内ですれ違うたびに見せる、愛嬌のある笑顔。

 理事長室の中は、しんと静まりかえっている。
 仮にこのまま夜を迎えたら、春の芽が土を押しのける音さえも聞こえてきそうだ。

 なるほど、なにかしらの考え事をしながら行う業務として、承認印を押す、という作業はふさわしいのかもしれない。
 しかし、さきほどから、香穂子を待っている間にその業務は終了していた。
 あとは、じっくりと腰を据えなくては終わりそうにないような……。
 いや、腰を据えても、2、3日必要な、重苦しい業務が残ってるだけだった。

 ── この ブレスのような隙間時間には、当てはめられない仕事ばかりだ。

「若さ、か」

 自分をさして年老いた人間だと思ったことはまだない。
 しかし、やはり、香穂子と私との年齢差を考えない、と言い切れるかといえば、怪しい限りとも言える。

 私は、香穂子に何の不満もなく、瑞々しい身体を欲しいままにしている。
 でも、香穂子はどうなのだろうか。
 ── その。私、で、満足しているのだろうか?

 言っても仕方のないことだが……。
 香穂子は、これから一緒の歩調で歩いていける、同世代の若者の方がいいのだろうか?

「……ん?」

 微かにノックの音が聞こえてくる。
 窓の外に目を遣ると、ファータの銅像の下には先ほどの人影は消え、春の日差しが残っているだけだった。
 だとしたら、このノックの主は香穂子、か。

「どうぞ」

 私は適当に机上の書類を手に取ると、わざと低い声を出して、入るよう促した。
 香穂子と呼びかけなかったのは、万が一、香穂子以外の人間がノックしていることを考慮して、だ。
 ……全く。自分が忌々しくなる。
 こんな配慮ができるのは、やはり私は若くない、ということなのだろうか。

「すみません。遅くなりました!」

 香穂子は暑かったのか、脱いだコートを片手に持つと、ぺこりと頭を下げた。
 笑いかけてくる頬は、今まで散々日に当たったのか、いつもより朱く輝いている。

「楽しかったです! 久しぶりに、火原先輩や柚木先輩も学院に来てくれたんですよ。
 1年前のおれたちの気持ちがわかる? なんて言われたり、大学のお話で盛り上がったり……。
 先輩たちが卒業してから、私の卒業まで。この1年、本当にあっという間だったなあ、って思います」
「……ほう」

 香穂子は、嬉しさが押さえきれないのか、弾むような足取りで机の近くまでやってきた。

「加地くんも、土浦くんも、来月から始まる大学のことで頭がいっぱいみたい。
 火原先輩に、大学の図書館の書籍について、聞いていました。……あっ」

 そして、ふと私の背後にある大きな窓に目を遣ると、その奥にある、ファータの銅像を見つけたのだろう。
 突然顔を赤らめ、言葉を詰まらせた。

「香穂子?」
「あ、あの……」

 香穂子の視線が ちかりと絡み合う。
 それだけで香穂子は、悪戯を見つけられた子どものように、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 ── 黙っていれば。
 知らん顔を突き通せば、それだけの話なのに。

 まったく、この子は……。
 香穂子のわかりやすい態度に、私は思わず、込み上げてくる笑いを抑えることができなくなった。

「吉羅さん。あ、あのっ、笑わないでくださいーー!!」
「いや。すまないね。君の反応を見ていたら、つい」

 そうだった。
 私は、この子の、素直な音色に惹かれた。
 素直な音色の奥にある、素直な人柄に惹かれた。
 屈託のない笑顔や、音楽に対する真剣な姿勢に、心惹かれたんだった、な。

 私は、不安そうに瞳を揺らしている香穂子の手を引くと、胸元に抱き寄せた。
 やすやすと私の掌に収まる、香穂子の肩。── そして、あの一生徒が触れていた肩。
 私は自分の記憶を塗り替えるように、その場所に手を置く。

「……加地くん、かな? さっきのは」
「は、はい?」
「彼が羨ましい、と思ったよ。さっきはね。
 ……君と一緒の道を、一緒の歩幅で歩いていけるであろう、彼が、ね」

 腕の中の宝物は、顔を上げると必死に否定してくる。

「あ、でも、あの。別に、見られて困る、ってことはなにもなくて、ただ……」
「いや。別に君は何も言う必要はない」
「で、でも!」
「私は君のことを信用しているのでね。ほら、おいで」

 私は香穂子の腰を引き寄せると、彼女のつむじに鼻を埋めた。
 彼女の髪は、さらりと乾いた音を立て、そこからは日なたの匂いがする。

「吉羅さん……」

 固く強張っていた身体が、私の腕の中、安心しきったかのように、丸く、優しくなっていく。
 私は、この子を初めて胸に抱いて、そろそろ4ヶ月が過ぎようとしていることを知った。

 どうして香穂子だけは、抱けば抱くほど、愛しさが増していくのだろう。
 その答えを導き出せたとき、私の感じる切なさは、終焉を迎えるのだろうか。

「……確かに、彼のことを羨ましいと思う一面があったことは認めよう。
 しかしね。香穂子。だからと言って、私はもう、君と同い年になりたいなどとは思わないよ」
「え? どうしてですか?」
「面倒だからだよ。悩んだり、立ち止まったり、振り返ったり。
 肉体的には暇なくせに、精神的に余裕がなかった若い頃が私は苦手でね」

 分かったような分からないような表情を浮かべて、香穂子は私の顔を見上げた。
 私は黙って、香穂子の胸元のボタンを外すと、柔らかな曲線を描く鎖骨から、むき出しの肩へと指を這わした。

「だからと言って、私が、加地くんに嫉妬しないと言ったら、嘘になる」
「また、そんなこと……」

 香穂子は居心地が悪そうに目を逸らしている。
 私は、香穂子が言い終わる前に腕の輪を小さくすると、目の前の柔らかい唇を自分のそれで塞いだ。

 自分が18歳の頃を思い出す。
 自分1人の力で大きくなったと思っていた、あのころ。
 周囲に仲間がいて、当然で。毎日が明るいのが当然で。
 私の未来は、永遠に、音楽の祝福で満ちあふれていると信じていた。

 そして、突然すぎる姉の死を経て。

 私は、音楽にまつわるすべての存在を恨むようになった。
 音楽科で得た友や、過ごした時間。授業や、楽器。
 ── そして、自分自身までも。
 そんな私を、金澤さんをはじめとしたコンクールメンバーは、いつも暖かく受け入れてくれた。

 そして今は。
 ── 友に代わって、香穂子が私のそばにいる。

 アルジェントの、幸せそうな笑顔を思い出す。
 今になって振り返れば、私は頑なに耳にも心にも蓋をしていたのだろう。
 私のそばにはいつも、アルジェントを軸とした音楽の祝福があった。

「吉羅さん?」

 あどけない目で見上げてくる香穂子を、心底愛おしいと思う。
 そして私と同様に、香穂子にも加地くんや土浦くんといった、音楽の友がいてくれたらと思う。

「……君の胸の中にある想い出は、これからの君の助けになるだろう。
 そして、私との思い出も、また然り、だ。── いや、そうであって欲しいと願ってるよ」

 花びらのような唇を、壊してしまうかのような勢いで、私は香穂子に口づけた。


 卒業式、と聞いて。
 香穂子が、コンクールメンバーと行った海のことを思い出すのではなく。
 この部屋の、私とのふれあいを思い出すように。
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