*...*...* Trees 3 *...*...*
同じ季節と言っても、ウィーンと日本では、やはり厳しさが違う。ウィーンの冬は、日中でも氷点下であることから、厚手のコートを用意していたが、ここ日本では、いささか暑すぎるようだ。
俺はコートを脱ぐと、たった一つのボストンバックとヴァイオリンケースを手に、空港内を歩き出した。
『レン! ちょっと待って! 一時帰国だとしても、その荷物は少なすぎるよ』
俺に飛びつかんばかりに何度もそう助言していたリゲティを思い出して、俺は苦笑する。
おせっかいなくらい気を遣って、屈託なく笑う人間。それもごく自然に。
ああいうタイプは、香穂子以外にそれほど多くないと思っていたが、まだ俺の知らない世界には存在するのかもしれない。
『女の子って、甘いお菓子とか好きでしょう? 恋人がいない僕だって、妹たちにスィートを買っていくよ。
ウィーンのチョコラッテは絶品だからね!』
リゲティの助言はありがたく聞きながらも、この時の俺は、土産に気を配る余裕さえなかった。
雑踏の中で聞く、8ヶ月ぶりの日本語のかたまりが俺の押し流していくような気がする。
幼い頃から、いつかはクラッシックの本場、欧州に、と思い、語学の勉強は欠かさずしてきたおかげもあって、ウィーンの生活で困ることはなかったが。
やはり、母国語というのは、ある郷愁を持って俺の胸に迫ってくるような気がする。
── やっと、帰ってきた。香穂子の元へ。
元気、だろうか?
また、大人っぽくなっただろうか?
そして……。
俺は甘い痛みと共に、最後の質問の箱を開ける。
── 香穂子は、離れたときそのままの気持ちを、俺に対して向けてくれるだろうか?
アパートメントを出る直前に出した、香穂子へのメールを思い出す。
『14番ゲートのインフォメーション前に、19時。大丈夫だろうか?』
『うん。絶対待ってるから! ……月森くん……』
『香穂子?』
『── やっと。やっと会えるね』
右手にはめている腕時計は、18時30分を指している。
(やっと、香穂子に会える)
人はこれ以上ない幸福が近づいてくると、その感情の大きさに潰されまいとして、頑なな心が支配するのだろうか?
高揚とも屈託とも取れるような複雑な気持ちが、俺の肩にのしかかってくる。
待ち合わせの場所へとつま先を向ける。
と、そのとき、俺の耳に空港のインフォメーションが流れてきた。
「午後6時の風雪警報発令に伴い、14ゲート、15ゲートはクローズいたします。
なお、再オープンの予定は未定でございます。皆さま方にはご迷惑をおかけしますが……」
携帯は、日本にいる祖父母に預けたまま。今手元にはない。
では、PCをと思い、空港のモバイル環境に足を伸ばしたが、そこも風雪の影響で使用不可ということだった。
あいにくなことに、香穂子のメールアドレスは空で言えても、携帯の番号はどうしても思い出せない。
「どうしたら……」
ゲートに向かう1本のコンコースは、出迎えの人でごった返していて、おいそれと近づけない。
こんなことがあるとはまるで想定していなくて、俺は途方に暮れる。
視界の端に見える公衆電話には長い列ができているが、電話でメールは送れない。
香穂子なら、どうする? ── 俺なら、どうする?
呆然と立ちつくしている俺の手には、片時も俺から離れることの無かったヴァイオリンケースが握られていた。
*...*...*
「ほぅ。こんなところで……」「まあ、今日、こんな催し物がある、って知ってた?」
閉鎖されたゲートから、少し離れた、空港の中央コンコース。
行き止まりの小さな一角で、俺はヴァイオリンケースを開くと、機内の気圧を配慮して、緩めておいた弦を調弦した。
ヴァイオリンは、楽器の一つに過ぎない。
しかしウィーンでの生活を共にしてきた、40センチに満たない、小さな相棒は、今や、人間とも思えるほどの存在になって、俺の声を広げていくだろう。
日本に着いたから、だろうか?
ウィーンのときには香穂子の泣き顔ばかり思い出していたのに、
今、ヴァイオリンをあごに挟んで弦を弄っているときに思い出すのは、香穂子の笑い顔ばかりだ。
今まで香穂子のいろんな顔を見てきた。
しかし、どうしてだろう。
今、1番に思い浮かべるのは、去年のクリスマスコンサートの香穂子の笑顔だ。
共に、第九を奏でて。
弾き終えたあとの温もりは、今も変わらずに俺の中に生き続けている。
── おかしなものだ。
ソリストを目指していた俺が、みんなと奏でた音楽が忘れられないなんて。
緩やかに動かし続ける弦は、俺の想いとは違う意志を持って、やがて1つのメロディを創り出す。
最初、リリからこの楽譜をもらったとき、俺は頑なに音楽への成功だけを考え、香穂子との関係をこれ以上深めようとは思わなかった。
音楽は俺の100パーセントを求めてくる。
だから俺は、俺自身を叱咤してでも、音楽の前で、100パーセントの俺を差し出さなくてはいけないと思った。
それが、香穂子と共に、『愛のあいさつ』を奏で始めた途端、自分の考えに色が付き始めるのを感じた。
もし、俺が音楽の道を突き進み、そして香穂子も共に音楽の道を歩んでくれるのなら。
俺たちは音楽を媒介として、深い繋がりが出来るのではないかと。
音楽という孤高な芸術の中、微かな光が見える。
それはこの8ヶ月の間、香穂子が与えて続けてくれた、ウィーンでの俺の生活を支えだったのだ。
── 去年の同じ季節の空気に、香穂子と奏でた愛の挨拶が、静かにコンコースに広がった。
簡単に捨て切れるほどの恋なら、こんなに苦しんだりしない。
その気持ちは、君へと続いて。君との思いを育ててる、と思っていいだろうか?
『レン。絶望の中にもどこかに希望はある。見つけられるかどうかはその人次第なのだ』
ふいに、この8ヶ月、ヴァイオリンの指導をしてくれたステファン先生の声が響いてくる。
普通の人、という一括りにはどんな枠があるのかは知らないが、芸術家というのは、普通の人という枠の中には収まりきらない個性があると思う。
高名な先生だと聞いていたのに、ステファン先生の授業はほとんどが、絵画に関するモノ、歴史に関するモノばかりだった。
初めはヴァイオリンの技術の向上のために、どうしてこんな知識が必要なのかわからなかった。
だけど日本に来て、ここで奏でてわかったことがある。
音楽は、音楽だけにとどまらない、芸術の中の一部分なのだと。
目の前にいる、見知らぬ人の笑顔が輝く。
今、この瞬間に、この人たちは、俺のヴァイオリンで幸せになってくれているのかも知れない。
音楽で起こせる奇跡は、確かに目の前に存在している。そして俺はその一点を担っているのだ。
祖父母の代からの音楽家一家。
物心ついたときから、たえず俺の周囲にはヴァイオリンとピアノの音色があった。
『蓮。大きくなったら、あなたはなにになるの?』
片言の言葉が話せるようになってからというもの、かなり頻繁に問いかけられた質問。
俺の答えもいつも決まっているというのに、なぜだか父と母は同じ質問を繰り返しては、幸せそうに目を合わせていた。
ヴァイオリン奏者としての一層の努力と。誰にも負けないと自負できる練習時間を確保する。
そうして奏で続けた音楽は、技巧こそ秀でたものの、すぐ近くにいる両親たちには遠く及ばなかった。
── その俺が。
香穂子の音色を聴いて、ほとばしるものが生まれた。
いや、それは語弊がある。
香穂子へと続く長い道のりは、いつも俺を勇気づけた。
これまでも。きっとこれからもそうだろう。
演奏が一段落付いたところで、弦を下ろすと、俺はほっと息を吐いた。
知らないうちにできていた厚い人垣に、俺は軽く一礼をする。
ウィーンは、街全体が音楽で形作られている。
そのせいか、知らないうちに、街頭コンサートというのに馴染んでいたのだろう。
今、自分が置かれた場で、どのようなパフォーマンスをするべきか、俺の身体は知らないうちに、最善の行動を取るようになっていた。
まばらに生まれ始めた拍手は、やがて観衆全員を巻き込んで大きな歓声となる。
口笛や、声など。口から生まれる喝采がないのは、日本という国柄のせいかもしれない。
「素敵な演出ね。クリスマスに、こんな曲を聴かせてもらえるなんて」
「あっちの、1番ゲートにいた女の子も、同じ曲弾いてたよね」
「そうそう。可愛らしい曲だったよね」
カップルがそう楽しそうに告げると、俺に背を向けて歩き出す。
拍手はまだ鳴りやまない。
人垣の間を縫って、最前列に来たのだろう。
小学生くらいの男の子が、食い入るように俺が手にしているヴァイオリンを睨み付けている。
「ねえ、あなた。さっきの女の子といい、今の演奏といい、2回も素敵な演奏が聴けるなんて、今夜は素敵なイブになりそうね」
「ああ。そうだね」
品の良い身なりをした夫婦がそう言って、微笑み合う。
「なあに? ゆうくんも、ヴァイオリン、お稽古したくなっちゃった?」
2人の間に立っている男の子は、母親の問いかけもまるで耳に入らないのか、小さな手で拍手をし続けたまま、俺のヴァイオリンから目を離さない。
(さっきの女の子?)
(……2回も?)
胸の高鳴りは、1つへの確信へと繋がっていく。
── 香穂子。
もどかしいまでに拍手が終わらない。
けれど、喝采が鳴りやまない間は、1人の芸術家であるという理念が、俺をその場にとどまらせる。
俺は、再び一礼をしたあと、構えていた弓を降ろすと、一歩、目の前の女性に近づいた。
「……すみません。その、女の子がヴァイオリンを弾いていた場所というのは、どこでしょうか?」