俺は、航空会社の人に無理を言って手荷物にしてもらったヴァイオリンを膝に載せると、深く息を吐いた。
 そろそろ離陸時間が迫っているからだろう。
 機内から見える広大な滑走路の横、青みがかった森が加速度を増して離れていくのが見える。
 12月。── 香穂子と離れてから8ヶ月目のある日。
 俺は、ウィーンから日本へと、香穂子の元へと走り出した。
*...*...* Trees 1 *...*...*

 ウィーンに留学して、8ヶ月が過ぎた冬の日、俺はいつもの手順でヴァイオリンを肩に載せると、A弦を軽く指先で弾いた。
 ウィーンでの生活は何もかもが音楽で形作られている。
 道を歩けば、コンサートの立て看板が目に入る。
 トリオ、カルテットくらいなら街頭でかなりレベルの高いモノを聞かせてくれる。

「レン、調子はどう? 僕は今日も絶好調だよ?」
「── ああ、悪くない」

 俺は留学先のウィーンで、一人の男と出会った。
 リゲティという男は、ナポリからの留学生で、専攻は俺と同じヴァイオリンだった。
 たまたま留学先のクラスで、師事している先生が一緒であることがきっかけで、時折口を利くようになった。
 口の饒舌さはいかにもイタリア人そのものだったが、音楽の世界の中では珍しい、とても短い髪と、そして音楽に対する崇高な信念を持っていた。
 その信念は、時には、俺のヴァイオリンに対する姿勢さえも正してくれて。
 数ヶ月の間に、俺にとってリゲティは大切な友人の1人になっている。

 ── 不思議なものだ。

 今までの俺だったら、学ぶべきことの多い留学先で、友人を作ることなど考えもつかなかったが。
 しかし、心の片隅で、それも悪くない、と思う自分がいる。
 これは香穂子のおせっかいがうつったのかもしれない。
 今、こうして俺の隣りには、親しげに笑顔を浮かべるリゲティがいる。

 友人、という言葉から連想するのは、星奏のクラスメイトだった数人とそれと意外にも、去年のクリスマスコンサートで一緒に曲を奏でたメンバーの顔だったりする。
 土浦や加地、そして香穂子。
 距離があっても普通科の人間とこうして音楽を軸として、今も繋がっていると思えるのは自分でも不思議だ。
 日本とは違う空の色の下、彼らと共に奏でたメロディを雑踏の中で聴くことがある。
 その途端、俺の中に1年前の自分が生まれ、共に音楽を奏で始める。
 そして、無自覚のうちに比べていたりするんだ。今、目の前にいるピアノ奏者と土浦との違いについて。

 そんなある日、リゲティがボージョレと実家から送られてきたという山羊のチーズを手に、俺の部屋を尋ねてきた。
 理由を聞けば、今日のレッスンで俺が演奏したボレロに深く感銘したからだと言う。

「ありがとう。俺は君に会えたことに感謝する」
「いや。レン。それは僕のセリフだと思ってる。
 君の熱心さは、近い将来、音楽界にサプライズな変化をもたらすと思うよ。
 ということで、今夜は乾杯だね。このワイン、飲みやすいんだ」
「断る。君はいいかもしれないが俺はまだ未成年だ」
「何言ってるの? ここウィーンは、18歳でアルコールは解禁だよ。郷に入ったら郷に従えってね?
 さってと、お邪魔するよ!」

 リゲティは陽気な歌を口ずさみながら、勢いよくスニーカーを脱ぐ。
 今、俺の顔を鏡に映したなら、眉の間に目には見えないくらいのシワが寄っているかもしれない。

 確か、以前。
 この種のタイプの先輩と、話をしていたときにも感じたことがある。
 人の機微に、良い意味でも悪い意味でも、鈍いタイプの人間がいるのだ、ということを。

 多分、何を言っても俺の意見は融合することがないのだろうと、おおよその予想をつけて俺はため息をついた。

「しかし……」
「我らがステファン先生もいつも言ってる。人生、遊びの部分も必要って。
 ほら、持ってきたよ。レンが気になるって言ってた、オーケストラのCDと、そのヴァイオリン譜。ねね、見たいでしょ?」

 リゲティは大げさに片目を閉じると、勝手知ったる家、という感じで俺の部屋に入ってくる。
 口では軽快に笑いながらも、リゲティの目は真剣だった。
 この留学の1年のうちに、知りうる限りの知識を手に入れて帰ろう。そう思ってる節があった。
 彼のそばには、いつも音楽がある。
 きっと眠っているときにも、彼は夢の中でもヴァイオリンを離さないに違いない。

 俺は、諦めて食器棚からグラスを出しながら尋ねた。

「リゲティ。君はどうして、そう先を急ぐのだろうか? まるで生き急いでいるようにも見える。
 音楽の知識は膨大だ。簡単に手に入れられる類のものではないだろう」

 リゲティはけらけらと笑いながらワインのコルクを空ける。
 そしてもうすっかり座り慣れた椅子に腰を降ろすと、手にしていたペティナイフでチーズのパッケージをこじ開けた。

「僕にはね、時間がないんだなー。これが」
「というと?」
「僕ね、親がさ、反対してるんだ。音楽の道へ進むこと。
 それも高尚な理由からじゃないよ? 単純にオカネがないから、って。
 だから、この留学のために、3年間、地元のオーケストラで働いて、学費貯めて、ここまで来たんだ」
「リゲティ?」
「しかもさ。ねえ、レンの国にも、同じことわざってある? 『貧乏人ほど、子だくさん』って。
 これでも僕、7人兄弟の長男なんだ。だから、弟妹の面倒も僕にかかってるわけ。
 んー。今、12月でしょ? だからあと3ヶ月しかない。僕がヴァイオリンと勉強だけに浸れるのはね」
「……すまなかった」

 音楽家の両親を持ち、祖父母もまた音楽の造詣があって。
 俺は、その環境を当たり前のモノと、特別な感慨もなくこうして、享受してきたが……。
 俺はリゲティの目の色を改めて見つめ直していた。
 屈託のない鳶色の目は、なんの迷いもなく、すっきりとした好意を俺に見せてきている。

「いや。気にしないで? レンにはレンの悩みっていうのがあるんだろうし? 人は人、僕は僕って思ってるから僕は平気だよ。
 ところで……。僕が見る限り、レンは限りなく恵まれた環境下にいるように思えるけど、どう? 当たり?」
「リゲティ……」

 初めて口にしたアルコールが、酔いを生んでいるのか。
 それともリゲティの質問が、酔いを生むキッカケになったのか。

 確かに音楽的環境には恵まれていると思う。
 俺が目指す音楽という進路に、障害となるモノは何もない。

 ── だが。しかし。

 どれほど技巧の高い曲を弾こうとも、俺の心の一点だけは、いつもどこか物足りなさを感じていた。
 その感情を思いのままに放置しておけば、ある街、ある場所、ある人のところへと舞い戻っていく。


 ── 香穂子。君は元気だろうか?
 俺は、この8ヶ月の間、ずっと育ててきた想いを口に出していた。

「音楽的環境は申し分ないと思う。
 だが、しかし……。俺も、時間が惜しい。── ずっと会いたい人がいるから」
「そう? 恋人?」
「── ああ」

 ウィーン中のどんな音を聴いても、香穂子と比べてしまう自分がいる。
 あの澄んだ、優しいまでの音は世界中に香穂子しか奏でることのできなかった音なのだと今更ながら気づいて愕然とする。

(今頃、香穂子は……)

 4回のコンクール、4回のコンサートを経て、俺は香穂子の笑顔に何度となく触れていたのにも関わらず、
 今、こうして思い描く香穂子の顔は、熱を帯びたように赤く、前髪が涙で湿っている泣き顔ばかりだ。

『俺にとって音楽は全てだ。
 たとえ、君を遠くに残すことになったとしても、俺はやはり音楽を選ぶだろう』

 そう告げた俺を、ただ香穂子は弱々しく微笑んだきり、何一つ俺を責める言葉を口にしなかった。
 留学するその日、空港まで見送りに来た香穂子は、普段通りの明るい顔でこう言ったものだった。

『私、待ってるから。離れてても、待ってるから』
『香穂子……』
『── ヴァイオリンを頑張ることが、月森くんへと続いてる、って。……そう思って待ってるから!」

 心細げに言う香穂子を、俺は人目もはばからず抱きしめた。
 ヴァイオリン以外のことを思う。その殆どが香穂子のことばかりだ。
 心も、そして身体も、

 あらぬ方向に考えを巡らせてかぶりを振る。

 今は、まだ香穂子のことを考える時期ではない。あと、少し。── そう、あと半月。
 半月後のクリスマス、俺は日本に一時帰国する。
 そのときに、8ヶ月分の思いを込めて、香穂子を抱きしめられたら。
 そして、どうか願わくば、俺と同じ気持ちを香穂子にも持っていて欲しいと思ってしまうのは、俺のエゴなのだろうか?

「レン?」
「いや、すまない。……音楽は俺の全てを要求している。だから俺も最善を尽くすだけだ、と思っているんだが……。
 時々ふと思う。── 彼女はどうしているのだろうか、と」

 俺が渡欧するとき、香穂子は、寂しいとか行かないで欲しいだとか、そう言ったことは一言も口にはしなかった。
 夏休み、都合が付けば帰国することもできたが、俺は、滅多に来訪しない四重管弦楽団の公演を理由に帰国しないで。
 ── こうして香穂子と離ればなれになって、8ヶ月が経過している。
 毎日のように交わすメール。月1度のペースで送る、CD。

 そんなモノで、香穂子をつなぎ止めることができるとは思っていない。けれど……。

 香穂子のことを考え出すと、止まらない自分がいる。
 それは、水が高いところから低いところへと流れ込むような、摂理にも似た気持ちだった。

 簡単に忘れられる想いなら。
 ── こんなふうに、泣けるほど囚われたりしないだろう。

 からりと、手にしていたグラスが、テーブルに転がる。
 リゲティは俊敏にそのグラスをつかみ取ると、再びなみなみとワインを注いだ。
 そして微笑みながら、ビロード色の液体を勧めると、まじまじと俺の顔を見つめた。

「── 苦しそうな顔をしてる。レン」
「いや、そんなことは」

 俺は潤んだ視界をごまかすように髪の毛を掻き上げた。
 何を馬鹿な……。俺は一体……?
 酔いが回っているのか、視界が揺れる。涙で揺れているのか? これは……。

「よし。俺のとっておき。ほら、レン、グラス貸して?」

 リゲティは、俺の手に乗っているグラスを再びテーブルに戻す。

「僕のふるさと、ナポリではこうやるんだよ? なんだろ。子ども同士のおまじない、かな?
 いい? レン、ほら、そこへ跪いて?」
「何をする気だろうか?」
「いいから、いいから」

 リゲティはそう言って、足元がふらついている俺の膝を強引に床に着かせると、思いがけなく真面目そうな顔をして、顔の前で十字を切る。

「どうか、願わくば、僕の大事な友人、レンの恋が、レンにとって良い方向に向かいますように。── そして」
「……そして?」
「レンのヴァイオリンの音色が、ますます豊かに響きますように」
「……ありがとう。リゲティ」

 音楽を通して知り合った友人と、CDを聞きながら過ごす夜。
 俺は、香穂子のいない分の空白を少しだけ埋めることができたような気がした。

 明け方の月が、大きく西へ傾いて、見る者を威嚇させるような、そんな夜。
 PCに1通のメールが届いた。
*...*...*
 持参したワインを空にして、リゲティが上機嫌で帰宅した後。
 俺はPCに向かって、メールをチェックしていた。

 元々、PCのメールは海外でのコンサートや出張の多い両親のために準備していた。
 ところが意外にも祖父母から日本の近況だと言って連絡が入ることが多い。
 あのお年で新しいことに取り組むのは悪いことではないが……。

 俺はメールが1通来ていることを確認すると、受信箱をクリックする。
 先日香穂子へと郵送したCDに対する感想だろうか?
 俺のメールの相手と言えば、身内と、香穂子、それにクラスメイトだった内田とあと2人、といったところだったが、
 今日のメールは見覚えのない差出人の名前が書いてあった。
 添付ファイルがある。俺はクリックする手を止める。……スパムペールか?

「誰だろうか……」

 開く前に捨てようか、とそう思ったとき、サブジェクトに見覚えのある名前を見つけた。
 俺は、息を吐くと、そっとマウスをクリックした。見慣れた人の名字が飛び出してくる。

「こんにちはー。月森くん。新天地で元気にやってる? 天羽だよ。
 こっちは相変わらずの日々。って、もう卒業だもんね。それなりに忙しいよ。私も香穂も」

 天羽さんの口調が浮かぶようなはきはきした文面だな……。文字が画面から飛び出してきそうな雰囲気だ。
 俺は、さらりと文面に視線を這わすと、スクロールする。

 ── 多分、そうだ。天羽さんは俺に個人的なことを相談するという間柄ではない。きっと、香穂子のこと。
 香穂子に何かあったのだろうか?

 そう考えた矢先、画面に、香穂子の名前が飛び出してきた。

「そうそう。香穂ね、頑張ってるよ。ちょっとそれを伝えたくて。……ほら。
 添付の写真、香穂がこのまえ正門前で練習してたところを内緒で撮ったの。
 きっと月森くんが持っている香穂の写真って少し前のものでしょ? だから」

 俺は、文末まで読むことなく、添付ファイルをクリックする。

 そこには、愁いを含んだような、泣き出しそうな。
 けれどそれを一心に弦にぶつけているような、切なげな顔をした香穂子がいた。

 ── 香穂子。また君は少し大人になったようだ。

 俺の指は自分でも気付かないうちに、マウスを離れ、画面を撫でた。

 ウィーンの冬は寒い。
 平面のディスプレイは、何の凹凸もなく、冷たさを伝えてくるだけだった。

 天羽さんの文面は続いている。
 それは香穂子を初めとしたコンクールメンバーが、今も元気でやっていること。
 クリスマスコンサートは、音楽科の有志のみんながやる恒例行事となったということ。
 そして、香穂子のこと。

「頑張ってるよ。香穂。私にはなんにも言わないけど。
 ときどき泣きそうな顔をして、空を見てることがある。
 空は好きだ、って。月森くんと繋がっているような気がする、って笑って。
 貼付の写真、そのときに撮ったモノなの。ふふーん。なかなか良い出来でしょ?
 今度帰国したときは、なにかごちそうしてよね。それで手を打ってあげるから!」

 天羽さんのメールを読み終わるのが惜しいような気がして、俺はスクロールする指をゆっくりと動かした。

「じゃあ、またね!
 このメールがスパムメールと間違えられて、どうかゴミ箱に捨てられないことを祈りつつ。
 って捨てられたら、この文章も読んでもらえないか(笑)。ではでは」


 俺が思い浮かべる天羽さんは笑顔なのに、香穂子は泣き顔なのはどうしてだろう。
 目を閉じても、たった今見た、香穂子の寂しげな顔が浮かんでくる。

 ヴァイオリンか香穂子かと迫られたとき、俺は俺の意志で、ヴァイオリンを選んだ。
 そのことは一度だって後悔したことはないのに。

 しかし。
 自分が原因となって最愛の人を悲しませているとしたら、俺は……。


 どうにもやりきれない気持ちが浮かぶと、俺は、いつものある行動に出る。
 楽器を学んでいる人中心に貸し出しているこのアパートメントは各室防音も万全だ。
 松脂を弦に滑らせる。日本を離れるとき、香穂子と一緒に買ったそれは、すり減って、もうほとんど残りがない。

(……俺は、音楽の代わりに香穂子を失ってしまうんだろうか)

 そう想いながら奏でる『愛のあいさつ』は、エルガーが最愛の妻を亡くしたときのように物悲しく響いていく。

 あと、半月。
 そうしたら、帰国できる。香穂子に会うことができる。
 リゲティの祈りの声が浮かんでくる。

『どうか願わくば、レンの恋がレンにとって良い方向に向かいますように』

 そう。香穂子、君にとっても。
 俺という存在が、少しでも、君の助けになっているのなら、嬉しいのだが……。


 その夜、もう一通、メールが来た。
 香穂子からだ。
 サブジェクトはなし。本文にはただ一言、『会いたい』とだけ書いてあった。