*...*...* Trees 2 *...*...*
 星奏学院の冬の図書館は、最近の私のお気に入りのスペースだったりする。
 大きな窓から見えるイチョウの木は、黄色い分身をすっかり落として、葉を揺らしていた頃には想像もつかなかったような、細く、孤高な姿を見せている。
 触れたら指が切れそうほど澄んだ蒼色の空に、白い半月が恥ずかしそうに自分の存在を主張している。

「よかった。……空いてた」

 昼休み、私は図書館のブースに向かうと、手にしていたCDをセットした。
 これで、8枚目のCD。── 月森くんが、ウィーンに行ってから、8ヶ月。月に1度、送ってくれるCD。
 昨日、送られてきてすぐ、自分のPCで聴いて。
 ポータブルプレイヤーに入れて、今朝、登校するときにまた聴いて。

 そういう聴き方も手軽だけど、やっぱりじっくりと音を確かめるには星奏の図書館の設備の方が遙かに上だなって思う。
 最初にそのことを教えてくれたのは、火原先輩だったっけ。
 録音した火原先輩のトランペットは、ヘッドフォン越しに聴いても、元気いっぱいの音色で。
 2人で、また一緒に聴こうね〜、なんて、嬉しそうに言ってたっけ。
 その先輩が卒業して、もう8ヶ月。ふらふらしていたら、今度は私が卒業する立場になる。

 月森くんから送られてくる、CDのレーベルには、派手派手しい色彩はない。
 白い、買ったときのままのパッケージに、小さく、月森くんの手書きで「L-8」とナンバーが振ってある。

 月森くんのヴァイオリン曲が入っている、CD。
 数字はそのまま、会えなくなった月数だ。

 きゅっと縮こまった胸は痛みを伴う。
 痛みの理由を知りたくて、手近にある糸をひっぱると、それはするすると月森くんの眉を潜めた顔まで連れて行ってくれたりする。

「あ、そうだ、CD聴かなきゃ!」
「……香穂先輩、何を聴いているんですか?」
「わ! ……し、志水くん!」

 ぼんやりついでに、私は周囲に対する注意力まで失っていたらしい。
 声に驚いて振り返ると、そこには、何を考えているのか表情が読めない志水くんが立っていた。

「あ、あのね、月森くんのヴァイオリンなの。一緒に、聴く?」
「……月森先輩の?」

 眠そうに半分閉じていた瞳が大きく開く。
 去年のコンサート以来、全ての弦楽器に関心が出てきたと言っていた志水くんは、月森くんのウィーン留学にもすごく興味を持っていた。
 だから、かな。
 目を輝かせて私の隣りに座ると、おもむろにヘッドフォンを耳に当てている。

「あ、じゃあ、始めるね?」

 私はあわてて再生ボタンを押すと、ヘッドフォンを耳にセットし、少しずつボリュームを上げた。
 流れてくるのは、曲に対する簡単な説明と、月森くんの身じろぎ。衣擦れの音。
 その後、ヴァイオリンを構えたときの微かな弦を撫でる音。そして曲。
 ただ、淡々と音は続いていく。

(月森くん……)

 もの悲しい旋律が流れ始める。
 私はいつしか、隣りにいる志水くんの存在も忘れて、旋律に没頭し始めた。

 好きだとか、愛してるとか。
 CDは何一つそんな言葉を発しない。
 ましてや、この無機質で小さなモノは、月森くんの代わりに私を抱きしめてくれるワケじゃない。

 あ、この曲で、CDは終わり、かな……。
 終わり……。終わり?

 途端に、ぴん、と私の中で寂しさが生まれる。
 昨日、自宅で、このCDの最後に入っている月森くんのメッセージを聞いたときのことを思い出す。

『もう、君はいやになっただろうか? ── こんなに会えないでいる俺のことを』

 ため息混じりに呟いたあの声を、私は夜中の間に何度リフレインしただろう。
 ── ダメ、今、またあの悲しい言葉を聞いたら、私、きっと泣くだけじゃすまなくなる。

「あ、あの。曲はここまで、かな?」

 私は、最後の曲の長い余韻の途中でプレイヤーを停止させると、自分への元気づけのように勢いよくCDを取り出した。

「志水くん? えーと、もう授業、始まるね。そろそろ行こうか?」

 途端に、耳に流れ込んでいた月森くんの空気が、いつもの星奏のものへと変わる。
 私の隣りで、一瞬驚いたように私の顔を見て、それから柱時計を見て、納得したかのようにヘッドフォンを外す志水くんがいる。

「香穂先輩。いいものを聴かせてもらいました。ありがとうございました」
「ううん、どういたしまして。ごめんね、終わりの方、バタバタしちゃって……」
「月森先輩の技術は、一気に向上しているように思います。聴けて、良かったです」
「そうだよね……。すごいよね」

 私は、志水くんに最後のフレーズを聴かれなかったことに、ほっと気の抜けた息を吐くと、勢いよく椅子から立ち上がった。

 初めて聴いたとき、行き場のない気持ちに唇を噛みしめた。
 もし、手の届くところに月森くんがいてくれたら、思い切り胸を叩いてたと思う、言葉。

『もう、君はいやになっただろうか? ── こんなに会えないでいる俺のことを』

 簡単に忘れることができるほどの想いなら、良かった。

「香穂先輩……?」

 知らないうちに足が止まった私のことを、志水くんは不思議そうに振り返る。
 さっきまで聴いていた、月森くんの旋律が、吐息が、耳から身体中に注がれる。


 笑って、忘れられる恋なら。
 ── 泣けるほど、あなたの影を追ったりしないのに。
*...*...*
 12月の空は、4時頃から冬雲が覆い被さってきて、どんよりと背中にのし掛かってくる。
 もう、暗記するほど覚えてしまった、月森くんからのメールの一文を思い出す。

『ウィーンの冬は、日本とは違う空の色をしているように感じる』

 どんな色なんだろ、と私は日本の空を見上げる。
 けれど、雲は不機嫌な色で無愛想に私のことを見つめ返してくるだけだった。

「月森くん……」

 潤んだ目をごしごしと擦る。

 学院への登下校。
 1年の頃は、なんの考えもなく歩いてた。学院から近いから便利だなあ、くらいだった。
 2年の頃。
 月森くんと一緒に登下校することを覚えてから、というもの、今こうして、隣りに月森くんがいないことが、不思議に思えて仕方ない。
 季節もちょうど、去年のみんなでクリスマスコンサートに向けて練習していたころと重なるからかな。
 こうやって、一人で歩いていても、月森くんがすぐ隣りを歩いてくれている気がしてくる。
 身体に教え込まれたことって忘れない。
 一緒に肩を並べて歩いた季節は、すぐ隣りに月森くんの肩の幻影を見せてくる。

 ね、元気かな? ヴァイオリン、頑張ってる?
 私も、頑張ってるんだよ?
 金澤先生には呆れられちゃったけど、これでも一応月森くんのライバルでいたいんだもん。
 だけど、本当はね、ライバルとしてじゃなくて、── 恋人として。
 少しだけ願ってもいいかな?
 私が月森くんの髪の毛の色のような空色を見て、月森くんを思い出してる間に。
 ── ほんの一瞬でもいいから、月森くんも私のことを思い出してくれますように、って。

『香穂子。空は好きだ。この空を伝えば、君に繋がっている気がする』

 耳元で優しい声が聞こえる。

「月森くん……」

 会いたいと思う気持ちが、胸の中で大きな熱い塊になっていくのを感じる。
 月森くんは、きっと、メソメソしてる私より、笑ってる私の方が好きだよね。
 だから、泣いている間に、今自分にできることをひたすらに流されずにやってみよう。
 私はポータブルプレイヤーに入れた曲を聴き直す。
 こうしている間だけは、月森くんがそばにいてくれる。
 誰が、なんて言ったってそうなんだもの。── そう、信じるしかないもん。

「よ、香穂。ぼーっと歩いてると危ないぞ?」
「あ、土浦くん」

 背後から勢いよく肩を叩かれて振り返ると、そこにはコート姿の土浦くんが立っていた。
 普通科から音楽科に転科して、なにが一番つまらないって、数学の授業がないことだ、って言って、土浦くんは笑う。
 私としたら、数学がなくなるのって、一番の嬉しいことだったのに。
 でも土浦くんが手にしているカバンは、普通科の時以上に重く膨らんでいる。

 私の視線に気付いたのか、土浦くんはカバンを揺らした。

「お? これか?」
「うん……。普通科の時より、授業は減ったのに、土浦くんのカバンは大きいままなんだ」
「まーな。……このところ、ずっと総譜読んでるからな。指揮者用の」
「そうなの?」
「お前、知ってたか? 指揮者用の総譜ってさ、すっげー分厚いんだぜ?」

 土浦くんは音楽のこととなると、水を得たように、話し始める。
 まるで、そうすることで、いままで音楽に触れられなかった時間を埋め合わせていくかのように。

「って、お前は? 最初、俺、声をかけたんだけど、お前、何か聴いてたろ?
 全然気づかない、って感じでスタスタ歩いていくんだもんなー」
「あはは、ごめんね。あのね、これ、聴いてたの」

 私はカバンからポータブルプレイヤーを取り出すと、土浦くんに振って見せた。

「お、なんか新しいCDでも買ったのか? 良かったら俺にも貸してくれよ」
「ううん。……これね、月森くんのヴァイオリン曲なの」

 土浦くんは興味深げに、私の手元を見つめる。

「月森か。ってヴァイオリンバカのあいつのことだ。根詰めてヤリ過ぎなきゃいいがな」
「ん……。月に1度のペースで、月森くんからCDが届くの。今、どんな曲を練習してて、どんな曲想を練ってるか、って。
 あ……っ」
「お?」

 故意に聞かないようにしている、最後のメッセージ。
 いつもは直前で停止ボタンを押すようにしているのに。
 今思えば、このときの私は、CDの一番最後に入っていた月森くんのうっかり聴いてしまって、かなり動揺していたんだと思う。
 私は何かに取り憑かれたように話し出した。

「香穂?」
「あ、えっとね。聴いてるとね、月森くんが近くにいてくれる気がするんだ」

 片耳だけ外した、プレイヤーは月森くんの声を最後に、悲しげに止まる。
 演奏が華やかだった分、音が止まった後の静寂は、キャンバスの白い部分のように清々しかった。
 その後に、ため息とともに聞こえてくる月森くんの声。

『もう、君はいやになっただろうか? ── こんなに会えないでいる俺のことを』

 土浦くんの、小さな舌を鳴らす音がする。
 そそっか。こういうの、土浦くん、きらいかもしれない。

「……ったく」

 私は潤んだ視界をごまかすべく、ぱちぱちと瞼をしばたかせた。
 目の前には、月森くんと同じ色の、臙脂色のタイが見える。

 ── ふと、思う。

 今、目の前にいる、土浦くんが、月森くんだったら、どんなにいいだろう。
 そばにいてくれたときと同じ、長い腕で。大きな胸で、月森くんの香りの中で、安心する息をつきたい。
 ── なのに、できないんだ。
 月森くんの指とは違う、月森くんより大きな手が頭へと落ちてくる。

「香穂……?」

 私はとっさに近づいてくる腕から、逃げるように身体をよじった。
 ここで土浦くんの胸を借りることができたなら、良かった。
 土浦くんが月森くんなら、抱きつきたかった。

「ご、ごめん……。私……っ」

 長い土浦くんの腕が届かないところまで、離れる。
 土浦くんはそれ以上私との距離を縮めようとはせず、苦々しそうに眉を顰めた。

「まあ、いい。お前の身体だけ俺のモノにしたって仕方ないしな。
 それより、お前に頼みたいことがある。ほれ、取って食おうってわけじゃないから安心しろ」
「な、なに……?」
「月森のメールアドレス、教えろよ。俺から早く帰ってくるように忠告してやるから」
「ううん。── ありがとう。いいの。私から、メールする。ちゃんと、自分の気持ち、伝えるから」

 私がそう言うと、土浦くんはヴァイオリンケースを指差しながら言った。

「そうか? って、こういうときはヴァイオリン鳴らせよ? 案外、お前の気持ちを受け取って、ちゃんと歌ってくれるはずだぜ」


 土浦くんと別れて自宅に着くと、私は制服を着替える時間も惜しくて、急いで机の上のPCを立ち上げる。
 月森くんからのメールはない。そうか、まだこの時間だと彼は眠っているころかもしれない。

 一番最近に来たメールを読み返す。
 いつものそっけないように見える内容。9割方は音楽のこと、そしてウィーンのこと。
 甘いささやきなどは、何一つないメール。
 だけど、月森くんの優しさは音楽を通して伝わってくる。知ってる。分かってるの。

 ── だから、私、信じたいよ。

 このまま私がずっと、音楽の道を歩き続けたなら、いつか、月森くんの人生と交差するかもしれない、って。

 月森くんのG線を弾く音が胸に迫ってくる。
 月森くんが渡欧するときには、あんなに分厚かったカレンダーは、今は最後の1枚が頼りなげにぶら下がってる。
 私は、今日の日付を黒いマジックでごしごしと消すと、ほっと息を吐いた。

(やっと会える)

 会えない時間は、ずっと会いたいと願った時間だ。その時間もあと1週間で終わる。
 涙もろくなっているのは、ゴールが、ほんの少しだけど手前に近づいてきてくれたからかもしれない。

『すまないが、帰れそうにない』って言われた夏休みも。
自分の周りで肩を寄せ合って歩いているカップルが、ひどく羨ましく思えた秋も。

── 私、今まで、ずっと、泣いたことなんてなかったのに。


 やっと会える。

 その間に、私はヴァイオリンを奏でる分だけ、月森くんに近づけるような気がして、頑張ってきた。
 頑張れば、ヴァイオリンが月森くんのところまで連れて行ってくれるって信じてた。

 私は本文に「会いたい」とだけ打ち込むと、静かに送信ボタンを押す。
 どうか月森くんも、私と同じ気持ちを持っていることを願いながら。
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