*...*...* Trees 4 *...*...*
 クリスマス当日。

「あ、お母さん? ごめんね、月森くんから連絡あった?」

 肩で息をしながら、私は携帯にしがみつく。

 やっと会うことができる。
 そう思って予定の1時間前に行った空港の突然の閉鎖を聞いて、私が最初に取った行動は、自宅に電話をかけることだった。
 帰国したばかりで、きっと月森くんは携帯を持ってないだろうし。
 PCメールへ連絡を取ろうにも、この痛いほどの強い風と、下から舞い上がるような猛吹雪の中、空港内のモバイル環境もすべて利用不可になったと、さっきからインフォメーションはしつこいほど同じことを言い続けてる。

 お母さんは、のんびりとした口調で返事を返した。

「月森くんからの連絡? いいえ、ないわよ? なあに? 会えないの?」
「……うん。あ、でも、もう少し探してみる」

 空港内の一番の目印になっている、金の時計台。
 鋭利なナイフのような分針は、さっき見たときからくるりと1回転して待ち合わせを約束した時間を指している。
 1番ラッシュの時期は過ぎたのか、人はまばら。
 中には、久しぶりに会えたんだろうな、と想像できるような優しい抱擁をし続けているカップルもいる。

「どうしよう……」

 そわそわと落ちつきなく、私は、時計台の周囲を歩き回る。
 手には、小さなカバンと、そして、ヴァイオリンケース。
 私の気持ちが分かるのか、ヴァイオリンはケースの中、ことりと不安げな音を立てた。

『クリスマスの日にね、施設に入っている子どもたちのために小さな演奏会をするんだ。
 ぜひ日野さんと冬海さんにも参加して欲しいな』

 今日の昼下がり、王崎先輩にそう言われて、私と冬海ちゃんは誘われるままに、小さな演奏会でクリスマスの曲を奏でた。
 その余韻が私の胸を包んでいる。

『諸人こぞりて』 ── 去年のクリスマスコンサートでも演奏した思い入れのある曲。

『どうしてだろうな。君がこの曲を弾くと、小さかった頃のことを思い出す』
『そうなの?』
『クリスマス、というイベントを母はとても気に入っていたらしい。毎年リビングには大きなツリーが飾ってあった』

 そう言って微笑む月森くんは、私に草笛を教えてくれた時のように、屈託のない伸びやかな顔をしてた。

 その笑顔に、やっと会える、って思ってたのに……。
 どうしよう。このまま連絡が取れなかったら、今日は月森くんには会えないのかな?

 ふいに、かさり、とカバンの中の本が主張する。

「あ……」

 それは月森くんから譲り受けた教則本だった。
 カバンの口から見えるコバルトブルーの教本は、大切に扱ってきたつもりだったのに、ところどころに、微かな傷が付いている。

『俺がいなくなったあと、誰かが君のヴァイオリンのことを気にかけてくれればいいんだが』

 そう言ってた月森くんの、顰めた眉が浮かんでくる。
 まだつきあい始めていなかったころ。
 苦しそうにつぶやく月森くんの口元を、唇を噛んで聞いていたことを思い出す。

 あのね、ダメなの。月森くん以外の人では、私、ダメなんだ。

 もちろん、音楽科に転科して半年。私の周りに弦をやる人はたくさんいる。
 月森くん並に知識を持っている人もたくさんいる。

 だけど、どうしても月森くんじゃなきゃ、ダメなの。
 どうしてなんだろう、って会えない間、ずっと考えた。
 そこで、閃くように気付かされたことがある。

 私、月森くんほど、真摯な姿勢でヴァイオリンに臨む人を知らない。だからなんだよ。

「月森くん……」

 会いたいと思う気持ちが願いになる。

 ね、私に、なにができる?
 今、私が月森くんにできる、精一杯のことはなんだろう?

 背後にあるクリスマスツリーが、突然輝き出す。
 7時が点灯のタイミングだったらしい。
 周囲を歩いていた人たちも、幸せそうにクリスマスツリーを見上げる。
 カラフルな色のライトアップは、人の笑顔を照らした。

「あれ……?」

 私の記憶の中、大切に温めておいた場所がよみがえる。笑顔が、重なる。

 去年のクリスマスコンサート。みんなで最後の曲を奏で終わったとき、顔を見合わせて笑った。
 そんな私たち全員を、リリの魔法じゃないかと思うほどの、柔らかな光が包み込んだ。
 月森くんへの想いが溢れ出す。

 ヴァイオリンを通して見た夢を、夢のままでは終わらせたくないよ、私は。
 ずっと信じてる。
 私がヴァイオリンを奏でることは、月森くんに近づく第一歩だって。

 この1年、弾いたことがなかった。弾いたら、自分が壊れてしまうと思った。
 けれど、今、この場所に月森くんがいてくれたら、私と同じことをするはず。同じ想いを奏でるはずだから。

 指は、1年間奏でることのなかった旋律を正確に紡ぎ始める。

『苦しみの先にこそ、本当の喜びがある』

 何度も見た夢の中で、そう言って月森くんは励ましてくれたね。
 だから私は、ここまでヴァイオリンを続けてこれたんだと思う。

 作り出した小さな音たちはやがて旋律を作り、緩やかに『愛のあいさつ』を奏で始めた。
*...*...*
「わ、あ、あの。どうもありがとうございます……っ」

 いつの間にこんなに人が集まってたんだろう。

 弾き終えたときの拍手の大きさに、私は慌てて弦を下ろすと、あわてて頭を下げた。
 って私、いつものペースで、まるで学院内の講堂のような気持ちで、思いつくままの曲想でヴァイオリンを弾き続けていた。
 初めは、物珍しさから立ち止まった人たちも、たまたま、知ってる曲だったからだろう。
 楽しそうに目を輝かせて私の様子を見入っている。

「いや、良かったよ、お嬢さん。すまないがもう一度だけ、弾いてくださらんかね? ほら、今の」

 私のすぐ近く、一番前の場所で分厚い肩を揺らしていたおじいさんが、冗談でもなさそうな、真剣な眼差しで言う。

「えっと……。あの、『愛のあいさつ』、でしょうか……?」

 初対面の人のリクエストに、私はやや緊張した顔で尋ねる。
 おじいさんはもう聴く体勢を作っているのか、手にした杖に重心を預けると、深々とまぶたを閉じて、そのまま動かなくなった。

「えっと、じゃあ、お願いします」

 溜めてきた想いを込めて弾いた曲を、もう一度。
 そうリクエストされるのは、嬉しいことでもあった。

 目の前のおじいさんと月森くんとは似ているところは何もない。
 だけど、なんだろ。さらりと長い白髪は、月森くんの髪質に、どこか似ているような気がして。

 私は奏でているうちに、いつしか月森くんに対して弾いているような気持ちに襲われていた。

 去年のクリスマスコンサートの後、初めてお互いの気持ちを確認し合った。
 お互いの全てを許し合って、少しずつ、お互いの距離を埋めていった。
 だけど私たちには、それと同じ速度で、別れが追いかけてきた。

 ともすれば、何か言いたげな口を開く月森くんを、私は首をかしげて見つめる。
 けれどそれは言葉にならないうちに、切なげな腕が身体を締め付けてきた。

『── すまない』
『どうして? どうして謝るの?』
『君には寂しい思いをさせてしまうことになる。……いや、それは詭弁だ』
『月森くん……?』
『俺が君から離れたくない』

 そう言ってやるせない表情を浮かべた月森くんを、励ましたいと本気で思った。
 だから、絶対彼の前では泣かないんだ、って決めた。
 でも、私にとって、きっと彼にとっても特別なこの曲は、私の思いの丈を受け取ってくれたかのように鮮やかに駆けめぐる。

 深く息をつく。

 さっきまでいた大勢の人は出立の時間が近づいているのか、急に閑散として、床のリノリウムがやけに光って見えた。

「いや、いいものを聴かせてもらった。ありがとう。お嬢さん」
「いえ、こちらこそどうもありがとうございました」

 多分、一期一会の人。
 だけど、一時でもこの瞬間に音楽を作る側と聞く側になった、音楽の仲間ともいえるおじいさんに私は頭を下げる。

 ── 今日は、帰ろう。帰って、連絡を待って。
 月森くんとは明日また会えたら、いい。

 私は、クリスマスツリーの影にしゃがむと、幹に立てかけてあったヴァイオリンケースを広げる。
 ありがとうの思いを込めて、ヴァイオリンを片付ける。弓も入れる。

「あ、あれ……?」

 柱の影から、こつりと革靴の響く音がする。

「……ブラボー」


 透明な、声。
 いつもCDからの、ヘッドホン越しの声だった。
 それが、私のすぐ近くから聞こえる。
*...*...*
 ふわりと背中越しに腕が回される。
 右手の、見覚えのある、腕時計。匂い。そして、彼の体温。
 クリスマスツリーの華やかな灯りが作る男の人の影が、すっぽりと私の身体を覆う。

 おそるおそる、首に回された腕に触れる。
 しっかりした黒い防寒コートの中、今、私を抱きしめているのが月森くんの腕かどうかを確かめたくて。

 ずっと、こうして欲しかった。
 メールでもない、CDでもない、ぬくもりを持った月森くんに会いたかった。
 でも会えなかった。
 真摯な姿勢で自分の道を切り開いていく月森くんに、『会いたい』と告げることは、自分のわがままに思えた。

 だけど……。
 黒いコートの袖の上、ぽたぽたと雫が落ちて筋になる。
 重みを増した水滴は、何粒も足元を濡らしていく。

「……会いたかった、の」
「香穂子?」
「会いたくて。── でも、会えなくて。でも、会いたかったの」

 ……ダメ。
 もし、これが誰かの何かの冗談で。
 振り返ったとき、私の想っている最愛の人じゃなかったとしたら。
 ── 私、この場で、立ち上がれなくなる。

「香穂子。どうか安心して欲しい。……俺だ」

 無意識のうちに回された腕から逃れようとする身体を、2本の腕はたやすく抱きしめる。
 8ヶ月の間、辛抱していた月森くんの香りが身体中に知らしめてくる。
 やっと、会えた、って。
 ── 本当、に、月森くん、なの?

「君の顔が見たい。……見せてくれないだろうか?」

 苦しそうにそうつぶやくと、月森くんは はらりと落ちた私の髪をかき上げるようにして、身体を正面に向けた。

「香穂子」

 私は、目を見開いて月森くんを見上げる。

 ── 会えなくなって、8ヶ月。
 今目の前にいる月森くんは、想像の中のそれよりも少し大人びている。

 少し細く大人っぽくなった頬のラインと、長くなった前髪。
 今降り続く雪のように透き通った蒼い髪の間から、強い力を秘めた瞳が見え隠れしている。

 会ったら、ああ言おう、こう言おう、っていっぱい話題を考えていたのに。
 ヴァイオリンのことを聞いて。ウィーンの話を聞いて。
 聞いた分以上に、私もお話するんだ。
 月森くんがいない8ヶ月は、こんなんだったよ、って。

 あのね。星奏はね、すごく変わったんだよ。普通科の子もね、クラッシックのCDを聴いてくれるの。
 私、今でもコンサートの時みたいに、天気の良い日は、放課後、外で練習してるの。
 聴きたい、って曲をリクエストされると、嬉しいよね。

 それにね、みんな去年のクリスマスコンサート、まだ覚えててくれるの。
 月森くんの演奏が、ヴァイオリンの音色が忘れられない、ってみんな、言ってくれるんだよ?

 時間を越えて、みんなの記憶に残る音。
 そんな音色をこれからも、2人で作っていけたらいいよね。

 ── けれど。

 温めてきた言葉は何一つ私の口から飛び出すことなく、私は唇を噛みしめたまま、月森くんの顔を見つめ続けた。

「君のヴァイオリンは、また少し上達したようだ」
「あ、ありがとう……。そう、かな?」
「ああ。弦が。── 良く歌っている」

 月森くんはそう言うと、私の左手の人差し指を労るようにそっと撫でた。
 G弦を押さえることで、一番最初に固さを増すというこの指は、もうずいぶん前から、私の身体の中の一番堅い部位になっていた。

 手に触れて。匂いを感じて。目を見つめて。
 柔らかな瞳に包まれる。
 お互いの視線が絡み合って、微笑み合う。
 だけど、こんな短い時間でも、私たちは会えない時間に同じ気持ちを持って過ごしてきたことを感じていた。

 私たちはこれからも先、ずっとヴァイオリンと音楽を近くに感じて生きていくこと。
 ── お互いの魂の求める先に、お互いの存在があることを。


 話したいこと、いっぱいある。1日じゃ足りない。1週間でも足りない。
 月森くんがウィーンに戻る日までに話し終わらなかったら、私も月森くんみたいに、ヴァイオリンの代わりに言葉にして、CDに録音しなくちゃいけなくなるかもしれない。
 私の声だけのCD。月森くん、聞いてくれるかな? 呆れちゃうかな?

 そのとき私はようやく、月森くんがあるものを身に着けていることに気がついた。

「月森くん、眼鏡も似合うね」
「いや、これはその……。機内がすごく乾燥していたものだから」

 違う。私ったらこんなこと、言いたいわけじゃないのに。
 もっと……。そう。
 月森くんのヴァイオリンのこととか、ウィーンの音楽のこととか。
 彼の好きな、そして私たちを導いてくれる、音楽に関することを、聞きたいのに。

 月森くんは何を思ったのか、フレームに指を添えると、眼鏡の外すような仕草をみせる。

「眼鏡、外してもいいだろうか」
「ん……。すごく似合ってるから、そのままでもいいかも……」

 月森くんは心持ち頬を赤らめた。

「いや。眼鏡かけていると、その、……、その」
「なあに?」
「── 君に近づけない」

 悔しそうに つぶやく声と、唇に温かいものが落ちてくるのと、どちらが先だっただろう。
 私は静かに目を閉じる。
 網膜の裏に、クリスマスツリーの灯りが見える。
 その灯りは、去年、月森くんと一緒に見たコンサートホールのクリスマスツリーと重なって、さらに輝きを増した。

 私は、月森くんの温もりを両手いっぱいに抱きしめた。



 月森くんと、一緒に、いたい。

 私の求める先に、いつもあなたがいるように。
 どうか、私も。
 あなたが、ずっと求め続けてくれるような自分でありますように。
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